第269衝 泳条の鑑連
「では第三条読みます。身分卑しい新参者に恩賞を与えすぎるのは如何なものか、と」
「織田弾正の出自もさほど高い訳ではあるまい」
「確かに自身を棚上げした、奇妙な言い分ですね」
「ところで備中、小野の立場や禄をどう思うか」
「えっ!えーと、そ、その、優れて秀でたるお方に相応しいものだと……」
「遠慮するな。貴様はワシに仕えて二十余年、比べて小野など昨日今日来た新参者に過ぎんだろ。本心を言ってみろ」
「ほ、本心です」
「貴様より禄を食んでいてもか?」
「は、はい」
凝視する鑑連の目力に押されつつも、前言を翻さない備中。ややあって、鑑連が残念そうに舌打ちをすると、小野甥は爽やかに白い歯を見せて備中の人徳を讃える。
「さすがは備中殿、私、嬉しいですよ」
「お、恐れ入ります」
「おい。次」
「はい。では第四条。将軍家の宝物を知らせ無くに他所へ移した件について、せっかくの新築が無駄になりそうで悲しい……というもの」
「将軍家の宝物ねえ。百年前ならまだしも、もう大した名物は残っていないだろ」
「で、では将軍家の家宝は何処へ……?」
「質流れさ」
「そ、それなら義鎮公が贈った馬も……」
「負債のカタさ」
「……そ、そんなものですか」
「よってこれは難癖のように聞こえるが……備中。龍造寺の馬の様子は?」
「も、もちろん元気です!はい!く、熊黒鹿毛の名も、どうぞよろしくお願」
「そんなことより、この条の本意は資産に関することではないな」
「と、おっしゃいますと」
「人は君主と輔弼の諍う姿を見て、楽しむものだ。卑しい下郎どもならなおさらな」
小野甥、ニッコリ笑って曰く、
「殿。世間には戸次伯耆守が義鎮公を諌める事過ぎたため立花山城厄介払いされた、との噂もあります」
「クックックッ、一部事実ではないか」
「もうお一人、吉岡様も諫言組に名がありました。もっとも今は田原民部様と入れ替わり、名は急速に小さなものに。臼杵にて義鎮公を諌めることができる者、今はおりません」
「つまり、国家大友では君臣の諍いを主君が押し切った、という他国の者共は見ていると?」
「そう。無論これはこれで健全とも言えます」
「な、なるほど」
なら鑑連と小野甥の関係は?と問いたくなる備中。しかして、なら貴様は?と鑑連に問われた結果、佞臣だ、と言われる未来が見えたため、控えていた。
「思えば、あの松永弾正も前の将軍と不仲になった挙句命を奪うに至った。織田弾正も似たような道を歩んでいるのかもしれん」
「役割と使命が衝突しているのでしょう」
「果たしてどちらが勝つかな」
「この意見書を読み進めていけば、見えてくるかもです。次は第五条。神社領召し上げと給付、つまり、付け替えの件ですね」
「織田弾正は必要な時は自分に言ってこい、としていたと書いている。が、将軍からすればどうか。伝えても徒労で終わる事はある意味明らかだ。表の発言と裏の言及が異なる事は、ワシらとて良く知っている。吉岡など毎度の事だった」
「この条、随分と潔癖な意見に見えます。織田弾正の性格なのでしょうか」
「本来、社領から巻き上げる際は上手くやらねばならん。でないと火傷をする事になる」
「思えば織田弾正は、叡山焼討ちの張本人でしたね」
「あれは上手かったな。戦にかこつけて焼き払うとは」
「すると、織田弾正は将軍様へ、何故もっと上手にできないか、と詰っているのかも。あるいは、もはや将軍を将軍と思っていないか……」
「クックックッ」
「では六条です。将軍は織田弾正の家来衆をイジめているよ……とあります」
「将軍が、というよりその家来どもだろうが、単なる嫌がらせだろ。頭に来るのはワカるがね」
吉岡や臼杵弟とのやりとりを思い出したのは備中だけではないようだった。
「ち、小さい話ですが、将軍と織田弾正の不仲が先か、家来衆の不仲が先か……」
「今更言っても始まらんことだ」
「は、はい」
「では七条です。関係者への恩賞知行の約束の不履行を、織田弾正は詰っています」
「ここに名前がある者ども、知っているか?」
「い、いいえ」
「私も存じ上げません」
「その程度の下郎へ与える物を与えよ、とはどういうことかな」
「一見すると、身分の境目を弁えない意見です」
「想像だが、将軍側の頰かむりがある、とワシは思う。織田弾正は戦争ばかりしている。この手のことを怠るとは思えんからな。不仲の証明というものだ。次は?」
「八条。若狭の荘園代官の処分について。件の荘園は延暦寺所有とのことです」
「これは焼討ち後の追撃と言って良いが、織田弾正は叡僧を根絶やしにしたいのかもな。それにしても、代官の不行跡か。ワシも中傷には気を付けねばな」
「た、確かに、殿所有の領地は、本国豊後の他、筑前、豊前、肥前、肥後、筑後に及びます。大小全てに現地の代官がおりますので……結構な人数になります」
「まあ、この手の話はそいつが弱体化した時に、湧いて出るものだ」
「なら安心です。殿はほとんど不死身。まして殿を中傷する命知らずなど、おりませんよ」
「クックックッ!当然だな!」
お追従の役割をすんなりこなした小野甥は、鑑連に気がつかれぬよう、備中の目をみて笑った。板についてきた側近ぶりに、微笑みを返す森下備中である。
「で、ではこれもまた中傷でしょうか」
「ワシはそう思うね」
「では、次の九条はどうでしょう。喧嘩で殺された小泉とか言う人物の財産没収の件です」
「将軍家、法、と来れば、やはり鎌倉以来の……」
「御成敗式目のことだろう。鎌倉以来、まともに守られていない方が長いだろうがな」
「織田弾正はこれを厳密に運用しようとしているということでしょう。現世を嘆く、伝統懐古の連中は、織田弾正に靡きましょう」
「しかし、法理の是非はともかく、喧嘩で死んだマヌケの財産ですら没収できんとは。驚きの弱さだな」
「田原民部様のご子息が殺された後、相手方の所領は田原様に与えられました。そしてそれを咎める者も居ませんでした」
「将軍の力など田原民部以下、ということだな」
「次は十条。元亀の元号にまつわる一件ですね」
「元亀とは不吉なのですか……亀と忌が同じ読みだからとか、でしょうか」
呆れてため息をついた鑑連の痛罵が備中へ飛ぶ直前に、小野甥が折良く補足を入れる。
「この号は文選からの採用とのことです」
「も、文選?」
言い淀んだ備中へ間髪入れずに鑑連、
「備中、普段文弱を理由に武芸を怠ってる貴様が、六朝時代の文選を知らんとは言うはずがない、とワシは確信している。だからほら、ここに書き出してみろ」
と筆を突き付けた。無論、備中の答えは、
「ワ、ワカりません」
と決まっているが、
「わ、ワカりません」
鑑連は面罵せず、嗤って曰く、
「即答したな貴様。その度胸に免じて、今回はこれで勘弁してやる。つまりこうだ」
「ひえっ」
筆を分捕りの鑑連、すらすらと記していく、備中の顔に。小野甥は、人間の顔へ巧みに筆を運ぶ鑑連の筆致を見て心から感心しているようだ。
「池に顔を写して見てこい」
「は、はい」
立花山城の池の水面によると、
元亀水処、潜龍蟠於沮沢、応鳴鼓而興雨
備中はこの凶悪な主人が学を深めていることを天の不公平と訝しむこともあったが、その想いはますます強くなった。鑑連、備中に問いかける。
「ワカっただろ」
「ええと……その……」
困惑する備中に、今度も小野甥が助け舟を浮かべる。
「将軍と織田弾正の間でどの元号を推すか、意見の違いがあったというのは、都では有名とのことですね。では次に行きましょう」
「じゅ、十一条ですね!」
鼻を震わせ嗤った鑑連へ、小野甥は爽やかなそよ風を吹かせて曰く、
「この条は公家衆にかかる懲戒処分の一件です。ここでも将軍様と織田弾正の意見が割れた」
「もはや意見が合う方が奇跡のようで……」
「都の烏丸家と言えば歌の道で有名なはずだがな。何をしでかしたのやら」
「意見の不一致は免責に至る過程で発生しているようです」
「こんな些事を意見書に上げているとは、病的な潔癖か、あるいは織田弾正は弾正で、将軍の権能をまるで認めていないか、どちらかだ。後者であれば、松永弾正や三好三人衆と変わるところはない」
「で、では今の将軍様もの御身もまた……」
「クックックッ。どうだかな」
「では次、十二条について……」
辟易してきた森下備中、思わず声を上げてしまう。
「お、小野様、全部で何条あるのですか?」
「十七条です」
「そ、それはまた」
将軍の非違行為よりも、織田弾正という人物の執拗さのみが印象的づけられていくようだ。
「こ、この書を読む者は、織田弾正よりも将軍様に同情するのでは、と思います。高貴な方が、何故ここまで言われねばならないのですか、と」
「下郎である貴様がそう思うのなら」
鑑連、またまた鼻を鳴らして曰く、
「この意見書は織田弾正の目論見とは違う結果をもたらすのかもな。小野、続けろ」
「はい。十二条。諸国から集めた金銀を何故宮中及び公儀のために使用しないのか、との問いです」
「つまり私的な事に用いすぎだ、ということだが、どうだ備中、将軍への同情はまだ生きているか?」
「あの、その、まあ、は、はい」
「ふむ。次」
「十三条行きます。織田弾正の家来が預け入れた矢銭を、将軍の家来が差し押さえた一件です。将軍側による行為の根拠は、徴収した場所が延暦寺の土地であった、ということのようです」
「に、似たような話が続きますね」
「この条にある織田の家来の明智という者だが、叡山焼討ちで容赦なく火を放ったと評判になった人物のはずだ。聞いたことがある」
「次、十四条行きます。兵糧を売却して金に変えたことについて、将軍家が商売の真似事をするとは外聞が悪すぎる、との意見です」
「確かに、こんな事は下郎が行うことだ」
鑑連、備中へ視線を向け、この下郎が平伏するのを見て頷く。
「将軍家には人材が居ないのか。あるいは、織田弾正が不愉快に思うことを承知して、将軍側で仕掛けているのか」
「と、殿。立花山城の兵糧は十分です!」
「当たり前だ。備中、勝手に横流しするヤツが居たら遠慮はいらん。斬り捨てて良いぞ」
「えっ!」
「といっても、どうせ内田が斬るだろうが」
「は、はっ!……ふぅ」
「十五条です。一夜の相手の若衆に代官職を与えたり訴訟に介入するなど以ての外……」
「以ての外だな」
「も、以ての外ですね」
備中としては、主人鑑連がこの趣味を持たないことについて、神仏に感謝し続けていた。悪鬼の上、寵童狂いであれば、とっくに戸次家を出奔していただろう。意地悪く微笑み中の鑑連曰く、
「どうだ。まだ同情しているか?」
先程よりは同情できなくなってきたので、薄ら笑いを返すしかない備中。しかし、ふと思う。小野甥は義鎮公の近習だった。この手の悪徳を身に染みて知っているのか。小野甥の目を見ることができなくなったので、今度は固まるしかない備中。そんな感情を知ってか知らずか、小野甥は淡々と次に進む。
「十六条行きます。将軍家に仕えている武士たちは戦意無く、蓄財に励むのみ。信用の置けないこの手の連中の有事の逃走は必至。しかしそれは、同じく蓄財にご熱心な公方様も同じことなのでは?上席者の勤めを果たす事は容易であるのに……」
「ず、随分な言いようですね」
「金が無ければ何もできんことを思えば、これは将軍には気の毒な意見のようだ。備中、意見はあるか」
「と、殿と同感です」
「結構、なら次だ」
小野甥、いくらか力を込めた声を、重々しく吐き出して曰く、
「いよいよ最後、第十七条です」
ゴクリと息を飲む備中。
「将軍様は欲深いから人が何を言おうにも気にも留めない、とは世間一般の意見であり、百姓ですら「悪しき御所」と陰口を叩くのは、かつて将軍義教公が呼ばれたが如し。何故、下々の者達がこのような事を言うのか、今こそ良く良く考えるべし……以上です」
「す、凄い意見書でしたね。そして織田弾正はこの文を全国にばらまいていると……」
「これは決別状というものでしょうか」
「いや、事実上の宣戦布告ということだろう。挑発だな。しかし、表立って将軍家が織田弾正を攻撃することはあるまい。将軍家は力が無さ過ぎ、織田弾正が強すぎる現状ではな。小野、備中」
「はっ」
「はっはっ!」
「今読み上げた中でまとまった考えを安東、内田、薦野らにしかと伝えておくようにしろ」
「承知いたしました」
「しょ、承知いたしました」
それが必要であるとの意見で一致していたらしい備中と小野甥、声を揃えて返事をした。
「都の情勢は、遠い下の九州へも必ず影響するものだ。戦略は考えておかねばな。将軍を支援するか、織田弾正との誼を固くするか」
鑑連には独自で外交を行う権限は無い。案を策定して義鎮公へ提案するしかないのだが、それより早く、天下を取り巻く情勢に大きな変化が起こった。すなわち、元亀三年の秋に九州へ到達した情報は、甲斐の武田信玄が上洛を開始した、というものであった。




