瑠璃色華晶
貯金の半分を切り崩して、瑠璃色の角を買った。退職届をたたきつけた心の淀みに浸る帰り道のことだった。路地裏にうろつき、瑠璃色の輝きを見せるアパートがあった。そこで一つ百万もする瑠璃色の角が売っていたのだ。壁の色はくすみ、住人の影も見えない。二階建てで地震がきたら一気に崩壊しそうなほど柱が細く、ドアの金属部分が赤茶色のさびが浮いている。アパートの一階で、机にいくつかの角が置かれていた。どれも瑠璃色の角ではあったが形状が一つ一つ異なっていた。周囲を見渡しても、誰もいないようであったから、一つだけ手にとってみた。親指と人差し指で挟み込む。ぐっと親指と人差し指を開けたぐらいの大きさだった。近くにある街頭にかざしてみると、ほんのりと光を宿していた。ガラス片を名匠が磨き上げたように、角の形に収まっている。この角が鬼という生き物に取り付けられているとは考えにくく、それを想像すると、鬼はどれほど美しい生き物か、醜く腐った私が悲惨に思えてくる。置かれていたリーフレットを立ち読みしていると、知らぬうちに私は銀行からお金をおろし、札束を積んで、購入していた。リーフレットと説明書を片手に、近くのホームセンターで角が一個入るほどの円形プランターや土を買い、リーフレット通り、おぼつかないながらも、角をプランターに入れてやわらかく土をかけてやった。瑠璃色の輝きはなおも土の中から響きわたっている。暖をとれそうな猛々しさがあった。
『角の形をしているが、これは種であるからに、きちんと育てていれば芽がでる』
簡素なリーフレットに角の形状や育て方、そうして何ができるかが事細かく描かれていた。添えられている絵は、筆の濃紺や、太さ細さの抑揚があり、手作り感がある。あのアパートのみで育てられた、自家製の角なのだろう。
『水はいらぬ。心して待て。窓辺に置け。光をいれてやると角は喜び、早くに芽をだす』
そうあるのだから、私はリーフレット通りに自室の窓辺に置いた。カーテンを開かせ、冬のどんよりとした曇天を伺った。幾重にも雲が折り重なり、光があたらない。いつか雲も流れるだろう。せめてもの情けで物干し竿を片付けてやり、ベランダの中央へ置いてやった。そうして私は土の上からなでてやる。
はやく芽を出し、その瑠璃色の光を私に見せてくれ。寂しくてたまらない。角の輝きを見たい。
その日から、私の楽しみは角を植えた土をなでることになった。
仕事をやめてしまい、やりたいこともなく、無気力になった。ご飯も食べに行くことも買いに行くことも億劫で、テレビの電源をつければ、雑多な会話が続く。笑い笑われて、旬になりつつある俳優のプロフィールが紹介される。見知らぬ人の見知らぬ経歴に興味を持てずにいる私に嫌気がさす。人に興味をもてよと、なんどか言われたことがある。テレビの中の芸能人はどの人でも興味を持ち、質問を繰り出していた。そこに私の居場所はなかった。ニュースキャスターがにこにこと端で何も言わずにたたずむ。その居場所がどれほど楽だろうか。歯がゆくなり、テレビのスイッチを切って、はあとため息を吐き、リーフレットを読んだ。遅れて、隣室から壁をどんっと鈍く叩かれた。
『話かけてやると、より早く芽をだす』
ベランダに出、未だに明けぬ雲を見上げた。冬の寒気に溺れて、息がしずらい。乾燥した空気が肌を突き刺す。喉が渇く。裸足のまま、スウェット一枚でみすぼらしく、プランターの袂にしゃがむ。白いプランターの中はちょこんと、瑠璃色に輝く角の先端が見えていた。宝石のような輝きはそのままで色も寒そうに姿を突き出す。余った土があったので、やんわりと土をまぶす。手が汚れるのもいとわず、土をなでてやり、はやく芽をだせと願う。
「何もする気が起こらないんだ」
話しかけてやるというのは、こういう感じでいいのだろうか。ただのぼやきなのだが。リーフレットにはそれ以上のことは書いていない。はぁ、と今度は小さく息を吐いてみると、白い吐息に変化した。凍てついた時間に隣から、どんどん、と壁が叩かれて亀裂が入る。どんどん、とまるで壁を突き破らんばかりの勢いである。続いて、怒鳴り声が壁を越えてやってくる。
──お前がいたから、私は自由になれない。
わめきちらすヒステリックな女の声に私は耳を塞ぐ。この声も、この言葉も私にとっては毒であった。ただ眼下にいる角はこの声が好きか嫌いかと言えば嫌いであるだろうから、今度は私が土に手をあててやる。すると、瑠璃色の光が手に点った。不思議なこともあるものだ。光は肌の生気のように覇気をまとい、肌の下の血管を青く際立たせる。その手を掲げてみると、雲の色が明るくなった。手を引っ込めて、見つめていると、隣の窓が開き、ベランダに誰かが入ってくる。窓の鍵は閉まっている。いつものことだ。私は、瑠璃色の角につぶやく。
「足踏みせずに、早く出て行った方がいいよ」
その夜、私は夢を見た。久方の夢であったので、存分に楽しむことにした。夢の中でいつもの自室で隣室の住人のヒステリックな声をベッドの中で聞いていた。私が一言話すと、どんっと叩かれる日々。それは自体は変わらなかったが、眠っている私の傍に、何かがとてとてと歩いてきた。小さな生き物だった。見知らぬ瑠璃色の花が描かれた着物を着た子どもらしい。黒いおかっぱ頭をしている。その小さな生き物は、プランターから這い出したと思えば、私の元に辿り着き、動かない私の人差し指にかぷっとかみついた。牙が上手く食い込まず、もう一回かぷっ。そして、小さな生き物は何かを吸い上げて、光悦に浸る。目を細めて、一通り吸い終わると、牙を外して、プランターにまたとてとてと歩み小さく帰って行った。
起き上がると、体の節々が痛んだ。寝過ぎたためか頭痛がし、歩くことが困難であった。一口だけ米を食すと一気に動きやすくなる。血の巡りが悪くなっていたのだろう。
『芽をだすまで、夢を見る。血を吸う鬼がでる夢である。芽をだすまで愛でるべし。鬼は芽を出すために応えてくれるであろう』
リーフレットに描かれた鬼の姿は、昨夜見た夢の小さな生き物とそっくりであった。瑠璃色の文様が綺麗で、再度みたいと思わせる。刺繍が細やかな見事な着物であったと夢が覚めてから気づかされる。
ベランダのプランターを見ると、昨日よりも、角の先が土から覗いていた。どうやら土が少なかったわけではなく、成長しているらしい。土はかけず、ちょこっと出ている角の先を指先でとんとんと叩く。きりり、と肌を圧迫し、ぷつっと突き刺さり、鋭利な刃物で刺されたように、一点に血液が溢れ出す。丸ぼったい血液は指の腹を伝い、土へとしたたり落ちた。
『角の養分は血液である』
土に吸われた私の血液は、しみこみ、じわりと広がっていく。角の輝きは先ほどよりも濃くなり、暖かな瑠璃色の光が漏れ出る。何もやる気は起こらないが、私のものを与えるくらいならできそうだ。
──お前がいるから、お前がいるから。
隣室の声が今日はすすり泣くような声になっている。誰かにすがっているのだろうか。昨日よりも陰惨な悲鳴に聞こえてならない。途端に私の上の部屋からけたたましく足音がした。あっちこっちへと動き回る。どすんっと何かが落ちた音がする。そして、男の大きな大きな雄叫びがアパート中に行き来する。
──なんで、なんで死ねないんだ。死なせてくれ。
上は血反吐を吐き散らし、隣はすすり泣く。私は、ゆっくりと角に血を与える。この量の血液でどれほど大きく育つのか未知数だった。やはりもっと多く話しかけた方がいいだろうか。しかし、話すこと自体も億劫になっている。
「早くその姿を見せてくれ」
何もかもすることがなく、日がな一日無気力に過ごしていた。ただただ貯金を切り崩し、このアパートから追い出される日を待っている。曇天は晴れず、今日も幾重も分厚い灰色で塗り尽くされていた。光の度をこちらに向けてくれるだけでいいのに、一切光は当たらず、目を沈めるばかりである。
夜になると、小さな鬼の夢を見た。プランターから躍り出て、私の元へと駆け出し、指にかぷっと噛みつく。小さな牙が、吸い出すものを見届ける。おかっぱ頭が小さく動く。最初の夢よりも体が動くようになっているから、おぼろげに鬼の頭をなでる。髪は艶めきたつ。瑠璃色の花弁の匂いだろうか。甘く酸っぱい、匂い鼻先をくすぐる。
朝、目が覚めると、そこには蔦で覆い茂るベランダの姿があった。蔦先は瑠璃色で染まり、ラベンダーのような甘い匂いがたっている。だが夢で香った匂いにはほど遠く薄く水で割ったように濁っている。透き通った、葉脈は瑠璃色と翡翠で、まだ磨き足りていない。触れていると、ふうりんの鳴る音がした。
──お前がいてよかったよ。
そう、言ってくれるのなら良かったではないか。
ふうりんと、隣の声とが重なり合う。もうふうりんなんてここにはないのに。今は冬であり、目の前には濁った冬空が漂っている。重苦しい空から目を背けて、隣のふうりんの音に耳をすます。
──出て行かないでくれ。お前がいないと、どうすればいいんだ。
どんどん、と今度はふうりんと共に壁が叩かれる。地鳴りの音がする。地団駄を、上の階の住人が踏んでいるのかもしれない。私は、手元の蔦を触り続ける。あのおかっぱ頭をなでた感触や、夢の匂いを思い出す。忘れてはいけない気がした。一方ですがりつく感触に、気味が悪くなる。居心地の悪さを覚えて振り払った。どうあっても、私は未だに耳心地がいいことばかりに耳を傾けている。
──私は、もう疲れたんだ。
テレビは埃がかぶり、鬼はかぷっと続けていく。毎晩プランターを眺めて、寝食忘れて睡眠を貪った。やることもなく、貯金残高を調べることもやめた。もうとうにアパートの家賃を払うことすらできなくなっていても良い頃合いだというのに、電話一つかかってこない。最初に電気が止まり、次に水道が止まった。ゴミの置き場すらなくなっていく。睡眠時間だけが異様に伸び続け、ベッドから動くこともなくなった。
蔦はベランダから部屋へと侵入し始めたので、窓は開け放しにしておいた。寒さは毛布を幾重にも重ねてなんとかなる。プランターから下に垂らされた蔦は、窓の枠につかまり、ベランダの柵へと巻き付き。私の部屋に、床を這い続けた。ついに私のベッドへと辿り着き、夜ごと現れる鬼は、プランターからではなく、蔦から這い出すようになった。
『芽がいよいよでるときは、鬼が呼ぶ』
その日が来たのやもしれない。鬼が私の指に辿り着いても、牙を突き立てて噛むことなく、私を見上げていた。丸い瞳は瑠璃色の宝石がはまっている。きらきらとしたそれに、頭をなで、ベッドから、ゆっくりと起き上がった。何日も食べていないが、夢の中であるため、体が軽く動いた。鬼が私の指を引くので、夢を壊さないように、力が込められた方向に歩みを進める。進むたびに、きらびやかな刺繍がほどける。瑠璃色の糸がほつれていく。糸を辿る。道なりに抜けると、瑠璃色の葉が重なったベランダに着く。蔦で元のベランダの位置すら見分けられない。
『芽がでなければ、鬼に語りかけるといい』
芽はどこにもなかった。私は蔦を賢明にかきわけた。鬼は私の肩でおすわりして見ている。きらきらと瑠璃色に輝く葉に手を当てると、ふうりんのような音色が響く。からん、りりん、ころん、と様々な色を聞きつけて、心地よい音色を私の脳内におさめる。
「もう、なんだか全部、めんどうくさくなったんだ」
ころん、と葉が鳴る。私の心が折れたような音だった。仕事をやめた時の、あのときの転落した心の本音だ。
「みんな忙しそうで。みんな自分のことばかりで」
りりん、とふうりんの音がした。私の隣のふうりん。もうずいぶん前に隣は引っ越して空室だった。あるのは置いていった季節外れのふうりんだけだ。あのとき、いた傷だらけの子どもと自分を重ねていた。おかしなことだ。私はもう長いこと独り身で、寂しくもなんともないのに。
「みんな、に自分が入っているのを知ったとき、しんどくなった」
なんで死ねないんだろうね、と上の部屋で人が自殺したときそう思った。あんなにあっけなく上の部屋で人が死んだのに、私は未だに死ねていない。死ぬほどのことをせずに、忙しさにかまけて、自分のことばかり終始している。
「もっと興味をもてよと言われればそれまでだが、あいにく私は私にも興味がなくてね」
気づけば何ももっていなかった。
「もっと気遣ってあげなよ、と言われてもな。そんなことは知っているんだよ」
優しさに、忖度に、人間関係のそういったやわらかいものがしんどくなったのは、いつのころからだっただろうか。一人で飛び出して、仕事をし続けた。流されるままに、体をゆだねた。すると、知らない間に他人に興味も何も持てない「鬼」と化していた。人のことなどどうでもいい。興味もない。会話も、言葉も、億劫だ。
「こんなやつでも、お前は血を吸い、養分としてくれるか」
瑠璃色の角は鬼の種だ。私を鬼として葬ってくれる、ゆるやかな安楽死を与えてくれる、そんな種だ。養分に血液と生命を吸い、美しい瑠璃色の華を咲かす。
──瑠璃色華晶。
と、いうらしい。
私はベランダへと足を踏み込む。紺碧の澄み切った冬空が月をたたえている。月明かりに目をくらませ、顔を下げると、ベランダの端に、小さく角の形をした瑠璃色が芽をだしているのが見えた。ガラスのように、光を瞬かせる。反射した光が、薄い瑠璃色の葉脈に注ぐ。しんなりとした風が吹き、からからとベランダ中にある葉が鳴り響く。ふっと目を肩に向けると、鬼はいなかった。
『芽がでるのは、宵である』
リーフレットに書いてあったことを反芻する。
『芽が咲くのは、明けである』
先ほどまでの夢は覚め、朝焼けがベランダに降り注ぐ。まばゆいばかりの朝焼けに、細くなった手をかざす。からから、からからと葉は鳴り続ける。瞼を閉じて、そして、一気に目を開けた。瑠璃色の花々が咲き散り、きらきらと朝焼けを受けて、ベランダから吹きだしていた。切っ先の鋭い角が蔦の下から、そこら中に覗き出ている。まるで鬼が隠れているかのように見え、そこでほんの少しだけ、もう少しここにいたいと思った。生命を吸う角にありったけをもらわれ、立っているのもやっとだが、瞼を閉じずに瑠璃色華晶を見つめ続けたい。私はうずくまり、重い瞼を必死になって開け続けた。瑠璃色の角が私の傍に駆け寄ってきているかのようだった。
だが、驚くことに、瞼を閉じても私は死ななかった。次の瞬間意識は蘇り、角を収穫し始めた。角の芽は一日しか咲かない。その後は摘み取り、死ねなければ、次のゆるやかな安楽死に備えることが吉だと、リーフレットには書かれていた。これを私は自分でも書き連ねて、手作り感満載の自分なりの説明書ができた。そうすると、収穫した角達がかわいそうになってくる。私はもう二度とこれを植えることはないのであるから、誰かがもらってくれなければ、瑠璃色華晶も不憫である。
そう思い、アパートの大家に連絡し許可を得て、アパート前で角を売ることにした。家賃を待ってもらい、払いそびれていた電気代や水道代だけ、貯金の絞りかすでまかなう。なんとか角を売ることでのんびりと生活していければいい。この生き方は、今の私とあっていた。角がなくなれば、そのときはそのときだ。
ベランダの蔦はそのままに、今も生え続けている。覆い茂ったベランダから乗り出し、販売所を見下げる。無人販売の角を今日も買いに来る人がいる。
それにしても、角一つ百万という値段にしたのはぼったくりかもしれない。