第478衝 壅塞の鑑連
結局、セバスシォン公は高良山へ戻る事なく、天正十二年の冬に豊後へ去っていった。二万人近くの将兵たちは、総大将を喪失したのである。
鑑連が老中でもある公を力強くで抑留するには国家大友における身分差があり、さらに公自身の言う通り、そこまで踏み込むには鑑連自身に憤怒や傲慢さが不足していた、と備中は見た。
日田方面へ去り行くセバスシォン公の後ろ姿を為す術なく見送るしかなかった鑑連。立ち尽くすその姿は、筆舌に尽くし難い。収穫無く、失望を抱えたままだが、危機が迫っている。高良山へ向け急ぎ帰還した。余りに迅速であったためか、同じく公を探していた朽網殿とは遭遇すらしなかった。
「おかえりなさいませ」
「鎮理」
高良山の本陣には戻っていた鎮理が入っており、鑑連の代わりに全ての情報を集約しつつあった。
「善導寺の一件は落着したか」
「とりあえずは。それよりも、親家公は」
「坊やはお家へ帰ったよ」
「……」
「それ以上でも、それ以下でも無い」
「残念です」
本陣の上座に座る者はもう居ない。空しい風が吹いている。だが、誰かが責任を引き継がねばならない。鑑連は躊躇うことなく、上座に腰をおろして報告を求める。
「柳川の状況を」
「はっ。出撃した柳川の城兵による火付略奪がありました。敵勢は八女郡にまで到達しましたが、山下城の蒲池勢を中心にが撃退に成功しました」
「城主が変わったのか?」
「いいえ。変わったのは、むしろ筑後川右岸で待機し続けている佐嘉勢です。一見して、軍勢の規律が改善しています。草の者の活動も活発化し始めました。どうやら本拠地佐嘉にて、龍造寺山城守死後の指揮系統について、一定の整理が行われた模様です」
「実質的な指導者は誰に決まった?」
「家老の鍋島飛騨守です」
「五州二島殿の御印を拒絶したあいつか」
「以後、柳川城に入っている龍造寺上総介との連携を強めるのではないでしょうか。我らは時間を掛けずに、これを攻め落とさねばなりません」
「ほう」
鑑連、鋭い視線を鎮理に向けて曰く、
「拙速などお前らしくない意見のようだが」
「戸次様はおワカりでしょう」
「何のことかな」
惚けた様子の鑑連に、横から小野甥が口を挟んだ。憂愁を帯びて。
「総大将が帰国した今、豊後勢の戦線離脱が以後必ず発生すると考えるべきです。制圧した上筑後の軍勢を動員できる今が、最大の兵力を動かせる限界点です」
そんなことはワカっている、と無言で述べる鑑連。その上で、どうするべきかを思案しているのだろう。薩摩勢を誘き寄せて撃滅する、という考えに回帰しているはずだ。
それにしても鑑連は、上筑後の先行制圧を進言した小野甥を詰ったり非難したりしないことに、まだ救いがあると備中は感じていた。総大将の戦線離脱など、起こり得るものではないためだろうか。しかし、思い起こせばかつて佐嘉攻めを主宰した義鎮公も、前線から離れたことがあったことを思い出した備中であった。
伝令が飛び込んでくる。
「申し上げます!志賀隊が撤収を始めました!」
「早速、来たか」
小さく呟いた鑑連を見て、鎮理が質問する。
「志賀殿とはどの隊のことか。御隠居か、志賀パウロ殿か」
「りょ、両方です!」
総大将に続いて、豊後勢最大の軍勢が去ろうとしている。筑後戦線は急速に瓦解を始めている。
「鎮理、撤収中止、させられるか?」
「吉利支丹宗門の意図がある場合、困難かと」
「吉利支丹のガキも望んでいるだろうが、主体は親父の方だろう、いや祖父だったな。あれは面倒くさいヤツだから、ワシが言うよりお前の説得に耳を傾けると思うのだが」
鑑連にしては珍しく、配慮ある発言だった。これを受けない鎮理ではない。了承して直ちに志賀隊の陣に向かった。
やるせ無い空気の中、言葉がでない鑑連主従。このまま雪崩を打った撤兵が続けば、筑後奪回作戦は失敗の烙印を押されることになる。しかし、形式的には重要ではあるが国家大友の城主でしかない鑑連に、この責任を求めるべきだろうか。備中にはどうしてもそう思えなかった。
味方の状況は悪く、何一つ進言できることが無い。近習として窮する気持ちが胸を締め付ける。
鎮理の外出からしばらくして、志賀前安房守の使者という者が書状を持ってやってきた。受け取り、急いで鑑連に取次ぐが、鑑連は面白く無さそうに、つまり感情のこもらぬ視線を動かす。
「と、殿。志賀様は何と……」
「志賀パウロが吉利支丹宗門の連携に従って帰国するとさ。後、今、志賀家は分裂の危機にあるため、老いの身だが自分が戻らねばならない。戦場を放置して、誠に遺憾であり心苦しい。よって、坂東寺に配置していた兵力を、それを率いるに相応しい者に残す……だとさ」
「えっ!」
「よくワカらんがつまりこれはあれだ。せめてもの情けということだな」
「し、しかし鎮理様のご説得が実を結べば」
「ダメだな。後日、ワシに粛清されない理由を作るため、この文を寄越したのさ。ヤツはそういう野郎だ。鎮理には申し訳ないがな」
「……」
迫る天正十二年の年の瀬を思うと、強い思いがその口を突いて出る備中。
「何故こうなってしまうのでしょうか。つい先頃まで、善導寺の不祥事はあれど上筑後を平定し、希望に満ちていたはずなのに」
鑑連も小野甥も無言である。愚痴ったとて、答えられる類のものでもないのである。
志賀前安房守の使者が去った後、朽網殿がやってきた。全て後手後手のこの老人に、怒りすら覚える備中だったが、
「戻ったか」
「セバスシォン様はお戻りではないのか」
「情報が一周遅いな。あいつは豊後に帰ったよ」
「な……」
「筑後国内で捕まえたんだがな。説得の甲斐は無かった。義統をとことん毛嫌いしているから、ワシと一緒に居ることに耐えられなかったのだろう」
朽網殿は、唇を噛んで俯いた。国家大友の重臣の中でも最高齢に属するこの人物は、その栄光と挫折と共に歩んできたと言える。鑑連と等しく。人生の黄昏時に、このような苦境と遭遇するということは、最も考えたくないに違いない。
「鑑康」
「……ああ」
「貴様も帰りたければ、豊後に帰るがいい」
「なに」
「止めはせん。好きにしろ」
投げやり発言をする鑑連の真意を計りかねる備中。ついに、国家大友の何もかも嫌になってしまったのか、と訝しむ備中だが、その懸念はすぐに払拭される。
「鑑連殿はどうするのだ」
「ワシは残る」
「残って、佐嘉勢と戦うのか」
「決まっている」
「無理だ。そなたは私を無能と笑い……はは、自分でも否定は出来ないが、それでもワカる。今、高良山に集まっている軍勢を維持できない。櫛の歯が抜ける様に、みな去っていくぞ」
「早速、志賀が帰ると言ってきた」
「何!」
「ついさっきな。今、鎮理が説得に向かっているが、入れ替わりに言伝が来た。ほら」
そう言って、書状を朽網殿に放り投げた鑑連。目を走らせ、怒りに体を震わせる朽網殿。
「あいつめ!真っ先に自分だけ助かるつもりか!」
「だから貴様が帰るといってもワシは止めん。好きにしろ」
「だがそなたと高橋勢、そしてどれだけ残るかわからない筑後勢を率いて、柳川を攻め落とすなど、余りに無謀だ。あの龍造寺山城守とて、数万の兵で一年近く囲んだ末に、相手が降伏したのだ」
「だから、貴様は好きにすればいい。それに義鎮も帰って来いと言ってくるのではないかね?」
義鎮公への絶対服従が骨身に染み渡っている朽網殿は、言葉に詰まり俯くしかないのであった。




