第十八話
第十八話 イーダス侯爵家の惨劇
イーダス領領主、ヤークトン・ウェネーシア・イーダスは妻子を置き去りにして夜逃げした。領地を捨てて向かうは他町の別荘。そこは小さな町ではあるが、湖が臨める綺麗で長閑な田舎町。ヤークトンはそこの領主とも仲が良く、悠々自適な隠居生活が待っている。はずだった。ヤークトンの逃亡計画は早くも崩れ去る。旭日興国団の幹部、毒魔女ことネーラの手によって。
「そんなに急いで何処へ行くつもりかしら。」
「何なんだ貴様は?」
「ネーラという女よ。」
「そこをどけ。私は行かなければならん場所があるのだ。」
「それは何処かしら?」
「大事な用事でな、生憎部外者には教えられんのだ。だからどいてくれ。」
もっともらしい事を宣い、この場を早々に立ち去ろうとするヤークトン。だがネーラは彼の心を見透かしたように彼の本音を言い当てる。
「大事な用事とか言って本当はこの大惨事から逃げたいだけでしょ。」
「無駄口を叩いている暇は無いのだ。どけ。」
「どかないわ。」
「何故だ?」
「あたしは貴方を始末しなければならないの。だからどけない。分かって貰えた?」
「何だと!分かるわけないだろ!」
「ふふふ。いい子にしててね。」
ネーラは妖艶にそう言って姿を消した。
「き、消えた?」
正確には素早い動きで消えたように見えただけだ。ヤークトンは魔術を使えない。戦闘には全くと言って向いていないのだ。ヤークトンがネーラの姿を見失ったその致命的な隙を突き、ネーラは固有魔術、悪魔の薬を行使。
しっかり命中しヤークトンはその壮絶な痛みに悶え苦しむ。
「あああっ!助けてくれ。逃げない、逃げないから頼む。この痛みを取ってくれ!」
「だーめ。助けて欲しかったらあたしの言う事聞いてくれる?」
小悪魔的な、否、悪魔的な笑みを浮かべ、ネーラはヤークトンに死のおねだりをする。
「分かった。何だ?貴様の望みは何だ?」
「ふふっ。貴方の息子さん。殺っちゃってくれる?奥さんは殺らなくていいわ。」
悪魔の笑みを浮かべ、首を傾げてお願いするネーラ。これにヤークトンは心身の自由を完全に奪われ、唯々諾々とネーラの言う事を聞く操り人形と化した。ネーラの問いにお決まりのあの返事。
「イェス、マム。」
「あははっ、いい子ねえ。可愛くってよ。」
目を細めヤークトンの頭を撫でるネーラ。心から可愛がっているのか甚だ疑問だが。悪意に満ちた恐ろしい嗤いを浮かべているので、心から可愛がってはいないだろう。
「じゃあ行ってらっしゃい。そのままじゃ心許無いからこれを持って行って。」
ネーラがヤークトンに手渡したのは毒袋だ。それもネーラお手製の特注品だ。ヤークトンは好きな女の子からプレゼントを貰った時のように嬉しそうな顔をして自領へ走り戻って行った。ヤークトンの恍惚の表情は悪魔の薬のせいなのだが。
「うふふ。お仕事頑張ってね。」
ネーラの悪魔の嗤いは夜闇に溶けて行ったのだった。
イーダス領領主の屋敷。そこには領主、ヤークトンの妻、ミエル・ウェネーシア・イーダスと息子、ポルト・ウェネーシア・イーダスが残されていた。中には護衛兵たちが詰めていて守りは万全だ。外では3人の魔術師が最前線で戦っている。領民兵は一時引き上げている。そんなのがイーダス領の現状。そんな中、イーダス侯爵邸に向かって走る者あり。それは他でも無い、ヤークトン・ウェネーシア・イーダスその人だ。彼は恍惚の表情で屋敷へと向かう。その姿はどこか不気味だ。懐にネーラお手製の毒袋を潜ませ門前へ到着した。領主の帰宅に門番は慌てて中へ通す。どこか異常さを感じ訝しみながらも、門番は気にせず中へ通した。それが惨劇の幕開けだった。
ガドロは魔術師3人と相対する。3人の魔術師は警戒しながらガドロの隙を窺う。
「フッ、そんなに警戒しても無駄だ。貴様らは何も出来ん。」
「付け上がるな、薄汚い平民共に味方をする魔術師め。」
ガドロにそう吐き捨て1人が動いた。
「実に温いな。エアロトライデント。」
1人の魔術師が水弾を放つ。これをガドロは避けるでも守るでも無く、風属性上級魔術であるエアロトライデントで立ち向かう。破壊の風が水弾を容易く掻き消し、水弾を放った魔術師をも吹き飛ばした。更にその風は3方向に分かれ残りの2人を襲う。
「くっ。」
「何だこの威力は!」
2人は防御魔術を張り身を守ろうとするが、圧倒的な風力に魔術障壁は為す術なく崩れ去る。
「うわああっ!」
「ぐおおおっ!」
2人は消し飛んだ。
「さて。イーダスんとこはネーラに任せてあるし、戻るか。」
ガドロは仕事を終え引き返すのだった。
イーダス家は代々つづく王侯貴族家だ。爵位は侯爵。皇帝に従順な皇帝派だ。そのため領主、ヤークトン・ウェネーシア・イーダスは息子のポルトに平民は貴族の為の肥やしに過ぎないと教育して来た。だが、ヤークトンの妻のミエルは平民蔑視に否定的な人間だった。そのためヤークトンとの喧嘩は絶えなかった。それでもやはり皇帝の意向には従うしか無く、渋々首を縦に振るしか無かった。しかしヤークトンが平民から搾取を続ける中、ミエルはこっそり平民に囁かな振る舞いをしていた。だから平民からのミエルの評価は高かった。今回ネーラの標的を外れたのはそれ故の事である。
ヤークトンが帰って来た。これには護衛兵もポルトもミエルも皆驚きを隠せない様子。それもそうだろう。一度家族を捨てて逃げた男が事態の収集を待たずして戻って来るとは誰も思うまい。ポルトがヤークトンに何か言おうとして
「親父。親父!」
ヤークトンの不気味な恍惚の表情に気付き、驚愕しつつも背中が急速に冷えて行くのを感じた。それは護衛兵もミエルも同じだ。皆変わり果てた領主の様子に言葉を失った。
「何があったの、あなた?」
ミエルが心配して声を掛ける。すると
「心配要らないよ。ちょっとしたお仕事だよ。これをしないと痛いから。」
ヤークトンは口から涎を垂らしながらそう答える。これにミエルは危険を感じ、ヤークトンから離れようとしたが、ヤークトンの手刀が首の後ろにクリーンヒット。ミエルは気絶し床に倒れ伏した。
「母さん!」
父親の突然の母への暴力に怒りを露わにするポルト。信じられないとばかりに護衛兵たちが目を剥いた。
「領主様、お気を確かに。」
「親父!誰かに操られているのか?答えろ!」
聡いポルトは見抜いた。ヤークトンは何者かの手によって操られているのだと。しかしもう遅い。ヤークトンは正気に戻ることは無い。そればかりか、ポルトを何としてでも殺そうとしている。
「ポルト、死んでくれーっ!」
ヤークトンは声高に叫び、懐から毒袋を取り出した。そしてそれを破ってのけた。恍惚の表情を崩さないまま。むしろもっと喜悦に満ちているような気さえする。
「親父何を!くっ。」
逸早く毒に気付いたポルトは魔術的防御をした。が、魔術に心得の無い護衛兵たちは毒を吸い倒れ出した。
「これは魔術毒だな。毒使いか。」
「ちっ。お前もさっさと吸っちまえよー。気持ちいいぞー。」
子供に煙草を勧めるダメ親父みたいな感じで言うヤークトン。
「誰が吸うか。親父、覚悟!」
ポルトは意を決してヤークトンにファイアランスを放った。炎の槍が真っ直ぐヤークトンに迫り
「はぐあっ。」
ヤークトンを正確に焼き貫いた。
「親父、すまない。」
腹部に大穴を空けて仰向けに倒れ、ピクリとも動かなくなったヤークトン。ポルトは父親を殺めた事を謝罪した。仮令それが正しい選択だったとしても。
「本当に嬉しそうに死んでやがる。ん?」
ヤークトンの死に顔は本当に嬉しそうだ。嬉しいどころかこれはもう恍惚の表情と言って差し支えないだろう。一体どんな僥倖を味わったらそんな顔をして死ねるのだろうか。ポルトはそんな事を思った。最初は。だがヤークトンの死に顔は異常だ。背筋が冷えるのを感じたポルトはその場を後退った。まるで先と同じ表情。そう、同じ表情。死んだ人間がそんな顔をしていられるはずが無い。危険を感じポルトはもう一発ファイアランスを放った。今度は頭目掛けて。するとヤークトンの死体がファイアランスを避けるように横っ跳びにもんどり打った。これにはポルトもびっくり仰天。冷や汗をかき息を飲んだ。
「こいつはもう親父じゃねー。」
化け物だ。そう思いポルトは一切の容赦を捨てた。3本のファイアランスを一気に放った。これをヤークトンは先までとは見違えるほど鋭敏な反応を見せ、軽々と躱して行く。これに目を剥く暇無くポルトは次弾を撃つ。
「おのれ、化け物。親父の姿をした化け物めーっ!」
さらに5本のファイアランスがヤークトンに集中砲火。流石にこれは回避不能。2本のファイアランスがヤークトンに命中し左脚と右肩を焼く。しかしこれを受けて尚ヤークトンは恍惚の表情を崩すこと無く、何かをぶつぶつ呟いている。
「何を言ってるんだ?」
ポルトは耳を澄ます。そして聞こえてきたのは
「ソーリー、マム。ソーリー、マム。ソーリー、マム。」
「ごめんなさいだと?母さんにか?」
ヤークトンは恍惚の表情で呟く。ソーリー、マムと。だがそれは決してポルトの母、ミエルに対する謝罪では無い。ネーラに対してネーラの元へ帰ることが出来ない事を謝罪しているのだ。だってヤークトンはネーラの操り人形。彼女に尽くす事で救われる。幸せで居られる。最早神聖視と言っても過言では無いかもしれない。そんな男の不気味な呟き。それを聞いてポルトは
「いい加減くたばれ!」
留めのファイアランス。脚を焼かれ満足に動けないであろうヤークトンには致命打だ。勝った。ポルトがそう思った束の間。何を思ったか、ポルトに向かって走りながら、ヤークトンが自分の右手の指全部を切り落とし、常人では有り得ない力で、口に挟んだその指を高速で飛ばして来た。これに多少動揺しながらもポルトは全て避け切った。そしてポルトのファイアランスがヤークトンを真っ二つに焼き裂いた。これで今度こそ本当に勝った。ポルトがそう安堵し
「うっ。」
ヤークトンは最後の力を振り絞り、残した最後の1本を射出していたのだ。それがポルトの右上腕部に刺さった。凄まじい速度。銃弾もかくやというスピード。深く刺さった指が中々にグロテスクだ。ポルトはそれを抜き治癒魔術を掛ける。すぐに傷は治り事なきを得た。
「母さん!」
ポルトはミエルの元へ駆け寄り、傷が無いか調べ、無傷である事を確認し、安堵の息を吐いた。彼の命については安堵出来ないが。
「ぐあっ。があっ。苦しい。ああああっ!」
ポルトが突然のたうち回り出した。あまりの苦痛に悶絶する。
「何故だ?毒は吸っていないし、怪我も治した。まさか!」
そう、あの指には毒が仕込まれていたのだ。正確には爪にだ。ネーラは予めヤークトンの爪に体内を焼け爛れさせる魔術毒を仕込んでおいたのだ。
これをポルトは体内に入れてしまった。油断から来た災いだ。
「焼ける。身体が焼けて行く。熱い。痛い。ああっ!」
ポルトは何時間と悶え苦しみ
「ぁぁっ。」
軈て息絶えた。イーダス邸にはミエルを除き生存者はゼロ。壮絶なイーダス家の粛正はこうして幕を下ろしたのだった。