第317衝 惆悵の鑑連
天正六年に入り、毎日相も変わらず不機嫌な鑑連の元に、また鎮信の使者が情報を送ってくる。
「また鎮信様からだ。最近頻度が多い気がするな」
「それほど事態を案じているのだろう」
「臼杵で何かが起こりつつあるのかもな」
「殿。一大事です」
「なんだ」
小野甥と備中いつものメンツを前に、鬼の形相一歩手前という感じの鑑連が、極めて低い声を出した。
「う、う、臼杵の城から、公がお出になられたと……」
「公とは誰だ」
「よ、義鎮公」
「引っ越しか?」
「引っ越しには違いないのですが……」
「なんだ。ハッキリ言え」
「あ、あの、その……」
怯える文系武士を庇うように、爽やか侍が前に出る。
「殿。義鎮公が御台様を城に残し、臼杵の別の館に引っ越しました」
「あいつ、引きこもる癖があるのに、本当に引っ越しが好きだな」
場違いな鑑連の言葉に、沈黙が広がる。咳払いをした鑑連。
「確かか」
「鎮信様からの速報です」
「これは家出だよ」
「家出……?」
「吉利支丹宗門を理解しない奥の女房どもに嫌気がさしたのだろうよ。何と言っても、奥を統治するのは奈多のガキの妹だからな。反発、締めつけも相当のはずだ」
「ところが」
小野甥の発言が、妙な合いの手になる。
「別の女性を、すでに新邸に招いたという報告がここに」
「誰からだ」
「同じく鎮信様から」
「し、信憑性があります。極め付けで」
「なんだそりゃ。で、その女とは何者だ?誰の娘だ?出身は?鑑連の何係だ?」
君臣に奸婦寄り添わんとする時に調べるべき項目について、勉強になった森下備中。鎮信の書状に書いてあることを思い出し、項目毎に当てはめていくと、その爛れた腐臭に国家大友への忠誠心を喪失しそうになるのだが。
「親家公の御台の母御と」
「……」
「……」
「親家?誰だそいつは」
「セバスシォン公です」
「ああ、そうか。ん?」
「はい」
鑑連も漂う腐臭に気がついたようだ。
「おや?」
「そうです」
「確か、そうだよな」
「はい」
「……」
さすがの鑑連も、絶句する。これは珍しいことだ。ややあって、
「化け物かヤツは」
この場にいる全員、頭の中で複雑な人間関係を整理しているはずだ。親家公の御台の母とは、かつて鎮信の愛人であった女であり、その前は志賀安房守の正室だった女であり、その出自は義鎮公御台が先夫との間に産んだ連れ子で義鎮公の義理の娘でもある。
「なんてヤツだ」
嫌悪を示す鑑連。さらに備中は、関係者の年齢を指折り数えてみる。義鎮公は四十代後半、義鎮公御台は夫よりも年上で五十代半ば位だろうか。件の女性は四十の頃だという。ついでに言えば鎮信は三十代半ば位か。関係者全員それなりに歳を食っている。となると、道ならぬ恋ではあるまい。義鎮公が息子の義母であり、自身の義理の娘である女性に、強く同行を強いたに違いない。そう思えば、腐臭も多少は消えるのではないか。
正気を取り戻した様子の鑑連だが、開いた口が塞がらないというような間の抜けた顔になっており、ちょっとかわいい。小野甥に尋ねる。
「で、変態が越した場所は」
「臼杵城の対岸の地だそうです」
「近い」
「……」
「近すぎるな」
顔を傾け、顎をカキ、と鳴らして曰く、
「これは家出じゃないな」
「と、おっしゃいますと」
「本丸は兄貴の方だな。御台はとばっちりだろう」
「た、田原民部様ですか」
「あれを切り捨てるぞ、という意思表示だろ」
「そんな」
「奈多のガキめ、反吉利支丹の運動が裏目に出たな。さぞ石宗のヤツも慌てていることだろうよ」
「本件確かに石宗殿が先導しておりますが、今、国家大友と奈多家に連なる大勢の親類縁者が臼杵へ殺到しているそうです」
「説得工作か」
「はい。この期に及んで無益だと思いますが」
「同感だが、ここに至って石宗の活動は実を結んだとも言えるな。しかし小野よ」
「はい」
鑑連の顔から底意地の悪さが漂う。これは嫌味を飛ばす顔だ。
「貴様が仕える国家大友の統治者のこの無軌道ぶりを見て、どう思う?」
「どう、とは」
「暗君義鎮に、どこまで忠誠を尽くせるのか、と聞いている」
「義鎮公は紛れもなく国家大友の統治者、家督であり、誰にとってもそれ以上でもそれ以下でもないはずです」
正々堂々と正論を述べる武士の顔には、国家大友を支えてきた荘厳な凄みすら漂っており、備中思わず見惚れてしまう。思わぬ美徳に直面し、邪気を削がれた様子の悪鬼である。
「ふん、まあいい。で、奈多のガキの動向は?」
「御台様もとい妹御の危機という事で、さすがに義統公とともに、臼杵に入られたということです」
「やはり、義統を抑えているな。つまり、如何に変態と言えども、そう簡単にヤツを罷免できるわけでもないということだ」
頷く小野甥。これでは内乱の心配が現実のものとなるのでは、と心配になる備中。
「ワシは安須見山の一件もあるから、ヤツとは和解するつもりもないが、まあ気の毒なことだとは思うよ。老中衰退し義鎮孤り輝くのみか!クックックッ!」
鑑連の大笑いの後、次の報告に入る二人。これが一番気が重い備中。
「ひゅ、日向の情勢です」
「ワシの命令通り、ちゃんと注視しているか」
「は、はい」
鎮信の知らせにあった佐土原勢の壊滅後、薩摩勢の勢力がそこかしこに伸び始めてきていた。
「日に日にその勢い強くなり、いずれ豊後との国境の辺りで騒動になる危険性が大きいですね」
「佐土原勢が大敗してから何年経つ」
「ご、五、いや!六年です」
「三位入道は挽回できなかったというわけだな」
「は、はい」
「備中」
「は、ははっ!」
「貴様、何を動揺している」
「い、いいえ!」
「動揺しているではないか」
「……」
「言え」
「あ、あの」
「言ってみろ。言え」
「あ、え、ええと」
この報告をしたくない森下備中は小野甥へ視線を向け助け舟を求める。爽やか侍は深々と頷くのみである。目配せは通じなかった。緊張が高まっていく。
「早くせんと承知せんぞ」
「ひゅ、あ、ひゅ、あ、つ、あ、つ、つ、つち」
「日向縣の土持か。早速薩摩勢に靡いたのか」
「そ、それっで、と、とうっ、ばつをば、さ、さ」
「ほう、土持討伐か。義鎮にしては悪くない戦略だ。しかし、さ、とは何だ?」
「さ、さささ、さ」
「ああ、さっそく出立の準備を!土持討伐!ということだな。貴様、ワカってるな」
「ささ、さえ、さえ」
「佐嘉勢討伐以来!ついに八年振りの出陣か!で、総大将は誰かな」
「佐伯紀伊守様で……」
鑑連は、いつのまにか、悪鬼と化していた。




