第151衝 照隠の鑑連
主人鑑連の八つ当たりで悲劇を味わった森下備中。なかなか心的衝撃から立ち直れず、親切な小野甥から診断を受けていた。その会話の繰り返しが、不思議と備中の心に潤いを与え、その傷を癒しているのは間違いなかった。
「いいですか。主従の秘訣を伝授しましょう。すなわち、可愛い家来というものは主君の言うこと良く聞いて、勝手な行動を取らない家来のことを言うのです」
「し、しかし私は……」
「聞かない事もあるのでは?」
「そ、そんなことは……」
「あるいは独断と偏見によって提言したりなど」
「うっ、どうなんでしょう……」
独断と偏見によったのかもしれないが、立花殿が心に危機を抱えているかも、と備中が提言を行った事実は、鑑連には健忘で無いかという程に無視され、今に至っている。
「とと、ととと、殿は」
本来、健忘などには縁遠く、極めて似合わないはずの鑑連だから、備中は主人の振る舞いを、立花殿裏切に対する八つ当たりと断じ始めていた。
確かに、立花に謀反は無い、と鑑連に否定された時に備中も食い下がりはしなかった。しかしである。非道極まる理不尽を思いだし、すると発作が起こる。小野甥が診断する備中の症状はその繰り返したが、それに付き合ってくれるのだから、備中の小野甥に対する好漢度は昇龍が如く上昇にあった。
「と、殿は。とと殿殿殿は」
「はい、戸次様が?」
若いのに思いやりに満ちた小野甥の優しさが、涙を誘発する。
「殿は殿は殿は、わ、わたわわたしが嫌いなんだっ、ううっ」
「まさか!貴方は戸次様のお気に入りですよ。だって」
「……」
「皆、そう言ってますし」
備中、堪らず叫んでしまう。
「嘘だ!お気に入りの家臣の頭に……小筒を突きつける主人がいるか!」
「あれは戸次様一流の……そう、貴方の殿の甘えでしょう」
「……あ、甘え?」
「そうですとも」
にこにこ爽やかにそう吐いてのける小野甥。何となく、その意味するところがワカらないでもないが、これも何となく激昂してみたくなった備中。決して鑑連にはぶつけられぬ言葉を放つ。
「こ、この若造!私をコケにするな!そんな……違う事くらい……ワカるよ!ワカるワカる!」
自分に親切な相手に心無い態度をとった事に、胸が痛む。それでも小野甥の笑顔は変わらない。
「まあまあ。では仮に、戸次様と備中殿を比べてですよ」
「そんな……私と殿を比べるなんて……」
身分違いの比較に今度は思わず照れてしまう。不穏から激昂、さらに後悔から含羞と不安定に感情行き来する己が滑稽さを、脳みその冷静な部分が嗤っている気がした備中。
「比べてみるとワカりますよ。戸次様はより大きな圧力に耐えているのです。軍の大将なのですから」
「そそれは、そうだね。そそそそうだね」
「由布殿も仰っておいででしたが、戸次様も苦しみを背負っていることを、認めてあげてください」
「ワカ、ワカりました」
「筑前の件、戸次様はこれから大変ですよ」
「こ、これまでだって大変でしたよ、我々下下下下下々ははは」
口調の不安定著しい備中に、小野甥はするりと情報を伝える。
「立花山城に安芸勢が入ったそうです」
「……え?」
「ついに安芸勢来襲です」
「……」
「清水月清入道という武将が安芸勢を引き連れて入城したとのこと。虚報ではありません」
「そ、それは……どこから」
「筑前と安芸は海で繋がっていますから、宗像勢の海上支援があれば上陸は容易ではあります」
「では、た、立花様はもう……」
「そう。行く所まで行くおつもりのようですね」
「ううっ、こんなになる前に殿にもっと注意を促すべきだった。わ、私が愚かで浮気な下郎であったから……グスッ」
「それはワカりませんが、これから軍議があります。数日振りに出席してみませんか」
「わ、私が出席すれば、殿が……嫌がる……」
「大丈夫です。復帰の第一歩ですよ」
備中は小野甥の温かく手を引かれ、背中を押されて広間へ連れていかれた。
「諸君、知っての通り立花山城が国家大友に背いた。よってこれを攻める」
幹部連を前に宣言する鑑連。安芸勢が動いたからには、異存のある武将などいない。
「安芸勢が城に入った以上、絶対に放置は許されん。立花山城を陥とす。これは筑前筑後に駐留するワシの目下最大の責務となる」
鑑連の宣言に、安東がやや固く応ずる。
「ようやくの安芸勢がお出まし。腕がなります」
鑑連は相変わらずの調子で返す。
「十時がこの世を去った今、そなたが我が隊随一の切込隊長だ。大いに期待している」
「はっ!」
同僚備中を虐待した主人への憤りを飲み込んでくれた安東を前に、由布は無言で小さく頷いた。鑑連は敢えて言わないが、部隊全体の統率者としての由布へ全幅の信頼を置いている。視線を交わすまでも無く、この二人の関係は良好であった。
「恐れながら」
家中の者ではない小野甥が爽やかに発言をするが、対して鑑連は露骨に嫌な顔を示し、
「立花と調整でもするつもりかね」
「この期に及んでそれはありません。将軍義輝公が間に入られた和睦は、完全に破綻したのですから」
「破ったのは先方だがね」
「それを天下に示すためにも、立花山城を攻めねばなりません」
「だが部隊を持たない貴様は城攻めでも役立たずだろう。どこぞで留守番でもしていればよい」
思えば小野甥も鑑連に死の恐れのある攻撃を受けた者である。それなのにその恨みの片鱗も見せない。にこやかに提言する。
「立花山城の謀反の影響で、あちこちの街道が勢いを増した謀反勢によって寸断されつつあります」
「それで?」
「私は本国豊後からの得やすい情報網を管理しています。それを戸次様の作戦遂行上の資料として、ご提供いたします」
「勝手にそんなことをして義鎮に……いや」
「はい、この期にあって時の浪費は控えねばなりません」
鑑連が靡いた。こ、これが主人に好かれる家来の模範的振る舞いなのか。小野甥は鑑連の家来ですらないのに。幹部連一同、大いに感心するが、備中は嫉妬を抱かずにはいられない。といって、対抗する勇気も無かった。
小野甥が指摘した浪費の意味する所、これが情報の不活用にあるのか、それとも鑑連の悪口にあるのかはワカらなかった備中は、遠慮がちに体格の見事な武士の陰に身を置いていた。ふと、自分を睨む鑑連と視線が衝突した。無論、押し負けた備中、怯えて目を伏せてしまう。鑑連の静かなる雷声が飛んだ。
「立て」
「……」
その声は明らかに備中へ向けられており、哀れな文系武士は恐怖で固まる。
「いいから立て、二本の足でな」
「は、あ、あああ、あい」
子鹿のように震えながら立ち上がる備中へ、幹部連一同、不憫、と憐れんで視線を送る。さらなる悲劇を予想し、目を背ける者もいる。そこに場違いな使者が入ってきた。
「申し上げます。吉弘左近様がお目通りを……」
「通せ」
「はっ!」
使者を見ずにそう告げた鑑連、備中の顔から視線を外さない。備中は俯くばかりだが、
「命令だ。ワシの目を見ろ」
「ご、ご勘弁を……」
「命令だぞ」
こうも命じられたら見ないワケにはいかない。極端に恐る恐ると目をちらと動かすと、いつもの恐怖の象徴がそこにいた。また、僅かながら視線が衝突した。
瞬間、鑑連の強烈な足払いが備中の足を襲った。左に倒れこむ備中の頭を掴んだ鑑連、そのまま回転を加え、備中は宙空でもう一回転して背中から床に打ち付けられた。しかし、上手く倒れ込んだためか、痛みはほとんどない。そこに、吉弘主従が入ってきた。
「戸次殿。参上いたし……ました」
異常な光景に目を丸くし、それで沈黙する吉弘。同じく目の前の状況に絶句する幹部連を気にも止めずに、鑑連は重ねて備中に命じる。
「立て」
「……はっ」
もう一度視線が重なった。しかしもう衝突はせず、そこには奇妙な融和があるのみであり、互いの目は自然と伏せられた。極めて珍しく、神妙な口調で鑑連は備中へ命じる。
「謀反した立花についてだが」
「……は、はい」
「その心境を、貴様の考えで述べてみろ」
「……はっ」
不思議と今の一撃で頭と心の霧が晴れたようだった。備中は自身でも信じられない程、流暢に言葉が溢れて出てくるのを感じた。多すぎてまとまらないほどに。
「そ、その。整理しながらで」
「許す」
鑑連の誤解、憤怒が解けたか確証はないが、備中は己の考えをたどたどしく語り出す。それは尚武優れた戸次武士たちがこのひ弱な文系武士に一目置くに相応しい、説得力を備えた解釈であった。




