第34話 迷い
ショートボブぐらいの黒髪、おでこから突き出た二つの赤い角、露出の多い服。
男達に囲まれていたのは、以前祭りで会ったことのある魔族の少女だった。
その事実を知って、俺は言葉にできない焦りを覚えた。
「やあ゛あ゛あ゛ああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
母親を蹴り飛ばされた少女の叫び声は先程よりも大きさを増し、今にも喉が焼け焦げるのではないかという勢いだ。
「うるせぇぇなぁぁあ! そうやって油断させる気だろ卑怯な魔族が!!」
男が泣き叫ぶ少女に手を上げようとするのを見て、助けなければと思って足を踏み出そうとした。
しかし、それは叶わなかった。
まるで足を誰かに掴まれているような、泥沼にでも足を取られたような感覚に陥った。
これが俗に言う〝金縛り〟と言うやつだろうか。
そして鮮明に蘇った、社交会での出来事。
背中からは脂汗が吹き出し。何かが俺に覆い被さって離れないような、そんな感覚があった。
俺が動いてどうなる?
いや、そもそも動くべきなのか?
勝てない相手ではないかもしれない。というか、あの子を連れて逃げるだけなら余裕かもしれない。
でも、戦闘が一切なしで逃げ切れる保証なんてどこにもない。
また余計な事をして、その弾みで誰かが死んだらどうする。
俺は簡単に人を殺せる力を持ってしまったんだ。突飛な考えだけで動いてはいけないんだ。
あの男は今さっき『奴隷』と言った。
ザモアも言っていたじゃないか、この世界でのこういった場面は〝普通〟なんだよ。
俺が何もしなければ誰も追ってこないし、そうなれば万が一殺してしまうなんて展開もない。流石にあいつらも彼女等を殺すことまではしないだろう。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
肌がひりつくほどの叫びを無視して、俺は彼女から視線を逸らした。
そう、〝普通〟なんだ。
俺がいちいち突っかかっていてはキリがないだ。
ここは俺のいた日本じゃない。
それに、よく見てみれば彼女らを囲うメンツの中には騎士がいる。彼らと揉めるのも良くない。
この国で魔族を庇えば、さらなるトラブルは避けられないだろう。
ラトーナやアーベス達に迷惑がかかる。
「ッ……このガキ……」
一向に泣き止まない少女に痺れを切らした男が、少女に向けてゆっくりと鞭を振り上げた。
俺の背筋は凍った。
風を切る音と共に、男が鞭を振り下ろすが、すんでのところで母親が少女を庇う。
バチンッッッッッッ!!!
辺り一帯に響く破裂音と共に、母親の背中から血飛沫が舞う。
母親は男に背を向けたまま、膝をついて動かない。
「おい何やってんだ! 商品傷物にしてどうするっ!」
少女を囲んでいた男の1人が、鞭を持つ男を咎める。
「あ!? 別にいいだろ! どうせ親の方は処女でもねえんだ! 大した額じゃ売れねえだろ!」
鞭の男はそう言って、もう一度その手を振り下ろす。
「ーー•……!」
娘を心配させまいと、母親は息を殺して、振り下ろされる鞭に耐えている。
時々彼女が漏らす悲鳴にならない声は、聞くに堪えなかった。
「へへっ、憂さ晴らしには最適だな!!」
ニタニタと、気持ちの悪い笑みを顔に貼り付けながら、男はまた鞭を振るう。
何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
「•ー•ー•!!!!」
ただ、何度も。
破裂音に合わせて、少女の叫び声も辺りに響く。
「ほらよ!!」
何度も。
「死ねっ! 原始人!!! 魔物がッッッ!!」
何度も。
「やあ゛あ゛あ゛あああぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
少女が泣き叫ぶ度に、その鞭は速さを増す。
「クソがッッッ! 汚ねえ髪の色しやがって!!」
母親は動かない。
背中が抉れている。鞭に棘がついてるんだ。あんな薄着であれを喰らったら相当の激痛だ。
だというのに、背中からは血がドバドバと流れ出ているのに、強い意志でその場に留まっている。
そんな光景を目の当たりにして、とうとう俺は震えが止まらなくなっていた。
動悸も激しく、汗も止まらない。
今も鞭の音は響いている。
簡単な事なんだ、ただ振り向いて、ラトーナ達の元へ戻る。
道はわからないが、最悪カタパルト射出で飛べばわかるだろう。
助けようなんて考えてはダメだ。彼女らはそういう運命にあったんだ。
なにより、ここで動いたら、ラトーナ達とはもう会えな––––
ゴスッッッッッッ!!!!
逃げ出そうと俺が彼女達に背を向けた時、辺り一体に鈍い音が響いた。
反射的に振り返ると、そこには血がベッタリとついた棒を持っている商人と、ぐったりと少女に覆い被さる母親の姿があった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁッッッ!!!!!」
「何やってんだ! やり過ぎだ!!!」
頭が真っ白になった。
「あーあ、勿体ねぇ〜ことしやがって……」
動かなくなった母親を前に、男達は口々に棒を持つ男を非難した。
「うるせえなあ! 中々言うこと聞かなかったからちょっと強くやったんだよ! いいからとっととガキだけ連れてくぞ!!」
結局、俺は自分を止められなかった。
ぐったりと地面に張り付いている母親と、それにゆっくりと擦り寄る少女。
少女の顔を見てしまった俺は、もうこの場から逃げられなかった。
気付けば走り出していた。
「誰だお前!!」
俺に気づいた男の一人が声を上げる。
しかし、俺は足を緩めない。
少女の元へ真っ直ぐ全力で走る。
ーー濃霧ーー
そう念じると、俺の足元からたちまちに、路地裏全体を覆うほどの霧が発生した。
一瞬にして、この場にいる全員の視界が白一色になった。
濃霧の中、俺は少女を手探りで何とか見つけ、急いで抱き抱える。
「やあ゛っ!」
彼女を連れて行こうと歩きだした時、何かに引っ張られて、その足が止まった。
敵に捕まったのかと思い、急いで振り向くと、敵なんかよりもっと嫌なものを見た。
俺に抱き抱えられた少女が、冷たくなった母親の手を握って離さないのだ。
俺の方が力が強いはずなのに。進めないのだ。
まるで、母親が娘を引っ張ってでもいるかのようだ。
「風魔術を使え!! 霧を払うぞ!!」
混乱漂う濃霧の中で、誰かがそう言った。
このままではまずい。
逃げきれない。
そう思った俺は少女を母親から無理矢理引き剥がし、土魔術で足元を勢いよく隆起させ、その勢いに乗って少女ごと空中に飛び出し、濃霧を抜けた。
後ろは出来るだけ振り返らないようにした。
ひとまず、この場から離脱しよう。それだけを考えた。




