第316衝 悵恨の鑑連
「織田勢、加賀国にて越後上杉勢と戦い、大敗したとのこと」
加賀か、よくワカらないが遠そうな国だ、とぼにゃりと白昼に夢想する備中。だが、鑑連の頭の中では、行ったこともない国について、地理が備わっている様子。
「織田勢を率いていたのは右大将か?」
「いいえ。越前を領する柴田某という家老です」
「越後上杉勢は北陸道を南下して、都を目指す勢いか?」
情報を持ってきた小野甥、体配を整え静かに曰く、
「いいえ」
鑑連、神妙に顎を撫でる。
「ならば、織田勢にとっては、たかが軽傷だな」
「臼杵の政庁では、織田勢の敗北により、将軍家へ無愛想を詫びる使者を送る段取りが付いたようです」
「初々しい外交をしやがる。義鎮め、どこまでマヌケなんだ。第一、支出が漸減しているだけで、非礼と言う程では無いだろうが、本音はともかく」
「こ、ここで露骨な詫びを入れては、相手の疑念に確信を与えてしまいますね」
「そうだ備中、普段貴様がやってしくじっていることだ」
不意に笑顔となる備中であった。
「全く無益だ。将軍家に今更何ができる」
「ですが、将軍家と織田勢の戦いの決着はついていない、とする意見が存在するのは事実です。畿内では一向宗門徒が立ち上がり、他の反織田勢の蜂起も頻発中で、情勢が不透明なのはその通りですから」
「播磨は早くも織田勢に従いつつあるというこの報告は無視か。青二才の動きは足元を見られるぞ。備中」
「はっ」
「ガキへ書状を送る。軽挙妄動をするな、とな」
「は、はっ!ど、どのガ、ガキへ、でしょうか」
「義鎮だよ」
「は、ははっ」
小野甥が付け加える。
「加えてですが、鎮信様へも、事態の懸念をお伝えするべきではありませんか」
「ほう、奈多のガキは良いのか」
「義鎮公あっての田原民部様には、この事態、動かすことはできません」
「クックックッ。いいだろう」
だが、鑑連が本国豊後へ書状を送った後も、大きな動きは無かった。相変わらず、義鎮公の親政強化、田原民部の停滞と比例して吉利支丹宗門の隆盛が伝えられるのみであった。
「くそ、どいつもこいつも……」
鑑連が懐柔しているはずの鎮信は、事態を動かせない旨について詫びの書状を送ってくる。文面からは心からの申し訳なさが伝わってくるが、
「今や義鎮公の力は、一老中の進言では動かせない、ということですか」
「おのれ!」
パン!と空気が破裂する音が響いた。怒りに任せて鉄扇を振りかぶる鑑連だが、義鎮公をそこまで強力にしてきたのは他ならぬ鑑連である。吉岡長増であり、臼杵弟である。主君を擁立したということでは、喜んでも良いはずの成果に苦しめられるとは、諸行無常とはこのことか、という気になる森下備中であった。
そのまま夏秋と過ぎ、天正五年が明けた。
新年、例年通り、筑前の諸族による鑑連詣りが無事行われる。内田が備中へ近づいて声密やかに曰く、
「今年は皆大人しい、そう思わんか」
「思う思う。やっぱり安芸攻めの噂のせいかな」
「秋月も、宗像も、その他も恩義ある安芸攻めはとなるとやはり心苦しいのだろうね」
「でもその噂、実態はあるのかしら」
「……」
「……」
「知らん」
「えー」
「噂だしな」
上座でふんぞり返る主人鑑連を見る備中。噂が事実であればどれほど良いか。鑑連もすでに六十五の歳。矍鑠としていても、密かな焦りはあるはずだ。織田右大将と力を合わせて安芸勢を壊滅させることができれば、鑑連の武名も全国へ轟くだろう。それが主人にとっての最大の幸福であるはず。
が、本国豊後からのもたらされた知らせは、全く異なる方角のためのものであった。鎮信の使い曰く、
「申し上げます。日向佐土原勢の頭領伊東三位入道、国を捨て、豊後臼杵へ逃げ込んできた、ということです」
「何」
「今や日向国内は尽く薩摩勢に靡いている状況です」
小野甥が珍しく鋭い声を発し、使者に問う。
「それはいつのことか」
「昨年の暮れも暮れの出来事ということです」
「今日まで間がある。隠蔽していたのか、臼杵の政庁は」
「そのような次第にございます」
「義鎮公の指示か」
「はっ!」
丁度、広間にて幹部連打ち合わせの最中の急報に、戸次武士らこの話で持ちきりになる。
「これは、安芸攻めどころではありませんな」
「伊東家は国家大友の御親類。彼らのための日向攻め、あるかもしれん」
「しかし、同じく御親類の土佐には出兵しなかったぞ。後方支援をしたのみで」
「日向と土佐では事情が異なる。まず、安芸勢が関係していない」
「それに間に海も無いからな。攻めやすい」
「薩摩勢の強い勢いを放置することもできまい。今や、薩摩、大隈、日向と三国を抑えたことになる」
「島津家の膨張は、当主の腕が良いためか、それとも良い参謀が付いているのか……」
「何にせよ、日向の抑えが確定する前に、攻撃した方が良い」
「そうとも。六カ国を有する国家大友の力を結集すれば容易い」
「そうだそうだ!」
好戦論に染まった幹部連。対して鑑連は無言の凝視で狙撃していく。
「あ。と、殿……」
「……か、勝手なる発言」
「ひ、平にご容赦を……」
悪鬼の睥睨が戸次武士らに降り注ぐ。鑑連、荘厳に口を開く。
「ワシらの大敵は安芸勢である。例え和睦をしていたとしても、それは変わらん。変わらんどころか不動だ」
「はっ」
「確かに薩摩勢の伸張放置はできんが、野蛮で未開の薩摩と比べ、国家大友の六カ国は豊かで兵の数も多い。正面からぶつかったとしても勝利は揺るぎない。ま、指揮する者が凡人以下では手こずるかもしれんがな」
「はっ」
常になく雄弁な鑑連の姿から、その不安な心を読み取る備中。織田勢が西進する以上、安芸勢打破は好機である。例え将軍家を擁していようとも、外交を駆使すれば、安芸勢に変わり国家大友が将軍家を擁することもできる。この辺りが鑑連の狙いのはずだ。が、国家大友の軍を日向に向けるとなると、別の事態になってしまうのではないか。
安芸勢討伐に功績がなければ、その後、織田右大将に首を垂れて従うしかなくなるのではないか。
これは文系武士の思考により到達した結論だが、
「敵は安芸勢!安芸勢だ!」
そう連呼する主人を見ていると、鑑連も文学には通じていることを思い出し、嫌な予感に確信が加わっていく森下備中であった。




