第72衝 薄陽の鑑連
まだまだ生きて、しぶとく撤退を継続中の田原常陸隊。左手に明るい海が、右手になだらかな山が続く。山には紅葉も広がり、先の戦勝もあり、惨めかつ陰惨な撤退戦の様相でない今を、備中は天に感謝する。そしてふと呟く。
「晩秋」
その最良の季節に似つかわしくない戦争をしているのだが、台詞が美しく決まった気がした備中へ、隣を進む武士たちが反応する。
「冬、冬だ。もう立冬だよ……不吉な秋は終わりだ」
「安芸勢の追撃はまだ終わらないしね」
「本隊は、今どの辺りにいるんだろうか。まだ彦山の下の辺りかな」
「日田あたりでは?」
「なら一安心しているさ。我々とは違って」
「そ、そうですね……」
備中は臨時の侍大将とはいえ指揮する兵などいないが、大将の田原常陸が親しくしてくれるため、撤退戦にあって、田原家の家臣たちと心の交流を持ちえた。これは心の縁となり幸いであった。
田原常陸はさまよえる橋爪隊の約半数を救出できたが、指揮官の橋爪殿は今も安静が必要となったため、負傷者の多い彼らの統率が、更にその肩に掛かっていた。
それでも隊の空気は良かった。極力脱落者を出さないよう配慮するように命令を繰り返し、その姿勢を断固揺るがさなかったためだ。これに感動した備中、
「ご立派です」
と述べれば、田原常陸は本気な顔をする。
「また豊前を取り戻すために、これ以上舐められるわけにはいかないからな。我らは人の道でも優れている事を、姿勢で見せねばならない」
その発言に、備中は田原常陸の宗家への忠誠心を見た気になった。
中津の平野へ到着した田原常陸隊。
「申し上げます。中津川の手前、佐井川の先に安芸勢が先回りして陣取っています」
「やはり先回りしていたな。近くの広津城の様子はは」
早馬は嬉しそうに述べる。
「はっ、大友の旗が派手に翻っています」
「よし」
田原常陸、部下を見渡して言う。
「だが、城に逃げ込めるとは思うな。一つの可能性として、既に陥ちていて旗は擬態かもしれないし、そうでなくとも安芸勢が容易な入城を決して許さんだろうからな」
「味方の増援に期待したい所です。宇佐宮が近く、こちらへ兵を回してくれるかもしれません」
備中は、その発言をした武将の顔が強張っている事に気がついた。その発言に懸念があるのか。田原常陸はその懸念をなぞる。
「他の力を当てにはできない。特に宇佐宮は心中で豊後勢よりも安芸勢の勝利を願っているはず。まず動かないだろう」
それでは中津川を越えてもちっとも安心できないのでは、と備中今更ながら、田原常陸の発言を訝しむが、何か対策があるのだろう、とまずは遠慮しておく。
「安芸勢の旗印は?赤幡と同じではないと思うのだが」
「はい、巴の旗です」
「出て来たな」
腕組みをする田原常陸に緊張を深める武将たち。
「厄介な指揮官の旗だ。安芸水軍が恐ろしいとすれば、その旗印が真の敵だ。だが、陸上の戦いなら、こちらが優れている。撃破するぞ」
「はっ!」
合戦準備のため武将たちが下がると、田原常陸は備中を近くに呼んで曰く、
「ここはもう豊後に近い」
「はい」
「ここで負けると言うことは、私が数年前から取り組んで来た事業が全て水の泡になるということ。絶対に負けずして、川を渡り切らねばならない」
これは相談だ、と思った備中。意中を存分に述べる。
「以前、田原常陸様が仰られた中津川を渡れば安心、という一歩前でございます。中津川の向こうの増援が期待できる、ということであれば、私が声掛けをしてきます」
「一度は安芸水軍を跳ね返したから、効果はあるかもしれない。だが、まとまった援軍を期待するには奈多宮まで行かねばならない。余りにも遠すぎる」
「国東の諸城は如何でしょうか」
吉弘家の本領である都甲荘(現豊後高田市)が近い。
「今回の戦いで数多くの兵を出している。これ以上はとても無理だ」
「では宇佐宮ですね」
「はは、あそこは私を恨んでる」
「え?」
「前に焼き討ちをしたから」
「……」
打つ手がないんじゃ、と絶句する臨時侍大将。この大将は結構いい加減な男なのかもしれない、と不信が芽生えてくるも、田原常陸は明るく続ける。
「ではどうする?」
「戦って勝利するしか……」
「そうだ。道を切り開く。これは大前提だが、こんな時こそ奇策を用いるにはもってこいではないか」
「奇策……ですか」
頭をひねる備中だが、田原常陸には目指すところがあるらしい。
「この隊の中にも豊前の出身者はいる。逃げ出すか、敵に通じる者も多少は出るだろう。ハッキリ言おう。援軍迫る、の噂を流したい。無論、安芸勢へ向けてだ」
「……」
「思案してくれ」
「さ、左様……う、噂を誰から開始するか、が大切かと。御家中幹部の方からでは信用されないかもですが……」
「なら誰からなら良い?」
「……」
「信頼性があり、安芸勢にも届く相手だ」
「うーん」
となると、客員待遇の自分だろうか。田原常陸の目が、そう言え、と光っている、気がした備中。
「どうした」
「い、いや、しかし……」
「森下殿、言ってくれ」
「そ、その前に……内容についてですが。海から援軍が来ると言う内容はいかがでしょう。例えば伊予勢、土佐勢とか」
「安芸勢を驚かすには良いが遠すぎるな」
「では……」
「……」
「我が主人、戸次鑑連では……」
「それだよ」
パチンと指を鳴らす田原常陸。
「それしか無い。こちらに来る援軍は戸次伯耆守、と言う事にしよう」
「は、はぃ」
「今の豊後勢では唯一負けがついてないし、事実隊も健在だ。我らに囮を依頼した以上、彼はこの戦いに参加しているとも言える」
嫌な予感がしてきた備中だが、田原常陸の発言にほ鑑連への毒を感じない。やはりこの人は良い性質だ、との理解を深める。
「で、誰が噂を流すか……」
「……」
「やはり、森下殿しかいないよ」
「そ、そうですか……」
俯いた備中に、田原常陸は常らしからず構わず続ける。
「よし、噂も森下殿から始める。それで行こう。外部にも噂を流さねばならんが、宇佐宮は最適だ……明日の朝、ここだけの話、と言う程で噂を広めたら、使者として宇佐宮へ向かってくれ。無論、護衛を付ける。それから広津城へはどうしようか。何か適当な合図を乱発して、敵に疑惑を深ませるか、いやあるいは城に敵勢をおびき寄せて一撃を加えるかそれとも……」
どうやら田原常陸の頭は活発に想像を開始したようであった。ブツブツ呟きふと同意を求めてくる田原常陸の姿が、一瞬、主人鑑連と重なって見えた森下備中であった。
「似てないのに不思議……」
だが、きっと何処か通じる点があるのだろう。奇妙な安堵を得た備中は、呟き続ける田原常陸の側で、次に来る言葉に備えて待ち続けた。




