第140話 言葉の重み
深夜までじっと待っていようと思っていたが、アインは俺が待ち始めてから一時間ほどすると現れた。
「やぁ……ディンか……どうしたの……?」
自室の扉を開けたら他人がいたというのに、彼女は全く驚く素振りも見せなかった。
「その顔……」
ふらふらと部屋に入ってきた彼女の顔には生気の『せ』の字も無く、目も半開きで今にも死にそうな印象を受けた。
「はは……ちょっと、疲れてて……」
薄笑いにも似た苦笑を浮かべながら、彼女が一歩二歩とこちらに進んでくると、それに伴って彼女の体臭が俺の鼻をついた。
血と汗と、吐瀉物の混じった匂い。
冒険者時代は毎日のように嗅いだものだ。
身に纏っているジャージもボロボロで、乾いた誰かの血がベッタリと付着していた。
「ごめんね臭いよね。迷惑かけないように夜に帰るつもりだったけど、もう限界で……」
そう言いかけたところで、アインが膝から崩れ落ちた。
「あっ、ちょっ!」
慌てて椅子から立ち上がって、彼女を支えた。
「やめっ……臭いでしょ……?」
赤子にも及ばない弱々しさで俺を突き放そうとするアインを無視して、彼女を抱き抱えてベッドに放り込む。
「ほら、これ飲んで」
土魔術で即席のコップを作り、そこに水を注いだものを彼女に渡す。
アインはそれをゆっくりと受け止ったかと思うと、コップを仰いで水を一気に飲み干してしまった。
「ふぅ……」
少しだけ、彼女の血色が良くなった気がする。
気のせいだろうけど。
「まだ飲みますか?」
「……うん」
コップに水を注ぎ足した。
彼女はそれをまた一息で飲み干した。
「で、今まで何をしてたんですか?」
しばらくし、アインの息も整ってきたところで、俺は問いかけた。
大方、何か無茶な修行でもしていたのだろうがな。
「稽古をしたり、冒険者ギルドで剣を教わったり……それと……」
「それと?」
「魔物を襲ったり……」
「それは冒険者の仕事ってこと?」
「うん……そんな感じ……」
「上のランクの人に着いていったんですね」
「……」
冒険者になると最初の階級はFだ。しかも未成年となれば仮登録で援助も受けられない。
マトモな討伐系の正規登録からしか受けられないから、そのランクのパーティに入れてもらう他にない。
「なんでそんな危ないことしたんですか」
少し語気を強めながらそう聞くと、弱々しかった彼女の目つきが、猛獣のようなものに豹変した。
「それは……僕が弱いってこと……?」
「強いとか弱いの話じゃありません。冒険者業は騎士のそれとは別物です。
慣れてもないのに、いきなり討伐なんて危険なんですよ」
そう説明すると、アインは眉間に皺を寄せて目を細めた。
納得していないようだ。
「でも……ディンとかなら平気なんだろう……?」
なぜ今の流れで俺が出てくるのだろうか。
「そんなわけないでしょ。冒険者業を舐めないで下さい」
「……でも……ボクは出来たんだ」
俯きながら彼女はそう呟いた。
「どこがですか?」
その呟きに応えると、彼女はギョッとしたように顔を上げた。
目玉が飛び出すのではというほどに見開かれたその瞳には、一瞬殺意さえこもっていた気がする。
だが、俺はそれに動じることなく、話を続ける。
「そんな余裕もないフラフラの状態で、帰る道中に襲われたりでもしたらどうするつもりなんですか?」
「帰りはメンバー達が守ってくれたから……」
「そうじゃなくて、ギルドから学園に帰る時の話です。そんなに弱ってたら、人攫いにでも襲われたら一発で奴隷ですよ」
端とはいえ、ここも王都。
治安はそれなりにいいので、そんなことは滅多にないのだろうが……
「マルテがまだアインに何かしてくる可能性だってあります。また武闘会の時のようになってもいいんですか?」
「ッ! うるさいなッッ!! そうならない為に頑張ってるんだろッッッ!!!」
弱った人間から出たとは思えないほどの怒声が、部屋に響き渡った。
俺は呆気に取られて、口をつぐんだ。
「大体なんなんだ君は! ボクの師匠でも、親でもないのにお説教して!! そんなにボクを下に見ているのか!!!」
驚くと同時に、アインの言い分にも納得した。
たしかに、弟分の俺に上からギャーギャーものを言われるのは嫌だわな。
「見下してなんかないですよ」
「嘘だ。どうせボクは馬鹿で弱くて、見下されてて、嫌われてて……本当は婚約も嘘なんだろ!?」
足を抱き抱えながら、彼女は膝に顔を埋めた。
「……はい、婚約は嘘ですよ」
「……え?」
アインは目を見開きながら、バッと顔を上げた。
「あれは、俺がペンダントのことも何も知らずに、母さんに言われるがまま作ったものです」
「え……あっ、あ……」
ギョロギロと目を泳がせながら、彼女は言葉を詰まらせた。
その表情は驚愕の一言である。
段々と目元に涙を浮かべながら、俺に手を伸ばそうとして、でも引っ込めて。
彼女は怒らなかった。
『よくも騙したな!』と声を荒らげることも、拳を振り上げることもせずに、ただ困惑していた。
「なっ、なーんてね? もし俺がそう言ったら、どうするつもりだったんですか?」
予想以上に凍りついた空気。
俺は罪悪感に耐えられず、少し間を置いてそう言った。
彼女は展開について行けず、キョトンとしている。
「お説教の方はすみません。俺は俺で結構心配してたんですよ」
「あ、うん……こっちこそ怒鳴ってごめん……」
ハッとしたように、俺に頭を下げ返すアイン。
ようやく状況を整理できたようだ。
「今日は頼みがあって来たんですけど、アインも疲れてるでしょうから、また改めて朝来ます」
「あ、うん……」
ひとまず椅子から立ち上がって、部屋の扉に手をかける。
「ちゃんと休んでくださいね? あと、寝る前にちゃんと体を清めてください。不衛生にしてると解毒でも治せない病気になります」
「わっ、わかってるよ!」
「なんなら俺が体を拭いてあげましょうか?」
両手で何かを揉む動作をしながら、笑いかける。
「いっ、いらない!」
「そうですか。それじゃあまた明日」
アインが布団にくるまるのを見届けて、扉を閉める。
「ふー……」
廊下を歩き始めてすぐ、魂でも抜けるのではないかというほどのため息が出た。
あの時、チャンスだと思った。
あそこで婚約の真相を明かせば良かった。
それでアインが怒って殴りかかってきて、俺が謝り続ければ、喧嘩にはなってもなんだかんだ仲直りは出来たかもしれない。
でも、アインは怒らなかった。
やつれた顔で、酷く悲痛な表情を浮かべていて、今にも自殺しそうな様子を見せた。
全然予想と違くて、いたたまれなくなって、俺はついそれを嘘だと言ってしまった。
結局、言えなかった。
俺は思っていた以上に、アインを悲しませたくないらしい。
好き……ではないはずだ。
ヤってみたいとは思うが、愛とはまた違うはずだ。
「はぁ……」
ため息が止まらない。
まだ夕方だけど、早く寝ようと思った。
ーーー
部屋に戻ってそそくさとベッドに潜り、目を閉じる。
すると、俺は例の夢を見た。
「……またか」
周囲を見渡しても真っ暗闇。
気持ちの悪い浮遊感だけがある空間だ。
《久しぶりだね〜》
そんな闇の中に、合成音かのような声が響き渡った。
「なんで夢の中に出てくるんですかねぇ、ヒ◯ガミごっこですか?」
《ん? ひとがみ? 》
「そこはどうでもいいだろ。ていうか俺、あの変な根っこに触ってないのになんで……」
《パスを繋いだと話しただろう? ユグドラシルの根に触れる必要はもうないさ》
「え、あれユグドラシルの根っこだったの?」
《そうだとも。君はいま王都にいるんだよね。北寄りだから遠いけど、せっかくだから実物を見に行けば?》
「忙しいんだよ」
《はははー、モテモテ過ぎるのも大変だねー》
「人の色恋沙汰を覗くとは、飛んだエロジジイだな」
《私はどちからと言うとババアなんだけど……まあいいか。で、君はどうするつもりなの?》
「なにが」
《婚約者のことに決まってるだろう?》
いきなりなんのつもりだ?
それとも、わざわざ聞くってことは何か重大な意味があるのか……?
実は俺の子孫がヴィヴィアンを殺してしまう的な……
いや、ないか。どこの魔導王さんだそれは。
「……お前に関係ないだろ」
《ないけどさ、気になるじゃん》
「聞き出してどうするんだ? 誰かを操って殺すのか?」
《しないよ……私を何だと思ってるのさ……》
「妖精族を騙して魔剣にした外道」
《痛いところ突くなぁ……》
「あと言い回しが胡散臭い」
《秘密主義だからね☆》
「尚更信用できないわ」
《酷いなぁ……私は一応、君の味方なんだけどなぁ》
「味方とか敵とか言う奴が一番怪しい」
《……》
あれ、黙っちゃった。
怒らせたかな。
やばいかも、こういう血も涙もない奴を敵に回すのが一番怖い。
朝起きたら、呪い避けのカートリッジに詰められているやもしれん。
《じゃあ一つだけ、君に明かそう》
と思ったら、ヴィヴィアンはため息混じりに再び話し出した。
今度はいちいち反発せず、大人しく耳をかそう。
《もし君が結婚して、子供を作るってなった時は気をつけるといい》
あれ、なんか良くない流れかも。
「な、なんでだ?」
《君は龍人と妖精の混血、この世界では歪な存在だ。普通の人間と性交しても、子供はちゃんと産まれないかもしれない》
「え、は? そんなことあるのか……?」
《少なくとも、君と似たような肉体を持つ私はそうだったよ》
視界は真っ暗なのに、頭は真っ白になった。
つまり俺は、不能だということなのだろうか。しかも、生まれつきで治らないタイプの。
《だから、ちゃんと妻となる人間には話しなさい》
「なんでそんなこと……今言うんだ?」
《君に嫌われたくないから〜》
「なんで……」
《私はね、終わりのない物語が見たいんだ》
意味がわからない。
こいつが自分勝手なことを言っているのはなんとなくわかる。
でも、何がダメで、どこを責めれば良いのかがわからない。
俺は自分で思っていたより、頭が悪いようだ。
「嫌われるのと、物語になんの関係が——」
《じゃあ、そんなわけで今日は様子を見たかっただけだから》
「あ、おいちょっと待——」
暗闇の中で俺を包んでいた浮遊感が突然消えて、どこかに落下するような感覚に襲われて、俺はベッドから飛び起きる。
「っ……」
窓から差し込む陽光が俺の顔を突いて、反射的に目を細めた。
流石な部屋には、鳥の囀りが背景音楽として流れている。
気づけば、朝になっていた。