第353衝 苦境の鑑連
「佐嘉の貧乏人風情が!身の丈を越えた事を!」
あろうことか佐嘉勢が立花山城に向かうとは、鑑連の戦略のどこかに抜けがあったとしか言いようがない。見れば屈辱と怒りでプルプル震え、今にも爆発しそうな主人鑑連。またまたいつもの調子が戻ってきたぞ、とこの方面では安心する備中だが、誰も何も言わないので使者に問いかけてみる。
「さ、佐嘉勢はどこから現れたのですか」
「脊振の山から、荒平山城の南からです!」
「わ、私の領域からか!」
本城に残した部下からの報告に、小田部殿の表情が見る見る不安色へ変わる。
「だ、だがその方面の城には百人が詰めていたはずだぞ」
「城主が裏切りました!戦うことなく、佐嘉勢を手引きしたのです!」
小田部殿の顔色は、ついに真っ青になった。
事態は急変した。佐嘉勢動く。勝将らの思考が停止するほどの、この戦役最大の危機到来だ。全員が不安に満ちた顔で、鑑連の顔を見る。誰もが、この常勝大将に事態の打開を期待するしかないのだ。
こんな時の鑑連は決まって嫌な顔をするのだが、それでも冷静を装って使者へ質問をする。少なくとも、備中にはそのように見えた。
「佐嘉勢の数と今の位置は」
「数はおよそ五千!荒平山の東から立花山城を目指し一路驀進中とのこと!」
「それは誰からの情報だ!」
「はい!山を駆け下りてきた佐嘉勢、口々にそう宣言して北上しております!道中の村々も襲われ、生き残った百姓どもがみな佐嘉語を聞いています!」
「ということはそれは陽動だな。真の狙いはワシらだ」
鑑連はある意味当然の答えを出すが、立花山城攻めを陽動と断じる突飛な意見に、誰もが賛成も反対もしかねていた。ここに近づいてきて口を開くのは、やはり小野甥しかいない。曰く、
「殿。私もそう思います。五千の兵力では立花山城を攻めるだけで終わります。佐嘉勢にもそんな余裕は無いはずです。攻城の最中に背後を我らに攻められれば、彼らの冒険はそこで終わりです」
「な、なるほど。別の目的があると見るべきか」
そう呟いた青白い顔の小田部殿、責任を痛感している様子だが、それを非難する者はいない。小野甥は続ける。
「では何のための陽動か。佐嘉勢からすれば、現在消滅の危機にある原田勢を見殺しにはできないはずです。見殺しにすれば、反大友戦線は後支えを失い、瓦解するためです。よって、この五千の隊の目的は、やはり時間を稼ぐことのはず。でなければ、すぐに荒平山城の攻略に取り掛かるだろうからです。佐嘉勢にとって、荒平山南の城主の裏切りは予期せぬ幸いだったのかもしれません。出来る限り原田勢から我らを引き離したい。そこに慮外の時間的猶予を得た為、立花山城へ向かう、と見せかける。そのための吹聴ではないでしょうか。知略を巡らせているようですが、相手の行動からも余裕を感じません」
みなが小野甥の話に耳を傾けている。鑑連も超真剣な表情で小野甥を見据えている。
「佐嘉の頭領龍造寺隆信は主家を追いましたが、今やその名も懐かしき名門少弐氏はその昔肥前のみならず筑前の支配者でもありました。佐嘉勢が筑前に野心を持つのは至極当然のこと。ですが、立花山城を落とすだけでは筑前支配は成立しない。彼らの野心の達成には、目下最大の障壁である殿を倒すことが必須となります。決戦はまだ先、戦いは続きます。よって、今は慌てず、陽動の役を務めている敵勢五千を追い払いましょう。我らがこの戦場から離れること、それだけで佐嘉勢は撤退するはずです。それに」
小野甥は、確認するように周囲の武将達を見回した。
「遺憾ながら、原田入道自身には手が届きませんでしたが、勢力としての原田家は徹底して叩けたのです。我ら、戦略目的の一つは達成しています」
「小野」
漂うこれは、いつものシビれる空気である。鑑連、反論を開始する。
「貴様の言うことはその通りだろうとワシも考える。だが、柑子岳城はどうする」
「今回、柑子岳城を攻めていた原田勢が、敵の援軍でした。よって彼らもしばしため息を吐く事はできるでしょう」
ため息、と聞いてドキリとする戸次家家臣団だが、
「そうではない。佐嘉勢が筑前に入った以上、ワシらと佐嘉勢の戦いはもう始まっている。原田勢が動けなくとも、いずれ佐嘉勢が柑子岳城を攻めることになる」
「殿、勝てば勝つほど強い敵が現れるのです。これは武士の世の真理でしょう」
「黙れ。貴様の戯言など聞いてはおらん」
「では、どうするのですか」
鑑連相手に危険な質問返し、驚愕の一同は息を飲んだ。鑑連の声が、地を揺るがす。
「なんだと」
「兵が足りないのであれば、引っ張ってくるしかありますまい。ではどこからか?この春、小倉の高橋鑑種は世を去りましたが、その後、豊前の状況は小康を得ているとのこと。田原常陸様でも田北大和様でもよろしいが、本国方面から兵をお呼びなさいませ。でなければ、柑子岳城はおしまいです」
とんでもない生意気を前に、嚇怒し破裂しそうな鑑連の顔は、諸将を怯えさせる。
「既に、佐嘉勢は一万からなる勢力なのです。殿の権限では、もはや対処不能です」
小野甥の考えでは、事態は既に進行し、鑑連では役不足だ、という事だ。そんな事は鑑連だって知り尽くしているはずだが、小野甥は容赦しない。何とか言い返す鑑連だが、その言葉は精彩を欠く。
「貴様が愛する国家大友が消え失せても?」
「お忘れなく。私はその責任者のお一人お仕えしているわけです」
爽やかに吐き捨てて、自隊に戻っていく小野甥に、鑑連はさらに何かを言おうとするが、喉からその言葉は出なかった。痛い所を指摘されたに違いない。立ち尽くす鑑連。そこには、自身の計画の破綻を、これから目の当たりにさせられるだろう、哀れな老人の姿があるだけであった。胸を痛めた備中、鑑連へ言葉をかける。
「……殿、隊を二分して西と東それぞれに対処させるのではいかがでしょうか」
鑑連の返事は無い。
「で、では宗像勢や高橋勢に立花山城の防衛をお命じになられては……」
やはり鑑連の返事は無い。
「ち、筑後勢に佐嘉を攻撃させて、筑前から手を引かせるなどは、い、いかがでしゅか」
舌がもつれた備中、マヌケな音を出すが、それでも鑑連の返事は無い。返事どころか反応が無い。今の対案全て、見込み無し、という事なのだろう。
無言を続ける鑑連に、みな従っている。が一人、場違いに明るい声を上げた者がいた。あの肥後武士である。
「戸次様、佐嘉勢が無謀にも筑前に入ったのなら、戦って始末するまで、でしょう。我ら肥後勢に先陣をお与えください」
まだ無反応の鑑連と対照的に、他の衆はみな動揺する。肥後武士は続ける。
「色々とお考えのようですが、我らは援軍として来ているのです。戦え、と言われる場所で功績を上げたく存じますが」
明らかに場違いな肥後武士だが、空気は少し軽さを取り戻している。しかしながら、鑑連はまだ無言だ。
「さきの方の言う事も尤もと思います。その上で、今、国家大友に不足しているのは勝利の報です。常勝である戸次様が戦って勝てば、風向きも変わるでしょう。柑子岳城のことは……危ないとなれば、逃せば良いだけのこと。捲土重来という言葉もあるではありませんか」
今だ、と備中、肥後武士の意見に乗っかりて曰く、
「と、殿。私もこちらの方のおっしゃられる通りと存じます」
鑑連が動いた。肥後武士と備中を向いて、何かを言おうと、しかし。
「ああ、なんだ」
鑑連は弱音に繋がりかねない言葉を吐けない。そして言葉を取り替えた素振りで、
「ともかく、佐嘉勢五千を始末する。甲斐相模守殿、先駆けをお願いする」
「はっ!」
短くも長いと思われた沈滞を押しやって、鑑連は動きを再開した。備中、その力添えをした、お軽く諛う隣の肥後武士に心から感謝するが、追い詰められつつある鑑連の精神状態がどうしても気にかかるのであった。




