第276衝 周縁の鑑連
この年も、立花山城に春が到来した。山のあちこちで、白い山桜が戸次武士の目を惹いていた。
「美しい」
だが、備中の心は晴れない。本国豊後では、橋爪殿の花見会が開催されている。珍しい桜を見ることも、下郎の身分である備中には叶わないのだから、と備中は思っている。
豊後より内田から鑑連宛に書状が届いた。
「殿、左衛門からのご報告です」
「うん」
近習筆頭の内田は備中よりも地位が高い。思えば家柄も。よって、その鑑連宛の書状は、直接鑑連が検めるのだ。
「ちっ」
鑑連が舌打ちを放つ。どうやら豊後のお花見で気に入らぬことがあったようだ。だが、備中はそれを追求しない。自分には関わりがないことなのだから。
文系武士の森下備中。不機嫌な主人を前に、ふと古歌が口をついてでる。曰く、
おほけなく うき世の民におほふかな
わがたつ杣に墨染の袖
麗しの風が満開の空に私を誘っている。しかし、ふふっと悲しい笑みをさすらわせるしかないのだ、なぜなら私は涙色の心に囚われている、と不幸に酔いしれる森下備中。
ふと、鑑連が感情の無い目で備中を見ていることに気がついた。しかし、体裁を取り繕うこともない。悲しい笑顔がさすらい続ける。
「貴様、そんなにスミゾメが観たかったのか?」
「そ、そんな。そういう事ではないんです」
「嘘吐け。なんだその気の抜けた顔は。言っとくがな、多少黒く見える山桜など、どの山にだってある。探せばな」
「い、いえ。本当にそうではなく」
主人鑑連には下郎の気持ちはワカるまい。
「例えば備中、スミゾメ色とは喪の色に通ずる。如何に珍しいとはいえ、そのようなものを好んで披露しようとする橋爪に、軽薄なものを感じないか?」
「い、いいえ」
率直に否定したためか、鑑連の機嫌が悪化したことが手に取るようにワカった備中。慌てて言い訳をする。
「は、橋爪様は悪意とは無縁なお方ですので……」
「ではこれが吉岡ジジイや田原民部主催であればどうだ?」
「よ、吉岡様ならば」
「悪意を感じるだろ」
「ま、まあ確かに。ですが田原民部様では格別なものは……」
しまった。また否定してしまった。下郎らしからぬ振る舞いを前に、しかし鑑連はもういい、という表情だ。小野甥の提案を一部修正したことで、家臣の心が千々乱れていることを面倒だと思っているに違いない。放雷する前に、軌道を修正しなければ。
「そ、その後の甲斐勢と織田弾正の戦いについて、ご、ご報告をさせて頂いてもよ、よろしいでしょうか」
鑑連は音無しのまま、とっとと仕事をせよ、との面差しである。備中も心に活を入れるしかない。鑑連の心がどこにあるにせよ、ただ単に、自分が用いられなかっただけなのだから。
「は、はっ。博多からの情報では、甲斐勢、引き続き三河にて戦闘を続行中とのことです」
「まだ三河を抜けないのか」
「仔細は不明ですが、強い抵抗に対峙しているのでは、との噂もあります」
「それよりも重大な知らせは?」
「ございます。将軍家が、織田弾正に対して挙兵したとのこと。遂にと言うべきか」
「随分思い切ったことをしたものだ。痺れを切らしたのか」
「そ、それはま、まだ早すぎる、ということでしょうか。例えば甲斐勢が尾張に入ってから」
「まあな。だが、例の意見書のこともある。甲斐勢が出てきた以上、武田信玄のためにも、将軍も勝負に出たのだろう。これで諸国の反織田勢がみな力づけられるだろうよ」
「都に関連する情報は以上になります」
「安芸勢はどうだ?」
幸いなことに主人が乗ってきたためホッとした備中、報告を続ける。
「毛利輝元公ですが……」
「随分と丁重なものいいだな」
「ちょ、朝廷から右馬頭の官位を得て,将軍家からは御相伴衆の役目も頂いたとのことですので……」
「権威に弱いヤツだね。所詮成り上がりではないか」
「え、ええと、その。つ、つまり、将軍家は安芸勢に対して特別な厚遇を示しております。しかし、織田弾正との連絡も絶やしてはいないということです」
「毛利のガキには捌けまい。これも、なまじワシらに比べて都に近いせいだな」
「それに目下、安芸勢は尼子の残党を追跡しています。全てに目配りは難しいのではありませんか」
「つまり、安芸勢を攻める好機を見つけろと?」
「そ、そこまでの断言ではありませんが、仮に織田弾正が甲斐勢を凌いで、将軍家と和睦をした後、安芸勢は織田弾正との関係を悪化させるかもしれません。国家大友が門司を奪還するには、それしか無いのでは、と」
目を大きく見開いた鑑連、愉快そうに曰く、
「貴様最近妙に好戦的だな」
「お、恐れ入ります」
「だが、織田弾正が敵対勢力と和睦するか退けるにしても、尾張から西国は遠い。その他の状況の変化を計算しなければ、門司には手が届くまい」
戦略に関して言えば、好戦的な鑑連ほどの人物をしてまた時期に非ず、ということなのだ。備中に異存があるはずも無かったが、やはり主人の積極性や気質に変化が生じているのではないか、という何度か振り払った懸念が頭をもたげてはくる。鑑連が自由に采配を振るえる戦場の到来を希求して、状況の変化の出現を待ちわびる森下備中であった。
だが、都から筑前はやはり遠い。十数日後、博多の町に届いた、都にて、織田弾正の攻撃により上京が炎上し灰燼に帰した、という極めて衝撃的な知らせを耳にしても、備中はどこか現実味に欠けた、遠い世界の話を聞いている、という感覚を前に、主人鑑連が中央の動きとはまるで無縁であることに切なさを堪え切れないでいたのであった。




