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夏詩の旅人

由比ヶ浜で逢いましょう「夏詩の旅人新章8」

作者: Tanaka-KOZO


2013年5月、鎌倉 由比ヶ浜海岸


ザザ~ン…、ザッパーンン…。


太陽に照らされた白い波が打ち寄せる海岸。


パシャパシャ…。


ウエットを来た1人の女性が、サーフボードを抱えながら海から上がる。


「ふぅ…。今朝はこの辺にしとくか…」

ショートボブの髪を濡らせた女性が、海に振り返りながらそう独り言をいう。


彼女の名は、晴夏(ハルカ)


かつてプロサーファーを目指していた彼女は、国内で行われたアマの大会で3位にも入った事のある実力者だった。

8年前の2005年に、ここ鎌倉の、由比ヶ浜に移り住んで来たハルカも、現在は35歳になっていた。



「おっと!、イケない!、もおこんな時間ッ!」


腕のダイバーズウォッチを見たハルカが言う。

彼女は坂ノ下にある自宅へと、慌てて駆け出した。


ハルカの自宅は、海のある場所から少し高台にある。

その家は、中古物件で購入した木造の古民家であった。


自宅へ戻ったハルカは、玄関前に設置してあるシャワーで潮水と砂を軽く洗い流した。


頭の上からシャワーを浴びるハルカ。

彼女の身体から跳ねる水滴は、太陽の光を受けて小さな虹を作るのだった。


「さてと…、行きますかぁ~♪」

着替え終わった笑顔のハルカは、そう言うと自転車にまたがり走り出した。


材木座にあるデリカショップへ、自転車で急いで向かうハルカ。

彼女はそのデリカショップで、毎日アルバイトをしているのだった。


「あ!、ハルカちゃん、おはよ~!」

自転車に乗ったハルカに、そう声を掛ける鮮魚店の女性。


「おはようございま~す♪」

ハンドルを握りながら、笑顔で言うハルカ。


「今日も良い天気だねぇ…?」(鮮魚店女性)


「ええ…」

ハルカはそう笑顔で言うと、自転車を降りた。


ハルカのバイト先のデリカショップは、今、挨拶を交わした鮮魚店の向かいにあった。

サーファーや、海水浴客に向けたランチボックスや、惣菜を扱っているお店である。


「おはようございま~す♪」

店内に入って言うハルカ。


「おはようハルカちゃん。今日も頼むよぉ!」

厨房にいた、初老の男性店長が笑顔でそう応えた。




「えっと…、これとこれ…」

店頭のショーケースの奥に立つハルカに、注文する若い女性客が言った。


「はい、ロコモコ丼とタコライス丼ですね?」とハルカが言う。




「ありがとうございましたぁ~!」

商品を受け取って、帰って行く女性客の後姿に、笑顔のハルカが言った。


時刻は平日の朝8時になった。

店の前には、近くの小学校に通う生徒がゾロゾロと歩いていく。


そんな中、1人の男の子が肩を落とし、元気のない姿で登校しているのをハルカは見つけた。


「おはようナオキくん!」


「あ!、ハルカねぇちゃん…、おはよう…」


「どうしたの?、元気ないみたいだけど…」


ハルカがそう声を掛けたのは、数ヶ月前に父親が再婚して、新しい母親ができたばかりの少年であった。


「別に…」と、ナオキ少年が素っ気なく言う。


「別にじゃないでしょ!、おねぇちゃんに話しなさいよぉ!」

店先まで出て来たハルカが、ナオキに言った。


「あのさ…、運動会が…、運動会が憂鬱なんだ…」

ハルカに訳を聞かれたナオキが小声で言った。


「運動会って、今週にやる運動会のこと…?」

「何で…?」


ハルカが聞く。


「僕…、その日、弁当が無いんだよ…」

ナオキがうつむいて言った。


「お弁当が…?」


「うん…」


「だってナオキくんには、新しいお母さんが出来たじゃないの!?」


「お母さんは、この前赤ちゃんを産んで、退院して来たばかりだから、身体の調子が悪くて無理なんだ…」

ナオキはハルカにそう言った。


ナオキの新しい母は、ナオキの父との間に子供を授かり、それで慌てて籍を入れたという事をハルカは知っていた。

そして、出産でしばらく病院に入院していたその母親が、つい先日、退院して来たばかりだという事も…。


「それに運動会の日には、どうせ誰も来てくれないし…」とナオキ。


「えっ?、どうして!?」

ハルカが驚いて言う。


「お母さんは身体の具合が悪くてダメだろ?、お父さんは仕事があるから…」


「そうなんだ…」


静かな口調でハルカが言う。

ナオキの話を聞いていたハルカは、何だか悲しくなって来た。


ハルカは自分が小学生だった頃を、ふと思い出した。




 ハルカの家は母子家庭であった。

運動会の日には、母には仕事があり、卒業するまでに、母が運動会を観に来てくれた事は、結局一度も無かった。


幸いお弁当だけは、何とか用意して貰えた。

朝、仕事に出るのが早かった母が、急いで握ってくれたオニギリを持って、ハルカは次男の兄と、それをお昼に食べたのであった。


運動会の日は、子供たちは親と一緒にお昼ご飯を食べるのが許された。

子供の運動会を観に来てくれた、親たちのいる場所に子供たちは行って、そこで一緒に食事をするのだ。


だがハルカとその兄は、きょうだい2人だけで、隠れる様に校庭の隅にシートを敷いて母の作ったオニギリを食べた。

学校は良かれと思ってやっている、家族団らんのお昼ごはんなのだろうが、誰も観に来てもらえない子供にとっては、残酷な仕打ちでも何物でもない。


(寂しいなぁ…、なんでウチはいつもこうなんだろう…?、寂しいなぁ…)


ハルカはその事を、決して口には出さなかったが、いつもそう感じていた。

だが目の前で兄が、無言で食事をしている姿を見ると、兄もきっと同じ気持ちなんだろうと思い、ハルカは、その気持ちを心の奥にしまっておくのであった。


 4歳上の兄がいた時は、まだ良かった。

だがハルカが高学年になると、兄は小学校を卒業してしまい、運動会の日には、ついにハルカ1人だけとなってしまった。


親が観に来て貰えない子供は、仲の良い友達の家族に混ぜて貰って、一緒に食事をする様にと、クラスの担任からお達しが出る。

だがハルカは、それがとても嫌だった。


触れて欲しくない、そういう家庭の事情を、いちいちクラスの議題に上げて貰いたくなかったのだ。

むしろ、気が付かないフリでもして、ほっといて欲しかった。


“あの家は可哀そう…”と、周りから同情されて見られるのが、ハルカは嫌で嫌でたまらなかったのである。

だから敢えてハルカは、明るく元気に毎日振舞っていたし、友達や先生に、自分の家庭の事情をいつも隠していたのであった。




「ハルカちゃん!、今日お母さん来ないんでしょ?、一緒にウチの家族とご飯食べようよ!」


ハルカが5年生だった時の運動会。

仲の良い友達が、そう声を掛けてくれた。


「ううん…、大丈夫!、今日は親戚のおばさんたちが来てるから、そっちで一緒に食べるから!」

ハルカは笑顔で、そう嘘をついた。


 運動会の昼休み。

誰もいない校舎の教室で、ハルカは隠れる様に、1人で母の作ってくれたオニギリを食べていた。


「こらッ!、お前!、こんなところで何やってるんだッ!?」


何も知らない見廻りの教師が、勝手な行動を取っているハルカを見つけると叱り出した。


惨めだった…。


教師に何度聞かれても、ハルカは頑なに理由を離さなかった。


理由を話せば、母にこの事が知られてしまう。


母はハルカが友達と、仲良くお昼ご飯を食べているものだと信じている。

そんな母を、ハルカは悲しませたくはなかったのだ。




 ハルカは、ナオキの話を聞いていて、つい自分の小学生時代を投影してしてしまうのだった…。


「ねぇ!ナオキくん。おねぇちゃんが運動会の日、お弁当作ってあげようか!?」

ハルカが笑顔で、突然ナオキに言い出した。


「え?」

そう言ったハルカの言葉に驚く少年。


「おねえちゃんがナオキくんのお弁当を持って、運動会を観に行くわ!」


「……。」

ハルカの言葉にナオキは黙って聞いていた。


「写真もスマホでバンバン撮ってあげる!、動画も撮るわ!」


「本当!?」

少年の顔に明るさが戻った。


「ええ!、だって一生に一度しかない、5年生の運動会じゃないの!」


「本当に良いの?、おねぇちゃんッ!?」


「もちろんよ!」


「私だってこのお店で、何年も働いてるんだから、料理だってお手の物よ!」


「わぁ!、ありがとう!おねぇちゃん!」


「ほら!、早く行かないと遅刻するわよ!」


「うん!」


「じゃあね!」

少年を笑顔で見送るハルカ。


「行って来ま~す!」

ナオキ少年は明るい笑顔でそう言うと、学校に向かって走り出すのであった。




 それにしても、いくら産後といっても、子供のお弁当も作らないなんて…。

ナオキくんのお母さんは、そんなに具合が悪いって事なのかしら…?


走り去るナオキの背中を見ながら、ハルカはそんな事を考えていた。






 運動会当日の日曜日。


ハルカはこの日、バイトを休みにして、朝からナオキのお弁当を作っていた。

食べ終わった後、容器を返却したりする事で、余計な気を遣わせない為に、お弁当はオニギリやサンドイッチを中心として、それを百均で買ったプラケースなどに詰める事にした。



 鎌倉市立小町小学校正門前


「え!、入れてもらえないんですかぁ…?」

ハルカは、校門前に立っていた教師と警備員に呼び止められていた。


「でも、その子は今日、親が来ないんですよッ!」

ハルカが教師と警備員に説明する。


「申し訳ございません、規則なものですから…」と警備員。


「どうしてですかッ!?」

それでも喰い下がるハルカ。


「去年、大阪の池山小学校の事件、覚えていませんか…?」

困り顔の教師がハルカに言う。


そう言われたハルカが思い出す。

大阪の池山小学校の事件とは、刃物を持った男性が学校に侵入して来て、校庭にいた子供たちを無差別に襲い、死者を出した事件であった事を…。


「あれ以来、学校では父兄以外の方の入場はお断りしているんです」

校門前に立つ教師が続けて言った。


「そんなぁ…」


「あなた、その生徒の親に頼まれて今日来たんですか?、それならそういう届を、事前に出していただく事になっていますが…」


「いえ…、親に頼まれて来た訳ではありません…」

ハルカが元気なく言う。


「だとしたらお引き取り下さい…」


「なら!、せめてこのお弁当だけでも、あの子に渡して下さい!」

「あの子、今日お弁当を持って来ていないんです!」


ハルカはそう言うと、ナオキに渡す弁当を教師に無理やり渡した。


「お願いしますッ!、5年2組の前原ナオキです!、必ず渡して下さい!」


「わ…、分かりました…」

困り顔の教師が、ハルカの頼みを渋々と受けるのだった。





 あ~あ…、せっかくナオキくんの応援をしようと思ってたのにな…。


運動会を観られなかったハルカは、ガッカリしながら家路へと歩いていた。


ハルカが住宅街を歩いていると、おしゃれなフレンチカフェのテラス席から、女性の楽しそうな話声が聞こえて来た。

高そうなフレンチを、美味しそうに堪能している女性たちは、子供連れの若いママさん連中であった。


「あれっ!?」


ハルカは、そのグループの中にいた1人の女性に気が付く。

その女性は、ナオキの新しい母親となったチエコであった。


 ええ…!?、どういう事?

ナオキくんのお母さんは具合が悪いから、今日運動会に行けないんじゃなかったの…?


子供が寂しい思いをしてるってのに、こんなとこで女子会なんて…ッ!

どういう神経してるのよ!?


カチンと来たハルカは、余計なお世話だと思いつつも、黙っている事が出来なかった。

ハルカは、テラス席にいるナオキの母、チエコの傍へ歩いて行った。


自分に近づいて来たハルカに気が付くチエコ。

彼女は怪訝そうな表情でハルカを見つめる。


「あの…、前原ナオキくんのお母さんですよね…?」

ハルカが少し怒った表情でチエコに話し掛ける。


「誰あなた?」とチエコ。


「私はナオキくんの知り合いの者です…。お母さん!、今日はあなたの子供の運動会だって事、ご存じですよね?」

ハルカがムッとした表情でチエコに言った。


「子供…?、私の子供はこの子だけよ…」

チエコは、隣に寝かせている赤ん坊を見ながらそう言った。


「だけどナオキくんの母親でもありますよね!?」


「あの子は私が産んだ子じゃないわ…」


「知ってます…。でもあなたは、あの子の母親になったんですよねッ!?」


「あんたどっかで見た事ある顔だと思ったら、材木座の弁当屋の人じゃない!?」

セレブ気取りのチエコが、ハルカを見下す様に言った。


「どうしてあの子の運動会に行ってあげないんですか!?」


チエコが、自分をバカにしている発言など聞き流して、ハルカが続けて言う。

チエコは、ハルカの顔を睨んで黙っていた。


「たとえ血のつながりがなくても、あなたはナオキくんの母親じゃないですか!」


「うるさいわねぇ…、私だって、親として最低限の事はやってあげてるつもりよ!」


「運動会を観に行く事や、お弁当を作ってあげるのは、親として最低限の役目ではないんですか!?」


「何なのよあんた!?」


「連れ子の面倒を見る気がないのに、どうしてナオキくんのお父さんと再婚なんてしたんですか!?」


「あの人が自分だけで子供の面倒を見れないから、私と結婚してくれって言って来たのよぉ!」

“私は悪くない!”、とでも言いたい感じで、チエコは憤慨しながら言った。


「まぁまぁ…、仕方ないんじゃないの…。あの子の母親も自分で産んだんだから、他人に押し付けないで、自分が引き取って育てれば良いのよ…」

チエコの友人が横から口を挟んで来た。


「それが出来ればやってますッ!」

チエコの友人に言うハルカ。


「どうせ、他に男でも出来て、子供が邪魔で置いてったんでしょ…?」

ナオキの生みの親をバカにした様に、その女性が言った。


「ナオキくんのお母さんは、そんな人じゃありませんッ!」

「彼女は、ナオキくんを産んで亡くなったんです!」


ハルカはムッとしてその女性に言った。


ナオキの母親は自分の命と引き換えにナオキを産んだ。

自分の命を取るか、生まれて来る子供の命を取るかという瀬戸際で、ナオキの母は子供の命を優先したのだった。


「ちょっと店員さぁ~ん!、この女頭おかしいわ!、客でもないんだから追い出してくれる~!?」

チエコが店員を呼んでそう叫んだ。


「話はまだ終わってないわッ!」

ハルカがそう言うが、店員に無理やり外へ連れ出されてしまう。



「まったくッ!、なんて酷い母親なのッ!」

外へ追い出されたハルカはそう言うと、その場を後にするのであった。





 数日後


「あ!…、ナオキくん!」

学校帰りのナオキを、店先から見たハルカが言った。


「あ…!、ハルカねぇちゃん…」

ナオキが元気のない声でポツリと言った。


「この前はごめんね…、運動会の写真を撮ってあげるなんて言ってたのに…」

店の奥から出て来たハルカが、ナオキの側に来て言う。


「いいよ別に…、学校に入れなかったんだろ?、先生から聞いたよ…」


「だけど約束したのに…」


「仕方ないよ、ハルカねぇちゃんのせいじゃないし…」

「あ…、そうだ弁当ありがとう。美味かったよ」


「え!、本当?、良かったぁ…」

ハルカが少し笑顔になってそう言うと、ナオキは突然言い出した。


「ねぇちゃん…、俺さ…。俺って、生まれて来ない方が良かったのかなぁ…?」


「え!?」

ナオキの言葉に驚くハルカ。


「だって、お母さんはいつも、僕の事を家では邪魔だ、邪魔だって言うんだ…」

「だから僕は、自殺でもした方が良いんじゃないかって思ったりするよ…」


「ナオキくん!、なんて事いうのッ!、自殺だなんて…ッ、そんな事いう子、おねぇちゃん嫌いよッ!」


「なんだよイキナリ…?」

急に怒り出したハルカに驚くナオキ。


「お願いだから、もう2度とそんな事いわないでッ!」


「分かったよ…」


「ねぇ…?、なんかあったの?また…?」


「……。」

黙るナオキ。


「おねぇちゃんに話してよ…」


「実はさ…」

ナオキはそう言うと、昨日の家での出来事を話し出すのであった。





 ナオキの自宅

家にはナオキと、母チエコ、そして生まれて間もない赤ん坊の3人だけがいた。


親たちの寝室には、赤ん坊が寝ているベビーベッドが置いてあった。

スヤスヤと眠っている赤ん坊。


一人っ子だったナオキは、「自分にも妹が出来たんだぁ…。可愛いなぁ…」と、赤ちゃんの寝ている様子を笑顔で眺めていた。


その時であった。

台所で家事をしていたチエコが、慌てて寝室にやって来ると、過剰な程、ヒステリックにわめきながらナオキに言った。


「あたしの赤ちゃんに触んないでッッ!」


「え?…」

驚くナオキ。


「早くッ!、早く離れるのよッ!」

「穢らわしいッ!」


チエコが余りにも凄い形相で怒鳴るので、ナオキは圧倒され、慌ててその場から離れた。

そしてチエコの怒鳴り声に驚いた赤ん坊は、目を覚まして泣き出した。


ナオキが離れると、チエコは泣いている赤ん坊を笑顔で抱き上げて、「お~、よしよし…」とあやしていた。


茫然とその状況を見つめるナオキ。

すると段々と、寂しい気持ちが込み上げて来るのを感じた。


(僕はお母さんに、こんなにも嫌われているんだ…)


ナオキは声を出して泣かない様に、懸命にこらえる。

だが、どんなに、どんなにこらえても、身体の震えと、しゃくりあげて来る嗚咽は、止める事が出来ないのであった。




 ナオキの話が終わった。

その話を聞かされたハルカは愕然とする。


(感受性の強い子供に、そんな酷い事を言うなんて、一体どういう神経してるのよ…ッ!?)


ハルカはそう思うと、チエコに対して怒りがふつふつと湧いてくるのであった。



「ねぇ、おねえちゃん…。ケガラワシって、どういう意味…?」

ナオキがハルカに突然訊ねる。


「そ…、それは…」


ハルカはどう返答すれば良いべきか悩んだ。


「穢らわしい」とは、泥やシミの様に、洗えば落ちるものではないヨゴレ…。

「穢れ」とは、どんなに洗っても落ちない、目には見える事のないヨゴレだ。


永続的に忌まわしい目で見られ、穢らわしいと見られた者は、他者からの身勝手な精神的概念によって、差別を受け続けるのだ。



「ナオキくん、赤ちゃんを触る時は、手を洗わないといけないんだよ」

ナオキが傷つかない様、笑顔で懸命に答えるハルカ。


「赤ちゃんは、まだバイ菌に対して抵抗力がないの。だからお母さんは手を洗って来なさいって、あなたの事を叱ったのよ」


「ふ~ん…」

ナオキが言った。


果たして、これでナオキは納得したのだろうかと、ハルカは不安に思うのだった。


「ねぇ、ナオキくん…」

ハルカが思いつめた表情でナオキに言う。


「ねぇ、ナオキくん…、虐待って分かる?」


「ギャクタイ?、まぁ、なんとなく…」

ナオキが応える。


「あなたのお母さんが、あなたにやっている事は虐待といって、とてもイケナイ事なの…」


ナオキは黙ってハルカの話を聞いている。


「だから私は、児童相談所に行って、この事を全て話すわ!」


「え?」

驚くナオキ。


「そうすればナオキくんは、しばらくの間、お家じゃない別の場所に移ってもらう事になるけど、でも仕方ないの…」

「別の場所で保護される事になれば、虐待を受ける事はないから安心よ」


「ちょっと待ってよ!、じゃあ学校は?」

ナオキが慌ててハルカに聞く。


「学校もしばらく行けないわ」


「どうしてさ!?」


「親が会いに来る可能性があるからよ」


「じゃあ、いつまでそこに保護されるの?」


「それは分からないわ…。母親が反省して、もう虐待しないと判断できるまでは…」


「嫌だよ!、そんなのッ!」


「え?」

ナオキの言葉にハルカが驚く。


「だって、そうしたら、学校の友達にも会えなくなるんだろぉッ?」


「ええ…」

頷くハルカ。


「嫌だよ!、僕は今、学校で友達といる時が1番ほっとするんだ!」

「僕をこれ以上、独りぼっちにさせないでくれよッ!」


「でも…ッ!」


「そんな事したら、もうハルカねぇちゃんとは絶交だッ!」


「ええッ!?」


「ほっといてくれよッ!、もうおねえちゃんとは、もお絶交だッ!」


ナオキの言った「ほっといて欲しい」という気持ちは、ハルカにも痛いほど分かった。

自分も小学生だった頃、まったく同じ事を考えていたからだ。


「待って…ッ!、分かったわ…。分かったから、絶交だなんて言わないで…!」


「じゃあ児童相談には、もう行かないって約束する?」

ナオキがハルカに確認する。


「ええ…」

頷くハルカ。


「絶対ッ!?」

ナオキが繰り返し、ハルカに強く聞く。


「約束するわ!」


「じゃあ良いよ!」

少し笑顔が戻ったナオキが言った。


「ねぇ!、ナオキくん!、その代わり、おねぇちゃんと交換日記しない?」


「え?」


「日記を書いて欲しいの!、そこに、今日1日あった出来事を書くの!」

「楽しかった事、嬉しかった事、悲しかった事…、それを毎日必ず書いて、それをおねぇちゃんに見せて欲しいの!」


「面倒くさいよ…」

ナオキが言う。


「お願い…、頼むから…、ね?」

涙目のハルカがナオキに懇願する。


「え?、え?、何で泣くのおねぇちゃん!?」


「お願い…」

小さく震えながらハルカが言う。


「分かったよ…、日記を書くよ」

ナオキが渋々承諾する。


「本当?」

目を潤ませたハルカが、ナオキに確認する。


「うん」

頷くナオキ。


「毎日よ…。会えない日も書くんだよ?」


「約束する!、命かけても書くから!」


「良かった…」

ハルカはナオキの言葉に安堵する。


「じゃあ僕帰るね…」

ナオキが言った。


「うん…、負けちゃダメよ…」


「へっちゃらだよ!、僕にはハルカねぇちゃんがついてるしな…」

ナオキが笑顔で言った。


うん、うん…と涙目で頷くハルカ。




「それじゃまたね…」とハルカ。


「うん、バイバ~イ…」

ナオキが笑顔でハルカに言った。


「バイバイ…」

そしてハルカは、目を潤ませながらナオキに手を振った。



 こうしてハルカは、ナオキと交換日記を書くことになるはずだった。

しかしその後、ハルカはナオキと交換日記をする事は無かったのである。


まさかナオキと会うのが、これが最後になろうとは、その時のハルカには夢にも思わないのであった…。





 あの日以来、ハルカはナオキを見かけなかった。


どうしたんだろう…?

私が接客をしてて、たまたま見かけなかったのかな…?


ハルカはそんな風に思っていた。




そして更に1週間が過ぎた。


「ハルカちゃん、ちょっと…」

デリカショップの向かいにある鮮魚店の女性が、仕事をしているハルカを手招きして呼ぶ。


「はい…?」

何だろうと、ハルカはその女性の方へ行った。


ハルカが傍に行くと、丁度、鮮魚店の女性と話し込んでいた近所の主婦が、「それじゃあね…」と言って帰って行った。

そう立ち去った女性を見送ると、鮮魚店の女性がハルカの方へすぐ振り返る。


「ハルカちゃん、前原さんとこのナオキくんとよく話してたわよね?」

神妙な顔つきで、その女性がハルカに言った。


「ええ…」

何だろう…?と、ハルカ。


「今、クリモトさんの奥さんから聞いたんだけど…、あの子、亡くなったらしいわよ…」

鮮魚店の女性が、そうハルカに言った。


「えッ…!」

ハルカが驚いて声を上げた。


「自殺したって話らしいわよ…。お風呂場で首吊って亡くなってるのを母親が見つけたんですって…、気の毒だねぇ…、可哀そうに…」

鮮魚店の女性は、苦み潰した様な顔をしながらハルカにそう言った。


「そんな…、そんなはずありません!、だってあの子、私と約束したんです!、自殺なんか絶対しないって…ッ!」


「ハルカちゃんショックだよね…?、でも警察の調べでは自殺だって事になったんだって…」


「じゃあ自殺の原因は何なんですかッ!?」


「遺書とか無いんで、ハッキリした事は分からないみたいだけど、どうも学校でイジメにあってて、本人悩んでたらしいね」


「イジメ…ッ!?」

思いもよらない話に驚くハルカ。


「ええ…」と頷く、鮮魚店の女性。


「そんなはずありませんッ!、だってナオキくんは、学校の友達と一緒にいる時が、今は1番楽しいって…ッ」


「でも、そうらしいよ…。あの子の母親が、イジメの事で悩んでたナオキくんから、相談を受けてたらしいから…」


「嘘ッ!、そんなのありえませんッ!」


「今、学校でもイジメがあったのか調査してるみたいだね。母親は相当怒ってて、学校を訴えるって騒いでて、大変な事になってるみたいよ」


「私、確かめて来ますッ!」

ハルカはそう言うと、ナオキの家へと走り出した。


「あ!、ハルカちゃんッ!」

鮮魚店の女性が言う。


涙をこらえながらハルカが走る。


(嘘よ…ッ!、嘘でしょッ?、ナオキくんッ!?)

(だってあなた…、おねぇちゃんと約束したじゃないッ!?、自殺なんか絶対しないって約束したじゃないッ…!)


ハルカは涙が重くて、うまく走れなかった。

それでも懸命に、ナオキの家へと急ぐのであった。





「はい…?」

玄関を開けたチエコが言った。


ナオキの自宅。

呼び出し音を聴いたチエコが、玄関から出て来たところだった。


「あの…」

ハルカが思い詰める様な顔で言った。


「あ!…、あんた弁当屋の女じゃない?」

ハルカを見たチエコが言った。


「ナオキは亡くなったから、もう居ないわよ」と、チエコは妙にサバサバと言った。


「聞きました…」

チエコをじっと見つめながらハルカが言う。


「うちの事は、もうほっといて!、さあ!、帰ってくれる!?」

ハルカに対し、面倒臭そうに言うチエコ。


「せめて…、せめて、お線香の1本だけでもあげさせてッ!」

ハルカはそう言うと、強引に玄関の中へと入った。


「あ!、ちょっと何よあんた!、勝手に上がり込んで!、待ちなさいよ!」

ずかずかと上がり込んだハルカの後ろで、チエコが叫ぶ。


チエコの言葉など無視し、ハルカは強引に家の中へと、どんどん進んで行った。




チーーーーン…………。


鐘を鳴らし、ナオキの遺影と骨壺が置かれた供養台に、目を瞑って手を合わせるハルカ。

チエコはその後ろで、襖の角にもたれ掛りながら、うんざりした表情でハルカを眺めていた。


(ナオキくん…、どうして…?、どうして自殺なんかしたの…?、おねぇちゃんと約束したじゃないッ…!?)

ハルカの瞼からは、涙が流れ落ちていた。


(約束!…、そうだッ!)

その時ハルカが、「ハッ!」と思い出す!


「お母さん…、ナオキくんの自殺の原因は、学校でイジメにあっていたのが、原因だと聞きましたが…?」

供養台の前に正座していたハルカが、チエコに振り返り言う。


「そうね…。あの子は私にそう言ってたわ…」と、チエコはそっぽを向きながらハルカに言う。


「私にはそんな事、一言もいってなかったわ」

ハルカがチエコに険しい表情で言った。


「あなたには言わなくても、母親の私には、そう相談して来てたわ」

両手の平を、胸元まで上げ、首を傾げながらチエコは言った。


「私には、まったく逆の事を言ってたわ!、むしろ学校の友達と一緒にいる時間が、1番楽しいって…ッ!」

そう言ったハルカはチエコを睨みつけた。


「は?…。あんたに言った事と、私に言った事、どっちが世間に信用されると思ってんのよ!?、母親に言った事の方が、信用されるに決まってんじゃない!?」

馬鹿にした様な表情でチエコが言う。


「日記には何て書いてあったの?」

チエコをキッと睨むハルカ。


「えッ!?」とチエコ。


「日記よ…ッ!、ナオキくんの日記があったでしょッ!?、そこに学校でイジメがあった事が、書いてあったのって聞いてるのよッ!?」

ハルカは先程よりも、更に睨みつけながらチエコに言った。


「にっ…、日記なんて無いわよッ…」

急にどもるチエコ。


「いいえッ!、あの子の日記があったはずだわ!、私と約束したのッ…!、日記を書くって…ッ!」

ハルカがチエコに、ピシャリと言う。


「そんな子供が言った、気まぐれの約束事なんて、あなた信じてるの…?」

そう言って、あたふたするチエコ。


「信じてるわッ!、さあ!日記を見せて!、あの子が書いた日記があるはずよ!、さあッ…!」

ハルカが立ち上がり、チエコに詰め寄った。


「そんなもの無いって言ってるでしょッッ!」


明らかに動揺しているチエコ。

彼女がそう突然怒鳴り出した途端、隣の部屋で寝ていた赤ん坊が泣き出した。


「あなた…、もしかして日記を処分したの…?、その日記を読んで、それで捨てたんじゃないでしょうねッ!?」

目を見開いて、チエコに確認するハルカ。


「日記なんか無いって、言ってるじゃないのぉッ!」

ヒステリックに騒ぎ出すチエコ。


「あなたそうやって学校のせいにして、とぼける気?」

ハルカはそう言って、チエコの事を疑いの目で睨んだ。


「いっ…、いいかげんにしなさいよぉッ!、あんた頭おかしいわよッ!、あたしは子供を亡くして悲しんでる母親なのよッ!」

「そんな弱者に向かって、よくもそんな事が言えるわねぇッ!」


チエコの怒鳴り声に、赤ん坊が更なる大声で泣き出した。

ハルカは、チエコの尋常じゃない反応に、「ハッ」とする!


「まさか…ッ!、まさか、あなたがナオキくんを…ッ!?」


「いいかげんにしなさいよぉッ!」

チエコはそう叫ぶと、「きゃぁきゃぁ」と喚き散らしながら、ハルカを強引に突き飛ばしながら玄関まで押し戻した。


「帰ってッ!、早く帰ってッ!、警察呼ぶわよッ!、帰ってったらぁッ!」

チエコが玄関で、大声で騒ぐ。


「私…、あなたを許さない…ッ!、ぜったいに、許さないからぁッ!」

目に涙を溜めたハルカが、チエコを睨みつけながら言う。


「出てけぇーッ!」

チエコはそう言って、ハルカを玄関の外へ突き飛ばすと、ドアを急いで閉めた。


閉まったドアを無言で見つめるチエコ。

肩で息をしているチエコの後ろでは、赤ん坊の泣き声がまだ続いていた。


動揺していたチエコが、赤ん坊の泣き声にようやく気が付くと、赤ん坊がいる夫婦の寝室へと向かった。


「お~、よしよし…、ごめんねぇ…」

ベビーベットから、赤ん坊を抱きあげたチエコが笑顔で言う。


チエコは泣いている赤ん坊をあやし続ける。

すると急に赤ん坊の泣き顔が、死んだナオキの顔にチエコは見えたのだった!


「ヒッ…!」

思わず赤ん坊を手から離すチエコ。


ベビーベットにドスンと落ちる赤ん坊。

赤ん坊はその衝撃で、再び大きな声で泣き出した。


だが今度は、泣いている赤ん坊を抱き上げないチエコ。

彼女は泣き続けている赤ん坊を、ただ茫然と見つめ続けるのであった…。





(ごめんね…ナオキくん…)

家から放り出されたハルカが目に涙を溜めながら思う。


(私…、やっぱりあの時、児童相談所に行けば良かった…)


(たとえナオキくんに絶交されても、行くべきだった…)

(そうすれば、あなたは死なないで済んだはず…)


(あなたは、母親の愛情を一切知ることもなく、たった10年ほどで生涯を終えてしまったなんて…)


「うう…ッ。うう…ッ」

ハルカは悔しくて、涙をぼろぼろと溢れ出すのであった。


(私!、あなたが亡くなった本当の原因を、必ず突き止めるッ!)

(そしてその真実を明らかにして、あの母親に罪を償って貰わッ!)


目に涙をいっぱいに溜めたハルカは、そう心に固く誓うのであった。



 1週間後。

鎌倉総合病院 心療内科診察室


「ふむ~…。娘の泣き顔が、突然死んだ息子の顔に見える…?」

心療内科の医師が言う。


「そうなんです先生…、しかも何回も、何回もですッ!」

不安な表情でチエコが医師に言った。


チエコはあれから、度々、ナオキの幻覚を見て精神的に衰弱していた。

このままでは気がおかしくなると思ったチエコは、鎌倉にある病院の精神科へ訪れたのだった。


「前原さん…、あなたは恐らく統合失調感情障害かも知れませんね」

医師が言う。


「何ですかそれは…?」

チエコが医師に尋ねた。


「あるはずのないものが見えてしまう、精神疾患です」


「あなたは、愛する息子さんが、自ら命を絶つという光景を見てしまった」

「その事が原因で、こういった幻覚症状が起こっているのだと考えられます」


医師がチエコにそう説明をした。


「私はどうすれば良いんですかッ!?」

すがる様に聞くチエコ。


「それは時間が解決してくれるのを待つしかありません…」


「あなたは心に大きな傷を負ってしまった」

「子供の死が自分にあるのではと悩んでいませんか?」


医師が静かな口調でチエコに聞いた。


「自分に原因があると、私が思っている…ッ!?」

チエコの頬に冷や汗が流れる。


「そうです…。だからその事に関しては、あまり悩ない事です」

「取り合えず精神安定剤を処方しておきます。お薬を飲んで、しばらく様子をみて下さい」


医師はそう言うと、カルテにサラサラと文字を書き込むのだった。


「分かりました…」

沈んだ声でチエコが言った。


「来週、もう一度いらして下さい。症状が緩和されているか診させて下さい」

立ち上がったチエコに医師が言う。


「はい…。ありがとうございました…」

チエコはそう言うと、心療内科を後にした。


(私が精神疾患…ッ!?)

チエコの身体が、ガクガクと震えだす。


(本当にあれは幻覚なのッ!?)

チエコには、処方された精神安定剤を飲んだところで、あの幻覚が治まるとは、到底思えないのであった。




 鎌倉中央警察署


ハルカは警察署を訪れていた。


「お願いです!、もう一度、もう一度、きちんと調べて下さい!」

ハルカが捜査担当者に言う。


「信じたくないお気持ちは分かりますが…、こちらも色々と捜査した結果、自殺と判断させていただきました」

「現状では、再捜査というのは、ちょっと…」

警察署の刑事が困り顔で言う。


「分かりましたッ!、もう結構ですッ!」

憤慨したハルカはそう言うと、応接室の席を立ち、出て行ってしまった。



 ハルカは警察へ行く前には、ナオキが通っていた小学校にも行っていた。


しかし学校側は、チエコに自殺の原因はイジメ問題だと責められていたので、彼女に訴えを起こされるのではないかと弱腰になっていた。

学校側には、ろくに話を聞いてもらえなかったハルカが、警察にも行ってみたのだが、こちらも全然、取り合ってくれなかったのだった。


(こうなったら、私だけでなんとか証拠を見つけ出すしかないわッ!)

警察署を出たハルカがそう思うと、後ろから彼女を呼ぶ声がした。


「すいません…、大島ハルカさん…、ですよね…?」

一眼レフカメラを肩に下げた、マスコミ関係者風の女性が、ハルカにそう声を掛けて来た。


「はい?…、あなたは…?」

振り返ったハルカが言った。


「私は、こういう者です」

その女性は、自分の名前を名乗りながらハルカに名刺を渡した。


名刺には、「フリージャーナリスト 野中 涼子」と書いてあった。


「フリージャーナリスト…?」

ハルカが名刺を見ながら言う。


「はい、私は元、毎朝新聞社でジャーナリストをしていた者です。でも、現在はフリーのジャーナリストとして活動しています」

名刺をハルカに渡した女性がそう言った。


「そのジャーナリストさんが、私に何の用があるんですか…?」


「あなたに協力させて下さい」


「えっ!?」

ジャーナリストを名乗る女性の言葉に、ハルカが驚いた。


「前原ナオキくんが亡くなった、本当の原因を、私も知りたいんです!」

ハルカを見つめながら、その女性が言う。


「あなた、どうしてナオキくんが亡くなった事を知っているの?」

驚いたハルカが、ジャーナリストに言った。


「ナオキくんの事件は、被害者…、つまりこの場合は、母親のチエコさんに報道被害が及ばない様、マスコミ各社が現在は報道を差し控えています。なのでTVや新聞では、この悲惨な事故は、一切放送されていません」


「でも、ネット上では違います。私は別の事件の情報をネットで集めていたところ、偶然、ナオキくんの事件についての書き込みを見つけました」

「その書き込みを見る限りでは、あなたと同じ様に、母親のチエコを疑っている方がどうやらいる様なのです」


ジャーナリストの女性が、ハルカにそう説明をする。


「そうなんですか!?」

ネットでは、そんな事が書かれているのだと驚くハルカ。


「はい…、恐らくナオキくんの同級生の親の誰かが、書いたものだと思われます」

「そこには、ありもしないイジメを母親のチエコが、でっちあげていると、匿名で書き込まれていました」


ハルカは、リョウ(野中涼子)の話を、黙って頷きながら聞いている。


「私はその書き込みを見て、真相を突き止めたいと思いました。それでここ数日間、いろいろと調べていたら、ハルカさん、あなたに行きついたのです」


「私にですか…?」


「そうです。ハルカさんが、あの事件の真相を探っているという事が分かった私は、失礼ですが、あなたをずっと尾行させていただきました」


「そうなんですか…?」


「ハルカさん、私たち2人で力を合わせれば、ナオキくんの無念が晴らせるかも知れません!」

リョウが力強く、ハルカにそう言った。


「分かりました…。野中さん、どうか私に力を貸して下さい」

ハルカがそう言うと、リョウはニコッと微笑んだ。


「決まりですね!?、では明日にでも早速、ナオキくんの通っていた学校へ行って話を伺いに行きましょう」


「学校はもう行きました…。だけど全然話を聞いてもらえなくてダメでした…」


「大丈夫です。私に任せて下さい。マスコミが嗅ぎ回り出した事を知れば、学校側もこの件を無視する訳にもいかなくなります」


「そうなんですか…?」


「はい、大丈夫です」


リョウという心強いパートナーを得たハルカは、希望の光が見えて来るのを感じるのであった。





 翌日


リョウの言った通り、学校はこちらの取材に応じてくれる事になった。

ハルカはリョウと一緒に学校へ赴き、校長室で話をする事となった。



「では、校長先生…。学校側で調べた限りでは、イジメの存在は確認できなかったという事ですね…?」

リョウが、目の前のソファに座っている校長にそう言った。


「校長先生…、その事を証言しては頂けませんか?」

今度は、リョウの隣にいたハルカが言った。


「しかし…、そんな事をしたら、私は教育委員会から何て言われるか…」

校長が弱腰でしゃべっていると、リョウが校長へピシャリと言った。


「校長先生…、あなたは教育委員会の顔色をうかがっている様ですが、そもそも、イジメで自殺した生徒を出してしまった学校の校長が、このまま教員を続けられると思っておられるのですか?」


リョウの言った意味が理解できないハルカが、校長を見つめる。

校長は苦しい表情をし、黙っていた。


「今までの事例を見ても分かる様に、イジメ自殺を出した学校の校長は全て教員を辞職しています。だからあなたたち教員は、この様な事件が起きた時、いつもまず初めに『イジメはなかった』と、必ずおっしゃっていますよね?」


「気持ちは分かります…。教員をこのまま続けられれば60歳の定年で、退職金が平均2300万円程、受け取れますからね…」


「校長先生も見たところ50代そこそこという風貌でいらっしゃいますから…、ここでもし辞職しないで済めば60歳の定年後には、65歳までの延長雇用などもあったでしょう…」

「その道が絶たれてしまったあなたは、自分の描いていた人生設計が、大きく狂ってしまいますね…?」


「あなたが教員を、この様な不祥事で辞めたとなれば、あなたの今後の人生は、学習塾を細々と経営するのが精々といったところでしょう…」


(そういうものなんだぁ…!?)

リョウの言葉にハルカが思った。


「校長先生…、私も学校でのイジメは無かったと思っています。でも、このままじゃこの学校は世間から、イジメ自殺を出した小学校というレッテルを貼られます」


「どの道、教育委員会の組織に残れないのであれば、私たちに協力して、学校の無実も証明しませんか?、そうすればあなただって、このまま教員を続けられるじゃありませんか!?」


リョウが校長にそれだけ言うと、「分かりました…。ありのままの真実を証言します」と、校長が言ってくれた。


それを聞いたハルカとリョウは、「やった!」という笑顔を作り、互いを見つめ合うのだった。




「それでは、失礼します…」

ハルカとリョウはそう言うと、校長室を後にした。





「ハルカさん、良かったですね!、これで学校の証言が得られます」

学校の校門を出たときにリョウが言い出した。


「はい…、これでやっと一歩前に進むことができました。ありがとうございます」

ハルカが笑顔でリョウに言った。


住宅街を歩き出す2人。

リョウがハルカに向きながら話し出した。


「ハルカさん…、母親のチエコは先週から、鎌倉総合病院の心療内科に掛かり始めてる様です」


「心療内科に…!?」とハルカが言う。


「はい…、ハルカさんの様な方から同じように、ナオキくんの死に関する疑惑を自分に向けられている事で、チエコは精神的に、だいぶ参っているみたいです」


「そうなんですか!?」

リョウの言葉に、ハルカが驚いて言う。


「気を付けなければいけないのは、我々が証拠を掴んでチエコを逮捕させる事に成功したとしても、チエコの弁護側は精神喪失無罪を主張してくる可能性があるという事です」

今度は、リョウが神妙な顔つきで話し出す。


「精神喪失無罪…!?」

ハルカが聞いた。


「そうです…。彼女は、娘の出産から間もないという事で、過度の育児ノイローゼに悩まされていたなどと、主張してくる可能性があるという事です」


「でも彼女が心療内科に通うようになったのは、ごく最近からじゃないですか!」

リョウの説明に、ハルカは納得できない感じで言う。


「でも、その症状は以前から発症していたと言ってくるでしょう…」

「そうすれば責任能力があったのかどうかが、裁判の争点となってきます」


「日弁連は、左向きの共産系弁護士が、主導権を握っているのが現状だと、私は現役の弁護士たちから聞いたことがあります」


「その左派系弁護士たちは公平性に欠ける、変に偏った無理のある人権保護を、必ず言って来る事でしょう」

「そうすれば、チエコが無罪になる可能性は、極めて高くなります」


リョウが日本の弁護士事情をハルカに説明した。


「そんな理不尽な事が許されるんですか!」

ハルカが言う。


「左派系弁護士がチエコの弁護に回れば、今までの裁判の事例を見ても、それは十分ありえる事です」

「彼らは被告が、たとえどんなに凶悪犯罪を犯したとしても、自身のイデオロギーを守る為に、正義に反した弁護をする事でしょう」

ハルカにリョウが説明する。


「あの母親は、育児ノイローゼで悩んでいた兆候なんてありませんでした!」


「私は彼女が、ナオキくんの運動会にも行かずに、ママ友たちと楽しく女子会ランチを楽しんでたのを、この目でハッキリ見ています!」

「その時は、とても育児ノイローゼだなんていう雰囲気ではなかったです!」


ハルカはリョウに、あの時の出来事を思い出しながら言った。


「ハルカさん、それは貴重な証言になるわね…。チエコは他にも、そういう事をやっていた可能性があるわ」

「今だって、口では育児ノイローゼの様な事を言ってたとしても、実はそれも疑惑から逃れる為の自作自演だと考えられるし…」


「ハルカさん、彼女の行動を日々監視して尻尾を捕まえましょう!、そして、チエコの化けの皮を剥いで証拠を掴むんです!」


ハルカから良い話を聞けたリョウが、ハルカにそう力強く言った。


「分かりました!」

ハルカはリョウの目をしっかりと見つめながら、そう言うのであった。





 そしてあれから、また1週間が過ぎた。

ハルカはリョウと共に、チエコを尾行し、彼女の行動を毎日監視し続けていた。


尾行する2人は、鎌倉総合病院から再診を終えたチエコが出て来たのを確認した。

チエコは、ベビーカーを押しながら、自宅方面へ向かって行く。


それを尾行するハルカとリョウ。

2人は、チエコが最初は自宅に戻るものだと思っていたのだが、どうやら違う様だと気づくのであった。


チエコは自宅を戻る事なく、そのままベビーカーを押しながら海岸線を歩き続けた。


(天気も良いから散歩かしら…?)

ベビーカーに乗る娘の顔を、笑顔で見つめるチエコを見たハルカが、そんな事を想像した。


やがてチエコは御霊神社側に方向を変えると、力餅屋の前で左に曲がり、極楽寺切通しの坂道を上がって行くのだった。




初夏の日差しを遮る切通しの道は、ひんやりと涼しかった。

後から付けているハルカとリョウは、チエコが極楽寺駅の手前で右に曲がるのを確認した。


ハルカとリョウも、後を追って右に曲がろうとしたが、チエコがすぐ目の前の桜橋の上で立ち止まっていた姿を見たので、2人は慌てて曲がり角の陰に隠れるのだった。


極楽寺駅は静かな住宅街の中にポツンとある、小さな無人駅である。

平日の午前中の駅周辺では、電車が停車しても、誰も降りて来ないような場所であった。




ひと一人歩いていない静かな駅周辺。

その駅近くの高台にある桜橋の上から、下を通っている江ノ電の線路をチエコは見つめていた。


どうやら彼女は、極楽寺トンネルから出て来る江ノ電を待っている様だった。


「彼女はただの散歩ね…。赤ん坊に電車を見せてあげようとしてるのかしら…?」

そう言ったリョウが、物陰からチエコの姿をカメラに収める為、シャッターを切った。


(こうして見る限りでは、あの女性(ひと)だって、優しい母親なのに…。連れ子がいる相手男性との再婚という、複雑な環境が彼女を狂わしていったのだろうか…?)

ハルカはそんな事を思いつつ、チエコの姿を眺めていた。


やがて、桜橋から少しだけ離れた場所にある極楽寺駅の方から、踏切音が聴こえて来た。

どうやら江ノ電がやって来るようだった。


子供に江ノ電を見せてあげようとしたチエコが、ベビーカーに眠る娘を抱き上げようとした時、突然その赤ん坊が泣き出した!


するとチエコの表情から、急に笑顔が消えた!

何かから怯える様な顔をして、チエコは赤ん坊を見つめながら立ちすくむのだった…。




「なんか様子が変だわ…」


チエコが赤ん坊に、何かぶつぶつと話し掛けているのを、離れて見ているハルカが言った。

リョウはその隣でシャッターを切り続ける。




「そうやって…、そうやってあなたは、何回、私を苦しめれば気が済むのよぉ…ッ!」


チエコは、怒りで身体を小刻みに震わせながら、泣いている娘に小声でそう話し掛けた。

チエコには、泣き叫んでいる赤ん坊の顔が、またもやナオキの泣き顔に見えていたのだった!




「一体何を話しているのかしら…?」

物陰に隠れて見ているハルカが、リョウに聞く。


「さぁ?…、今、カメラを動画モードに切り替えたわ」

「後で帰ってから、彼女の口の動きを、読唇術を扱つかってる調査機関にでも見てもらいましょう。何か分かるかも知れないわ」

カメラを構えながら、リョウがハルカに言った。




「いいわよッ!、好きにしなさいよッ!、でもね…、だったら私だって、何回でも同じことをするだけよッ!」

力強い小声で、チエコは泣き続けている赤ん坊に、涙を浮かべながら恐ろしい形相で言った!




「なんか様子が変!、私行って来るわ!」(ハルカ)


「ダメッ!、今行ったら、決定的な証拠が撮れなくなるッ!」(リョウ)


「でも…、今にも赤ん坊に危害を加えそうな感じよ!」(ハルカ)


「あなた、ナオキくんの無念を晴らしたくないのッ!?」(リョウ)


「ナオキくんだって、妹に加害を及ぼしてまで、証拠を掴んで欲しいなんて思わないはずだわッ!」


そう言ったハルカが、チエコの方へと走り出した!

それと同時に桜橋の方へ、駅を発車した鎌倉方面行の江ノ電が向かって行く。




「ふぅぅぅ……ッッ!!」

重い息遣いをしたチエコが、泣き叫ぶ赤ん坊をガシッと力強く掴んだ。


「きぃぃぃぃーーーーッ!!」

そうヒステリックに叫んだチエコが、片手で高々と赤ん坊を持ち上げると、橋の下を見つめた。


ガーーーーー……ッ


橋の下に江ノ電が来る!

そこへ錯乱したチエコが、橋の下に赤ん坊を投げ捨て様としたッ!


「待ちなさいッッ!!」


その声に、ハッと我に返るチエコ。


ガーーーーーーーー……。


橋の下を通過した江ノ電が、極楽寺トンネルの中へと吸い込まれて行く。




チエコはその光景を見つめながら、娘を片手で持ち上げたまま、固まっていた。

彼女が高くかざしている赤ん坊は、激しく泣き続けていた。


「あなた…、そうやって、ナオキくんにも同じ事をしたの…?」


その言葉に驚いたチエコが、ゆっくりとその声の方へ振り返る。

そこには、ハルカが自分の事を睨みながら立っている姿があった!


「はッ…、はぁッ!?…、何の事!?」

慌てて、ハルカにしらを切るチエコ。


「あなたの事見てたわ…」

チエコを見つめながらハルカが静かに言った。


「見てたって、何をよ?、私はただ、自分の子供を『高い高~い♪』って、あやしてただけじゃないッ!」

チエコはハルカの言葉など、ビクともしない感じでしらを切る。


「またそうやって嘘をつくの…?、さぁ、一緒に警察へ行きましょう!」

少しイラついて来た気持ちのハルカが、チエコにそう迫る。


「ふざけないでッ!、だったら証拠を見せなさいよッ!」

チエコはハルカの言葉に、いきなり怒り出す。


「証拠?…、私は全て見てたわ」とハルカ。


「はんッ!、あんたが、あんた1人が見たっていう、そんな出まかせを、一体誰が信じるのよぉッ!」

「私は子供を自殺で亡くした母親よ!、それが原因で心療内科にも通って苦しんでるわ!」


「そんな弱者に向かって、なんて酷い事をいうのかしら!?、世間は私に同情するでしょうね!」

完全に開き直ったチエコは、ハルカに挑発的な態度で言う。


「あなたって人はッ…!」

怒りが込み上げて来るハルカ。


「アンタいい加減にしないと、名誉棄損で訴えてやるからッ!」とチエコ。


「……ッ!」

何も言い返せないハルカが、チエコを睨む。


「ほら、何とか言ってみなさいよぉッ!、証拠はッ?、証拠はどこにあるのよぉッ!?」

更にチエコはハルカを挑発し続ける。


「証拠はここにあるわ…!」

その時、リョウがハルカの後ろから現れて言った。


「だッ…、誰よアンタッ!?」

いきなり現れたリョウに、驚くチエコ。


「証拠はこのデジカメの動画で、全て収めさせてもらったわ…」

リョウが、手にしたカメラを指しながらチエコに言う。


リョウの言葉に、たじろぐチエコ。


「あなたが赤ちゃんに何を話していたのかも、高画質で撮ったこのカメラの動画から、あなたの口の動きを解析すれば、すぐに分かるわよ!」

「さあ!、もう観念しなさいッ!」


リョウがチエコに引導を渡す。


「きぃぃぃぃ…ッッ!」

するとチエコは、いきなり奇声を上げると、赤ん坊を脇に抱えたまま桜橋を乗り越え、身投げしようとした!


「あッ!」

ハルカが急いで、チエコの服を後ろから掴む!


「きぃぃぃぃッ!、離せぇッ!、離せぇ~ッ!」


身体を左右に振って暴れるチエコが、ハルカを振り切ろうとした。

だがハルカは意地でも離さない!


暴れるチエコから、リョウが赤ん坊を奪い取って保護をする。


「きぃぃぃぃッ!、離せぇッ!、離せぇッ!」


「あなたこのまま死んで、逃げおおせるとでも思ってんのッ!?」

「冗~談じゃないわッ!、あなたには、きっちりオトシマエつけてもらうわよッ!」


暴れるチエコに引っかかれながらも、ハルカはチエコを離さない!


そしてハルカに引っ張られるチエコが、橋の縁から引きずり下ろされ、道にバタンと倒れこんだ。

2人は橋の上でゴロゴロと転がった。


「きぃぃぃぃッ!、離せぇッ!、離せぇッ!」

それでもまだ、橋の上でもがくチエコ。


チエコの奇声を聞いた近所の住民が、何事かと思って家から出て来た。

近くを通りかかるサラリーマンや老人なども、2人の側に集まり出して来た。


暴れるチエコを押さえるハルカの周りには、いつの間にか大勢の人だかりが囲む。

やがて騒ぎを聞きつけた警官が、自転車を立ち漕ぎしながら向かって来る姿がハルカに見えた。


警官が人混みを割って入って来た。

だがチエコは、いつまでも奇声を上げながら暴れ続けるのであった…。



「いやぁ…、それにしても今回の事件は、悲惨極まりない事件となりました」

TVのワイドショーの司会者が言う。


「自分の赤ん坊を虐待していたその母親が、実は連れ子の男の子も殺めていたという容疑が、新たに持ち上がって来たのです!」


「犯人の前原チエコは、今のところ殺人の容疑に関しては否認している様です」

「弁護士の話によれば、犯人は極度の育児ノイローゼだったという事を主張しており、今後裁判では前原チエコに、責任能力があったのかどうかという事が争点となりそうです」



(やっぱりね…)

(だけどやるだけの事はやった…。あとは世論の正義がどう判断するかね…)


自宅でTVを見つめていたリョウは、ため息をつくとそう思うのだった。




「今回の事件ですが、玉川さんはどうお考えですか?」

司会者が、コメンテーターに意見を振った。


「いやぁ…、これは酷い!、ホントに酷い事件ですね。これが仮に無罪判決にでもなったら、日本の司法制度は考え直さなきゃいけませんよ!」

話を振られたコメンテーターの玉川が言う。


「玉川さん、珍しくマトモな意見ですよね?」

玉川の隣に座る、レギュラーコメンテーターの長島シゲカズが言った。


「なんですかシゲカズさん!どういう意味ですかぁ!?」


シゲカズの言葉に玉川が言った。

そして、続けて玉川がコメントする。


「しかし犯人チエコの旦那は、今どう思ってるんでしょうねぇ~?、自分の再婚が切っ掛けで、この様な悲惨な事件が起きてしまった事に…?」

「大人の勝手な都合で犠牲になるのは、いつも弱者である子供ばかりです。これを機に再婚をお考えのみなさんも、じっくり検討された方が宜しいかと思いますね!」


玉川がそう言うと、隣のシゲカズもしゃべり出す。


「でもさ…、シングルだと、やっぱ将来が不安になるんじゃない?、特に女性は…」


「毎年、こういう子供の虐待死事件が必ず起こってるけど、連れ子がいる人なんか、やっぱその辺は気になってるはずだから、絶対相手に確認してると思うよ…」

「『私には連れ子』がいるけど大丈夫か?ってね!」


シゲカズがそうコメントした。


「その確認の仕方が良くないんですよ。そう聞けば『うん、大丈夫だよ』って、そん時、相手は絶対言うでしょ!?」

玉川がまたしゃべり出す。


「で、そういう答えを初めから期待して待ってるシングルの方は、それが本心なのか検証もせずに、『ああ良かった!、相手もそう言ってくれた♪』て、無理やり自分に納得させて話を進めてしまうワケじゃないですか!?」


「それで犠牲になるのは、いつも子供たちですよ!、子供は親を選べません!、そして大人は上司を選べません!というワケですよ!」


玉川は、シゲカズにそう言った。


「玉川さん、上司が選べないって…、それ、自分の待遇に不満があるんじゃないの?(笑)」

苦笑いで玉川に言うシゲカズ。


「ええ…、だから私は50過ぎても、未だにヒラ社員というワケです!」


そう締めた玉川のコメントを聞いた観覧席から、少しだけ笑い声が出るのだった。





 鎌倉由比ヶ浜海岸

午後3時。


ハルカは海岸に一人で立っていた。


ナオキくん…、おねぇちゃんやったよ…!

おねぇちゃん、あなたの無念を晴らしたからね…!


海を見つめながら、そう思うハルカ。

だが、たとえチエコが逮捕されても、もう2度とナオキの笑顔を見る事は無いのだ。


そう思うと、涙が込み上げてくるハルカ。

誰もいない目の前の海は、太陽の光を受けながらキラキラと反射していた。




「おい君!…、君、ハルカじゃないのか!?」


そのとき男性の声が、ハルカの近くで聞えた。


「え?」

目をこすっていたハルカが、潤んだ瞳で横を見る。


「あなたは……!?」

ハルカが驚いて言う。


そう言ったハルカが見た先に立っていたのは、9年前、今井浜で知り合った、あのシンガーソングライターだった。


「ハルカだよな…?、俺の事、覚えてるか…?」

そう言いながら近づく笑顔の彼。


「もちろんよ…」

9年前と変わりない風貌の彼に、ハルカが微笑みながら言った。


「由比ヶ浜によく来るのか?」

彼が聞いた。


「ここに住んでるの…」

ハルカが静かに言う。


「そうなんだ…。俺…、前にも何回か、ここへ来てたんだけど分からなかったよ…」


「髪…、切ったから分かんなかったんだな…」

彼がポツリと言う。


「あなた、どうしてここにいるの…?」

今度はハルカが、彼に聞いた。


「探してた…」


「え…?」とハルカ。


「やっと見つけたよ…」

「ずっと君のこと探してたんだ…」


彼が微笑みながらそう言ったとき、海岸の波がハルカの足元を濡らした。


ザザ~ン…。

ザ~~~……、ザザ~ン…。


見つめ合う2人。


「どうして…?」

ハルカが彼に聞いた。


「あのとき、君のお別れパーティーが行われた翌朝…、俺は君に、最後の挨拶をしようと海岸に行ったんだ…」

「だけど、そこにはもう、君は居なかった…」


彼の話す言葉を、黙って聞きながらハルカは相手を見つめる。


「俺は…、俺は人が別れるとき、その相手を最後にどう見送るのかという事を、すごく大事に考えてる…」

「それは、たとえ離れ離れになっても、その相手との絆は、決して断ち切る事ができないからだ…」


ザ~~~……、ザザ~ン…。


黙って立つハルカの足元を、再度、波が濡らす。


「絆…?」

そしてハルカが彼に再び言った。


「ああ…、絆だ」

彼も言う。


「だから君にもう一度会いたかった…。君に会ってから僕は救われた…。だから君に会って、どうしても、この感謝する気持ちを君に伝えたかった…」


「ただそれだけの理由で…?」

ハルカが彼に言う。


「ああ…、ただそれだけの理由だ…」

彼が微笑んで言った。


「ふふ…、ヘンなひと…」

ハルカはそう言いながら微笑んだ。


「君…、君は今、泣いてたのか…?、どうしたんだ…?」


彼の言ったその言葉に、ハルカの顔から再び笑顔が消える。

そして、その理由を思い出すハルカは、また涙が込み上げて来るのだった。


「何があったんだ…?」

「ハルカ…、今度は僕が君の力になりたい…」


そう彼の言葉が終わると、ハルカは泣き顔を見られない様にうつむきながら、いきなり彼の胸元へと飛びついた。


「え!?」


自分に飛びついて来たハルカに驚く彼。

だが彼は、ハルカにそのまま身を任すのだった。


「いろいろあったよ…。いろいろ…」

彼の胸に顔を埋め、しくしくと泣くハルカ。




ハルカは思い出す。


母の死。

何も親孝行ができなかった自分。


恋人ケンイチの裏切り。

そして別れ。


プロサーファーになる夢を捨てた、あの日の今井浜海岸。


今回の、ナオキの死…。



「うう…、うう…ッ」


これまでの出来事を、鮮明に思い出すハルカは、声を押し殺して泣いた。

そして彼は、泣いて震えているハルカを、優しく「きゅっ」と抱きしめた。



「さあハルカ…、これで涙を拭いて…」

手を後ろに回し、自分のヒップポケットからゴソゴソとハンカチを取り出した彼が言った。


「ありがとう…、でも平気よ…」

ハルカはそう言うと、「くすん…」と鼻を啜った。


「さあ…」

ハンカチを渡す彼。


「いいの…、あなたのハンカチ汚してしまうから…」


「大丈夫さ…。僕はね、女性の涙を拭く為だけのハンカチを、いつも別に用意してるんだ…」


「ほんとう…?」

ハルカが驚いて、目をまん丸く見開いて彼に聞いた。


「冗談だよ…」

彼は笑顔でそう言う。


「ふふ…」

笑うハルカ。


「ははは…」

彼も笑い出した。


笑顔で見つめ合う2人が立っている由比ヶ浜海岸は、ハルカと彼以外は誰もいなかった。

そして、彼女をそっと抱きしめている彼が、小声でハルカに囁いた。


「君の傍に居たい…。今度は僕が君を守りたい…。いいかな…?」


彼の胸の中に顔をうずめるハルカは、その言葉にコクリとうなづいた。


ザ~~~……、ザザ~ン…。


由比ヶ浜海岸の静かな波音は、まるで2人を包み込む様に、いつまでも、いつまでも繰り返し続くのであった…。






 Following the story…


こうして僕は、やっとハルカに再び出会う事が出来た。

そして僕らは、あれからしばらくして一緒に暮らし始めた。


僕の左指は、まだまだ思う様には動かなかったが、僕はあの時に、ハルカとめぐり逢えた気持ちを思い出して、曲を書いてみる事にした。


完成したその曲を、僕はポータブルな機材で録音してみた。

不器用な演奏ではあったが、これは、これで良しと思う事にした。



 歌とは技術じゃない。


どんなに素晴らしい技術を持って歌ったとしても、人を想う気持ちが無ければ、何も伝わらないと僕は思っている。

ファッションやビジュアルなど、いろいろ気にしたい気持ちも分からないでもないが、でもやっぱり最後は、人に想いを伝えたいという気持ちが重要であると僕は思っている。




え?

その歌の曲名?


曲名は、もう決めているよ。


曲名は、「由比ヶ浜で逢いましょう」だ…。



THE END

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