第496衝 去柳の鑑連
その日の柳川攻めは明らかに失敗に終わった。城に損害を与えるどころか、反撃を受けて死傷者を出したのは戸次隊なのだから。
ただ最悪の状況ではない。小野甥と由布の指揮により主だった軍勢を沖端川右岸まで引くことはできた。鑑連は直ちに医師の診察を受ける。
最前線から戻った内田は、自身の負傷も忘れて憤慨する。
「何故、殿が倒れねばならんのだ!」
「……」
「あ、あと一歩ではないか!柳川攻略!筑後平定!薩摩勢撃破!それなのに……!」
「左衛門……」
「備中!お前は殿のお側近くにいるのに、ご不調に気がつかなかったのか!」
言っても無理なことを、言わざるを得ない内田の心境も理解できる備中であった。
「ごめん……」
「……」
「……それで、龍造寺政家殿のお使者は?成富何某だったな」
「その者は姿を消しました。当方の異常を察知したのでしょう」
「……そうか。調略は仕切り直しが必要だな」
「仕切り直し!調略は中止でしょうが!」
「……落ち着け内田。ともかく医師の診断を待て。お前も負傷を癒せ」
静かなる由布に鎮撫され、ようやく黙った内田であった。戸次武士はみな、沈痛な表情である。指導者鑑連の偉大さは、こんな時にも明らかになる。戸次勢は、譜代の家来の他、小野甥や薦野のような新参者、小田部勢その他のもっと新参者もいる寄合世帯、鑑連という求心力が無くては存在すらできないのではないか。国家大友より先に、鑑連の軍勢が霧散してしまうことになりはしないか。
医師が戻ってきた。曰く、毒や負傷の痕跡は見られず原因はワカらない。過労が原因による昏倒ではないか、ということ。
「あの殿が過労か……」
誰も、お歳だから、とか、昨年からの滞陣だから、等とは口にしないし思いもしない。それこそ鑑連には最も不似合いな言葉である。
この時の備中は、同僚たちの言葉を急に思い出していた。かつて小野甥は言った。
「殿は、国家大友の信頼を回復するために、これから動き回ることになるでしょう。休む事なく、その暇なく齷齪と」
寡黙な由布もこう言った。
「……殿とて万能ではない。迷いや後悔と無縁であるはずもなく、その苦しみを吐き出せる相手がいるだけ……」
家臣団は鑑連の無敵に寄りかかり、結果的に負担を軽くするどころか、逆の悪影響を与えていたのかもしれない、との考えに至り、忸怩たる思いに沈んだ備中。医師の言う、なにより休息を与えること、という言葉を噛み締めていたが、
「情勢と、殿ご自身の気概がそれを許すはずがない」
と確信していた。
多くの武将らが鑑連のご機嫌伺いと称した見舞いにやってくる。作戦相談となると、由布が完全に代理を務めてしまうからであるが、
「戦地を視察中とは言えん。すぐバレる」
「用事があって坂東寺に行っているとも言えんぞ。今、戦線を離れるのは何と言っても不審」
「といって、医師の治療を受けて眠っているとも言えん。どうしよう」
結局、曖昧な不在回答をするしか無く、諸将の不安は高まっていく。
「もう、噂が流れることは止められないかもしれない」
額を寄せ合って悩む幹部連は、明晰な動きを止めてしまったかのようだった。これを打破するのは外様の小野甥である。
「すでに私から、高橋様にはお話を致しました」
「なに」
「最善の道です」
勝手な真似をして、という表情になる幹部連だが、いつかは露見する出来事であるし、鎮理は鑑連にとっての無二の協力者である。だが、高橋は見舞いには来ていない。
「この陣にいる間、殿の代理を務められる程の御仁は他にはいません」
その御仁以外の豊後衆、筑後衆は続々と見舞いにやってくるが、不安のみを抱えて自陣に戻っていく。特にそれが顕著なのは、高良山座主である。心を鬼にして備中が対応する。
「戸次殿は大丈夫なのか」
「問題ありません」
「ならば会わせて欲しい」
「ただいま休息中でして。目が覚めたら座主様の陣をお訪ねいたします」
「あの戸次殿が休息中なんて」
「……」
「あの、戸次殿だぞ」
「勝利を前に考えを巡らせたいようです」
「前にもお倒れになった。やはりお加減が良くないのだろう?」
「そんなことはありませんよ」
「……」
「……」
座主は近づき声を潜め、
「備中殿」
「は、はい」
「仮に戸次殿がご病気で戦線を離脱するようなことになれば、柳川奪取は夢と消えるぞ」
「……」
「私は筑後の人間だからワカるのだ。まず佐嘉の連中が戻ってくる。次いで薩摩勢が到達すれば、あっという間に征服されてしまう。誰も抵抗などできやしないから、抵抗しない。あっという間だ」
「……」
「……」
「だ、大丈夫です」
「戸次殿が病気でなければそれで良いが……」
それは確実に異変を察知している表情だった。いよいよ良く無い状況になってきていた。
「備中殿。鑑連殿が倒れたというのは本当か」
「朽網様……あ、お待ちを!」
国家大友の重鎮最高齢者の威厳を用い、鑑連の休息所へ強引に入ってきた朽網殿。眠れる勇将を前に突っ立ったと思うと、老人は話しかけ始める。
「鑑連殿、起きるのだ。そなたはこんな所で倒れてよい男ではない」
鑑連が目覚める気配はない。
「鑑連殿、聴こえているはず。起きるのだ」
「我々入田一門を滅ぼしたくせに、ここで終わるのか」
「多くの武士だけでない。義鎮様の誇りをも打ち砕いたくせに、彼らの無念の上に、眠るのか」
その声は聢り、悲痛になる。
「相手は佐嘉勢だぞ。薩摩勢ですら無い!とんでもない田舎者、雑魚だと言っていたではないか!」
「立て、立つんだ!豊後の命運はそなたにかかっている!私を無能と嗤うそなたにかかっている!」
「そなたは私達の誇り、老いた私の誇りなのだ……」
朽網殿は嗚咽すらしているが、鑑連は眠っており、眠り続けている。余りに痛々しい場面に、誰も遮ることもできない。が、しばらく鑑連に話しかけ続けた朽網殿、急に説得を止めた。ふらりと立ち上がると一転、冷たい声で曰く、
「私の人生を蹂躙した者の末路がこれか。やはり神はいるのだな」
その声の調子はただ一言、失望で表現できるものであった。戸次武士らに一切の声をかけることなく、朽網殿は自陣へ去った。備中はふと、小競り合いの戦声が大きくなったような気がした。
それから数日間、眠り続ける鑑連を他所に、大友方は苦境に陥っていく。
小野甥必死の対処も虚しく、佐嘉勢の反撃が明らかに強く、粘り強く変わった。先の攻城戦の一幕で佐嘉勢内部で変化があったのではなく、鑑連昏倒の情報が浸透してしまったと考えるべきだった。さらに悪いことに、
「おい、佐嘉城から援軍が送られてくる何て噂もあるぞ。今の佐嘉勢首脳に、そんなことは可能だろうか」
「殿が昏倒した、という噂が事実という確認が取れればそうだろうよ」
「なんだ貴様その言い方は!」
「諍いは止めろ。それより、龍造寺家の現当主からの打診は無いのか」
「その後プッツリと切れてしまいました」
佐嘉城から援軍が出ないように鑑連が行ってきた心理戦が破綻したということならば、この包囲網すら危うくなる。あとは撤退の一事となる。
こんな時、戸次勢にあって主導権を発揮できる者は、小野甥しかいない。
「佐嘉勢どころか敵に殿の昏倒が知られてしまった。そして殿が目覚める気配がない。味方の士気が総崩れになって、敵の反撃を受ける前に、撤退します」
爽やか侍の爽やか為らざりし声に声を失う戸次武士ら。だが、賛意は表せない。外様の者が神の如し鑑連の戦略を覆そうとしているなど、多くの者には容認できるはずがない。だが、結局はその通りに決定された。
「……私は小野の提案を受け入れるしかないと思っている。このままでは、それが最善だ」
そんな爽やか侍を、戸次武士の全員から支持される由布が。全面的に支持したからであった。この方針は鎮理にも伝えられ、鎮理を通して他の豊後勢にも伝えられた。筑後勢に伝えるのは備中らの役目であったが、誰もが一様に絶句し、顔面蒼白になる者もいた。特に、筑後勢で最も多くの勢力を率いる山下城の蒲池殿がそうで、
「ご病気という事なら仕方ない。戸次殿をおいて勝てる者がいないとなれば尚更だ。が、忘れるな。この後、北上してくる薩摩勢の攻撃を最初に引き受けるのは、私たちになるのだ!」
「はい」
「肥後高瀬の薩摩勢の影響力は、そこまできているのだ!」
「はい」
「本当に貴様らワカっているのか!」
「はい」
慍りに目を燃やす山下城の蒲池殿であった。自分たちに再び国家大友を裏切らせるのか、ということだ。気弱な備中にも、心の痛みに耐えつつ毅然と答える他選択肢はなかった。
夏の盛り、戸次隊は柳川城包囲を解いて高良山へ撤退した。鑑連は、彼自身が軟弱として嫌っていた輿によって運ばれていく。同時に、他の大友方も同じように、柳川から去っていく。豊後勢も、筑後勢も、思いがけ無い失望を胸に。
精一杯に哭く蝉の時雨がせめて鑑連の不幸を誰にも聴こえないようにしてくれるかのようであった。その為か、恐怖はまだ、なかった。




