第196衝 忿懣の鑑連
ようやく多々良川の右岸に橋頭堡を打ち込むことに成功した大将鑑連。ご満悦の振る舞いで、自身を労う。
「このような激戦、二百年前の戦いに匹敵するかもしれん」
「はっ」
「しかも、足利尊氏公とは逆の布陣でだ。ワシは自分の才覚が恐ろしい」
「はっ!」
「聞けば敵の小早川隊は先年伊予を制した強者どもだという。輝く英知と抜きん出た尚武によって、強敵を撃破したのがこのワシだ!」
「ははっ!」
備中一人の諂い返事ではない。戸次家の幹部連皆が、すこぶるご機嫌な鑑連に合いの手を打っていた。備中は、他家の将らが見たら、笑われるだろうか、と外聞を気にしてしまう。
「それにしても立花山が近くなった」
「はっ」
「クズどもが失った城、奪還は目前だ!」
鑑連は肩をそびやかし武徳の発動を宣言する。諸将にも鑑連の気が乗り移り、気合も乗って絶好調に持ち場に戻っていった。
本陣に人が少なくなった時、鑑連の前に進み出て片膝ついたのは由布であった。この人物が口を開く時、鑑連も謙虚さを取り戻すのだ。
「……今日の激戦で多々良川を越えることができたのは、我ら本隊のみです。以後敵は、これ以上の渡河を防ぐ戦い方をしてくることを覚悟せねばなりません。変わらず、地の利は敵が握っています」
「敵が守勢に回るということか」
「……御意」
静かな声によって、明らかに冷静さを取り戻した鑑連。やや考えて、由布に尋ねる。
「地の利はともかく、地形については我らの方が熟知している。吉弘隊を更に前進させ、このまま後背を突き続ければどうか」
「……伝令によると吉弘隊はかなりの善戦をしています。それでいて、渡河までは果たせませんでした」
鑑連なら、成功せねば善戦とは言わん、と言いそうだな、と感じた備中だが、
「敵の主力が、海寄りの連中に移ったと?」
「……御意」
「ワシが小早川を撃破したからか」
「……安芸勢頭領の倅達は、今、兄が指揮権を握り直したと見るべきです」
鑑連も由布も、会ったこともない人物についてあれこれしている。武士たるものこうでなければならないのだろう。
「吉川隊は山陰を制した者共だったはず。確かに、吉弘の小僧に吉川隊の撃破は厳しいな。ワシらが合力してやればあるいは」
「……しかし、我らこの橋頭堡を容易に放棄することもできません」
「膠着すると?」
「……はい。そして敵が点々と砦を作り始めている以上、長期化を避けることは困難です」
「膠着を回避する手段があるとすれば?」
「……万を越える圧倒的な兵力差で押し流す……」
「無理だな」
今回、安芸勢の方が兵力は多いのだ。
「他の連中の奮闘に期待するしかなということか」
「……御意」
鑑連から驕慢を取り除き現実を見せつけた由布はやはり只者ではない。鑑連も頷いた。
「いいだろう、イヌどもをワシが躾けてやる」
戸次隊が渡河を果たしたことは、大友方の戦局不利を覆し、安芸勢との対等な力関係への揺り戻しにはなった。
だがそれから先は、由布の見通しの通りとなった。
「小早川隊は後退したようだ。安芸勢は守りに徹しているな」
「奪われた立花山城が連中の拠点として積み上げられていくぞ」
「なに、城を取り戻す算段は殿が整えてくれるよ」
だがそのような好機が訪れない。となると好機を作るしかないが、
「吉弘隊伝令です!」
「鎮信は突破できたか?」
「敵固く、未だ!」
「ワシは橋爪隊、朽網隊との時間差攻撃を命じたがな」
「敵は専守しています!勝手な出撃を固く戒めているとのこと!ただ、橋爪様、朽網様との連携は上首尾です!」
「ならば夜襲はしたか」
「はっ!しかし、夜もまた敵の守備固く崩れません!」
「ちっ」
敵が乗ってこない以上、事態は進展しない。余りの膠着に、鑑連も陣を出て敵を睨むことが多くなった。鑑連とて功名心と固く結びつくとはいえ責任感と無縁ではないはず、相当な忍耐を持って耐えているのだろう。備中は側近くに控えるしかない。
「奴らは待っている」
鑑連が口を開いた。今の自分の役目は言葉の行き交いにより、鑑連の想像力を刺激することしかない、と応じる備中。
「はい、宝満山から高橋勢が降りてくるのを、ですね」
「そうだ」
「そうなれば、我らは挟み撃ちにされます」
「今、宝満山を囲むのは弱兵だ。が、それなりの数はいる。だから高橋が降りてこないとも思ったが、ここ数ヶ月、一回の出撃も無い」
「あるいは敵にも不一致があるとすれば、味方である安芸勢の力を信じていないのかもしれません」
「だが高橋が生き延びるには、安芸勢と手を結ぶしかないのだ。なぜ山を降りてこない」
「……」
「今になって、破滅が恐ろしくなったのかもな。もう、立花もおらんのだ」
「はっ……」
「降伏を呼びかけてみるか」
「それは」
「前に貴様が言った条件は不可能だがな」
高橋殿が老中職を求めているのでは、と仮説を述べたことを鑑連は覚えていたようだ。自分の言葉を温めてくれていることに、嬉しく顔が緩む備中。
「そのお役目、橋爪様がご適任と存じます」
「備中、すぐに文書を用意しろ」
「はっ!」
立花殿と異なり、高橋殿は生き残れるかもしれない。主人が主導する温情について、備中は己の胸が熱くなるのを感じた。
急ぎ拵えた書状を携えて橋爪隊の陣営へ急いだ備中。目前の戦争に必死の橋爪殿も、
「備中。戸次様のご温情、感謝する。高橋鑑種は私の叔父。それもただの叔父ではなく、私に大変良くしてくれた叔父上なのだ。きっと説得いたします、とお伝えしてほしい」
と鑑連の決定に喜びを示した。
それから十数日経過。残念ながら情勢は変わらなかった。高橋鑑種は降伏勧告には応じない。安芸勢は専守に徹し、戦局を変える手立ても無し。成果無かった橋爪殿の謝罪を鼻息で吹き飛ばした鑑連、その不愉快も募り始める。
「吉弘隊伝令!渡河に……失敗しました!」
「当家の内田を寄越してやったのに、敵の侍大将の首一つ挙げられんのか!」
「て、敵はこれまでになく、守りを固めています!」
「備中、立花山を焼き払うぞ!」
「あ、雨も降っています。今の季節ではとても……」
「ちっちっ」
備中が見るに、鑑連が焦る理由は明白なもの。すなわち、いつ義鎮公が大将交代を宣言するか、知れたものではないということだ。吉弘が病床にあっても候補はいる。今、多々良川左岸にいる将のうちの何者か、あるいは、最近許された佐伯紀伊守がそうなれば、鑑連は失脚を免れることができない。
わずかに良い報告が入るも、
「……申し上げます。薦野隊が宗像の兵糧物資を焼き払った、とのことです」
「安芸勢には陸と海、二つの補給路がある。大勢は変わらん」
「お、恐れながら」
「宗像勢をこちら側に引き込めば、後背を断てるのではないでしょうか、だって?蹴飛ばされたくなければ黙ってろ」
「ぎょ、御意」
備中には、手詰まりとなった鑑連の苦しみは十分に理解できた。大友主従の間が良好であれば、今の焦燥は起こりえなかっただろう。この様なことも自業自得と言えるのだろうか。
そのうちに、空模様だけが変わる。梅雨が明け、夏がやって来た。川辺から霧は消え、陽光に容赦なく照らされる季節であった。