第267衝 些々の鑑連
人生の数多い苦渋を一気飲みしたような顔に一層深みが増した佐伯紀伊守、備中の前に堂々と座して曰く、
「それで、この伊予の陣へ何用かな」
「お、お困りのことがないか、主人より伺って来るようにと……」
「戸次様が」
「は、はい。目下主人鑑連は、博多付近におります。必要な物資などご用命あれば、とのことで……」
「ふっ、ふふふ」
佐伯紀伊の乾いた笑いが小さく響く。その音が感情を含んでいることを見逃さなかった森下備中。ここは饒舌より、寡黙が正解だろうと心する。佐伯紀伊が続ける。
「私が豊後を不在にしている間、戸次様は、それは大したお働きだった」
「恐れ多いことです」
「この伊予にも武勲は届いていたよ……しばらくこの伊予で世話になっていたのでね」
「ぞ、存じ上げております」
「そうか……戸次様とは肥後の戦いを共に競った間柄だが、今や大国筑前を治められている。大したものだ。私も遅れを取り戻さなければ、とは思っている」
そう述べる佐伯紀伊の声には力が籠められていた。久し振りにの佐伯紀伊は、彼にしては饒舌のようだ。
「宗麟様の御慈悲もあって、幸いなことに、非才の身が老中の一角を占めることとなった。この恩義に報いねばならん」
「は、はい」
「備中。私の存念を、どう思うかね」
「は、はい。誠、ご立派と存じます……」
温厚な佐伯紀伊守だが、それにしても声に温度があると感じるのは、自身の独りよがりな思いだろうか、と備中緊張の度合いを深める。佐伯紀伊は頷いて曰く、
「そう思ってくれるなら、有難い」
「はい」
「では、戸次様はどうかな。私の思いに賛同してくれるだろうか」
これは重い問いかけだった。あの鑑連が今更佐伯家を好んで支援するだろうか、ということだが、ワカりきった事を質問する佐伯紀伊の考えはどこにあるか。何を考えているのか、少し考えれば明白である。備中を試しているのだ。
「……」
かつて、何処と無く馬が合う事だったり、その見事な武者ぶりに漢惚れ、佐伯家に仕えたいと念じたことすら備中にはあった。そして、鑑連の命でとはいえ、佐伯討伐の件を直接伝えた折、高潔純真なその人格に胸打たれた日は、忘れられるものではない。
あれから十五年の月日が過ぎている。感情のままに人生を左右するには、余りにも長い時だった。もう戻れぬ過去への郷愁の念が、備中の背中をトンと押す。
「はい、紀伊守様」
「うん」
「主人鑑連は、佐伯様のため手を尽くすでしょう」
備中は嘘を吐いた。佐伯の栄達を鑑連は歓迎しない。かほどもあからさまなことなのに、備中は巧言を為した。人知れず通わせていた佐伯紀伊への追慕が、急に薄れていく。
「ワカった。頼もしく思っている」
つい先程まで佐伯紀伊から感じていた温度に変化は感じられなかった。下がりもしない。それでいて高まりもしない。
胸に小さな痛みを覚えた森下備中、佐伯家への情熱は、自分だけの独り善がりな思いだったのだ、と心に整理をつけることにした。
その後、佐伯武士から戦場や戦略の解説を受けた備中。懐かしの在りし日を喪失したことで、心ここに在らずであった。
だが、ある武士の一団を目にした時、備中は偵察の任務を完璧に思い出した。身に覚えがある彼らは田原民部の家来だ。直感を得た備中。前線の視察もせず、彼らへ向けて耳をすませ続け、同時に理屈と矛盾の狭間で頭を働かせ続けた。何故かそれは、熱中を極めた。
ふと正気に戻った時、備中は立花山城で鑑連へ報告をしていた。口から言葉で発することで、確信を得るに至ったのだ。
「伊予の陣にて、佐伯様と田原民部様は協調されていると感じました」
「老中筆頭の田原と軍事に優れた佐伯の共闘、という訳か」
「はい、理想的です」
「なんだと?」
「御両者にとって、ですが」
少し驚いた様子を示した鑑連、備中を見定め、口の端を吊り上げて嗤った。それだけであったが、自分が歩んだ考えの整理に至る道が、全て鑑連によって誘導されたものであったという気がした備中。鑑連への好漢度は下がったものの、畏敬の念の高まりを感じるのであった。
「ふん。伊予の戦いの報告をしろ」
「はい。佐伯勢は地蔵ヶ嶽城の東にある土佐との国境の城を攻め落としました。それを材料に、黒瀬殿との交渉を進めており……」
佐伯紀伊守への未練を損なったことで、心に平安を得たのか、備中、常に無く淀みない報告となる。
「現地の風聞について、佐伯様は、第一に安芸勢を刺激しない、さらに恩義ある黒瀬殿を追い込まない、というものばかりです。よって、宇都宮勢の復帰は認めないものと思われ……」
安東や内田は、備中の姿勢に瞠目している様子。小野甥はそうでもない。
「出兵の目的である伊予の親安芸勢および反土佐勢の鎮圧は果たせるものと思われます。よって土佐一条様もとりあえずの安寧を……」
鑑連はそんな備中を観察するように、眇めの体で眺めるのだった。




