エピローグ
その日、早苗は都内にある美術館に足を運んでいた。マルセル・ルーベンスの企画展で、土曜日の館内には家族連れやカップルなど、たくさんの人で賑わっていた。
ルマークの指環の事件から二か月が経っていた。早苗の周囲の状況に、あまり変化はない。相変わらず泥棒は続けていたし、ミクルは推し活を続けている。及川も売れない小説を書いては、僕には才能がないと嘆いて早苗に電話をよこしていた。
早瀬からは葉書が届いた。いまはパリにいて、フランスを代表する若手芸術家のもとで修業を積んでいるらしい。忙しいようで葉書は一枚しか届いていないが、絵具にまみれた彼の笑顔からは、向こうでの生活が充実していることを窺うことができた。
ただ、早苗には少しばかり変化があった。それは、仕事を始めたことだった。
早苗はいま、都内にある建設資材を扱う会社で事務員の仕事をしている。仕事を始めようと思ったきっかけは、自分でもわからない。ただなんとなく、泥棒だけを続けるのではなくて違う世界を知りたいと思ったのかもしれない。ミクルからは「早苗さんが事務員なんて似合わない。せいぜい、三日もてば良いほうだよ」と言われたが、早苗は一か月以上ちゃんと働いている。
マルセル・ルーベンスの企画展が行われているのは帝国美術館だった。自分が盗みに入った美術館で、これまた自分が盗んだ画家の企画展が行われているのは、奇妙な巡り合わせだった。ただ早苗はルーベンスのことが好きだったし、事件を通じてもっと身近な存在として感じていることも確かだった。仕事で区役所を訪れたとき、壁にパンフレットが貼られているのを見て、早苗は行くことをすぐに決めた。
早苗は中に入ると、受付でチケットを買った。それから、企画展示室の中を順路を追って進む。盗みの下調べをしたこともあって、館内の作りは手に取るようにわかった。早苗は懐かしさを感じながら館内を眺め、そしてルーベンスの絵を見た。
ルーベンスの初期から晩年にかけての名画が集められていたが、どこを見てもルマークの指環はなかった。それはそうだろう。あの絵は里美が持っていて、大事に保管しているのだ。早苗は館内にいる来客者を見ながら、ここにいる誰もがルーベンスの未発表の作品があるとは知らないことを思うと、ちょっとした優越感に浸ることができた。
一通り企画展を見て、ミュージアムショップに入った。そこにはルーベンスのポストカードやクリアファイル、Tシャツなんかが売られていて多くの人で賑わっていた。
早苗は美術館に行くと、必ずポストカードとクリアファイルを買うようにしている。この日も、ルーベンスの絵を見て気に入ったものを、ポストカードとして買おうと思っていた。
ポストカードが置いてある円柱形の回転計器に近づき、気に入ったルーベンスの絵を見つけた。それを手に取ろうとしたとき、ふと誰かの手と重なった。横を見ると、一人の男が立っていた。
「あ、すいません」男が言う。
「いえ、こちらこそ」早苗もあわてて手を引っ込めた。
男はスーツを着ていた。手には、鞄を持っている。真面目そうな顔をした、気の良さそうな男だった。年は、早苗と同じぐらいだろうか?
そんなことを思っていると、突然男が声をかけてきた。「あの、もしかして」
「はい?」早苗は首を傾げてしまう。
「湊早苗さんですよね?」
「ええ、そうですけど」早苗はさらに首を傾げる。この男と面識があっただろうか?
「営業部の、田崎ですよ」男は自分の顔を指さしながら、そう言った。
「営業部の・・・」と言ってから、早苗の脳内で電球が光った。「ああ、田崎さんですね!」
目の前に立っている男は、早苗の勤めている会社の営業部の男だった。早苗は経理課で働いているため、営業部の社員とあまり関りを持つことはない。だが、一度だけ何かの用事で田崎とやり取りをしたことがあった。早苗はまったく覚えていなかったが、向こうはそうではなかったのだろう。
「よかった。思い出してくれたんですね」田崎が人の良さそうな笑顔を見せる。
「田崎さんも、ルーベンス好きなんですか?」早苗は驚きながらも、そう訊ねた。
「そうなんですよ。僕はルーベンスが大好きで、画集も持ってるんです。ただ、今日はどうしても行かないといけない得意先がありましてね。なので、そこの用事をさっさと済ませて、そのまま来たってわけです」
だからスーツ姿なのだろう。早苗は得心した。
「そうだったんですね」それから早苗は、ちらっとポストカードを見た。「あの、これ、良かったらもらってください」
そう言ってポストカードを指さした。それは最後の一枚だった。
「え、いいんですか?」
「いいですよ。私、他にも欲しいポストカードありますし。これは、田崎さんがもらってください」
田崎は迷った顔をしていたが、ポストカードに手を伸ばした。それを取ると、「じゃあ、これは僕がもらうんで、ご飯でもおごらせてください」
「えっ?」
「ここの美術館のレストラン、最近カレー屋になったらしいんですけど、美味しいって評判なんですよ。良かったら一緒にお食事しませんか?」
早苗が困ったような顔をしていると、田崎が「いきなりすぎますよね」と頭を掻いた。「僕、お誘いするの下手なんですよね」と顔を赤くしている。
早苗がなんと言おうか迷っていると、いきなり「僕、早苗さんのことが気になっていたんです。良かったら一緒に、お食事してください」と頭を下げた。
声が大きかったのか、周囲の客が振り返った。田崎は恥ずかしそうにあたりをキョロキョロ眺めていたが、その様子を見て早苗はふっと笑った。
「田崎さんは」
「はい?」
「田崎さんは、泥棒についてどう思います?」
「泥棒ですか?」突然、脈略もない質問をされた田崎は困惑していた。
「もし身近な人間が泥棒だったら、どうしますか?」
「そうですねえ」田崎は顎に手をあて思案していた。それから「世の中は泥棒だらけなんで、別に驚かないですよ。ただ」
「ただ?」
「身近な人間であれば、幸せでいてほしいな、って思います。たとえ、泥棒でも」
幸せか、と早苗は思った。昔はよく、このような質問を知り合った人々にぶつけていた。幸せでいてほしいという答えは初めてで、早苗は少し新鮮さを感じた。
「いいですよ」
「え?」
「いいですよ。一緒に、お食事しましょう」
「ほんとですか」田崎がぱあっと顔を明るくする。「僕、今まで断られた経験しかないんですよ。初めてオッケーもらえて嬉しいです」
余計なことを言う田崎がおもしろくて、早苗はさらに笑った。
真面目な人なんだろうなあ、と考える。早苗がこれまで見たこともないような、早苗の住んでいる世界からは考えられないような、まともで純粋な男だった。
「焼きチーズカレーってのがあって、それがおすすめです」
嬉しそうに話す田崎を見ながら、幸せについて、早苗は想いを巡らせた。