第266衝 鷹目の鑑連
立花山城の北、新宮の港から船に乗った森下備中、単身海路伊予を目指す。響灘を進み、物々しさの消えた門司を抜け、小倉、門司を抜ける。安芸勢の領域だが、和平は維持されており、無事に海峡を通過できる波が流れていた。
「ホッ、死なずに済んだ」
主人を前に伊予行きを渋った備中だが、この船旅は存外に楽しいものとなった。小倉を見て高橋殿の記憶が甦り、門司を見れば今は亡き吉弘殿の在りし日がこれまた甦る。周防灘に入れば、彦山、国東半島といった豊かな景勝が楽しめるし、忘れ得ぬ田原常陸と撤退行の栄光に想いを馳せる。筵の上に寝転がりながら、物見遊山を満喫するのだ。
「豊前はいいなあ。霊気たっぷりだなあ」
宇佐宮辺りから吉弘の領地と思われる方角を臨む。まだ吉弘嫡男は領地から離れることができないのだろう。挨拶をして行きたいが、
「ちょっ、いや、少々停まるだけです」
「行きません」
「ご、ご挨拶するだけで……」
「ダメです」
備中が乗る船は鑑連の指示通りにしか動かないので、断念するしかない。
船は伊予灘へ進入。順調に豊後の佐賀関に接近。佐伯の水軍がすでに動き出しているためだろう、その手前で臨検船が接近してきた。
「停船せよ。然らざれば攻撃する」
現れたのは屈強で見るからに粗雑な水軍衆だが、備中が鑑連の書状を示すと、それだけで水夫の背筋が針金のようになった。これは備中にとって愉快な出来事で、書状の威力を後光に備中、威厳を持って水夫に訊ねてみる。
「豊後水道の状況は如何?」
「はっ!能島の海賊衆が攻められいるためか、平穏そのものです」
「あ、安芸勢もいろいろありますな。なら、伊予の戦場へは問題なく行けそうですね。流石は佐伯紀伊守様」
佐伯紀伊守が復帰したことを話題に出すと、水夫の好漢度がにわかに上昇した様子。その指揮統率は評判が良いのだろう。
「あのお方は真の武士。黒瀬勢や伊予の百姓に対しても、過酷なるを控えておいでで」
「なるほど。ところでそなたはどこの所属?」
「我らは鞍掛の者です」
「ええと、ああ、では田原常陸様の!」
水夫の顔が普通に戻った。
「いえ。今は若林艦隊に所属しています」
「若林隊……義鎮公直轄の」
「はい」
何となく白けた空気になり、話はそこで終わった。臨検を終えた水夫はさっさと引き揚げて行く。行間を読めば水夫の心情が理解できるというものだ。陸戦の雄鑑連に歓迎されていない義鎮公だが、海でも同様なのかもしれない。
ともかくもこれから戦域に入るのだ。備中は顔を引き締める。航路の安全を得た船は豊与海峡を越え、佐田岬で左折、八幡浜へ向かう。丁度、夕刻前の到着となった。
船着場を守る隊に鑑連の書状を見せた備中。そこでの歓迎はそこそこだった。佐伯隊本陣へ案内する、というその武士は助言をしてくれる。
「佐伯のご家中は、戸次家を良く思っておりませんから、その書状を見せびらかすのは控えた方がいいかもですね」
「な、なるほど」
十五年前の追放劇を、忘れているはずがないだろう。誰が主導したか、当事者の佐伯紀伊守にもはや断定はできないだろうが、あの時佐伯領へ怒涛の進軍を行なったのは、戸次隊である。
「くっ……」
思えばえらいところに来てしまった、とやはりこの旅を後悔する森下備中。復帰した佐伯紀伊守は今や老中。さらに、その復帰を手助けした臼杵家と不仲なのが、今の鑑連なのだ。
鑑連がこの出張を備中に強いた訳がこんなところにあったのだとしたら……その性根は昔のまま、とちょっと安心する備中であった。あるいは、佐伯家に対して融和を求めるために、自分を送り出したのだろうか。
だが、鑑連が佐伯紀伊に対して融和を求めざるを得ない理由も無いのだ。
夜には宇和郡は佐伯の陣に到着した備中だが、初めての伊予というのに、地理感覚の把握を怠っていたことに気がつく。文系武士として反省していると、
「森下備中、久しいな」
全く待たされる事なく、佐伯紀伊守の前に案内された。大将は笑顔だが、左右に並ぶ佐伯武士らは、能面の如しである。備中の目にはこれこそ本心に見えるのであった。
偵察任務のはずが公的な意味を帯びてしまうのではないか、と、鑑連の心臓が高鳴り目眩を覚えるのであった




