第147衝 一手の鑑連
鼻を押さえながら起き上がる吉弘殿、静かに平伏し直す。悲鳴もうめき声も上げなかった。顔が血にまみれ、小さな鼻が曲がったように見え、その貧相さに拍車が増しているが、堂々としていた。
背後に控える従者も流石に呆然としている。当然だろう。冷静に観察しているような備中でも頭のどこかでは驚愕している。武士の、それも上級指揮者が誰かを殴り飛ばすなど、聞かない話であった。
しかし、吉弘殿は何も言わない。平伏し、詫びの姿勢を維持している。鑑連もとりあえず気が済んだのか、それとも演出は控えたのか、それ以上の手は出さなかった。
「鎮信殿、何か言いたい事はないかね」
後ろの従者が顔を上げた。どうやらこの従者は鎮信という名らしい。鎮信殿は狼狽極まった表情で、主人に倣って平伏をする。
「愚か者」
その声の鋭さに、全員がビクッとした。鑑連は声の出し方からして、恐ろしい。
「眼前で父親が侮辱を堪えているというのに、下で控える者が怯えていてどうするか!親の名誉を取り戻したいとは思わないのか!ワシに拳を向けてみろ!」
「は!ははっ!」
備中、鑑連の説教でようやく理解できた。後ろの人物は従者ではなく吉弘殿の息子だ。そして悪鬼に拳を向けることなどできない質である、と。
「鑑理、倅を甘やかし続けたのではないかね。このような時にワシの命一つ奪う気にならないようでは、この先に待つ安芸勢との戦い、物の役に立つまいが」
「……」
吉弘殿は忍耐に忍従を重ねている。
「親子共々至らぬ点、申し訳ないことにございます。戸次殿」
「うん?」
「本日は安芸勢との事、話を致したく参りました」
「ほう」
柔らかく話し始めた吉弘殿が、鑑連の暴風を止めた。血が鼻腔に溜まっているのだろう。ガラガラ声になっている。
「安芸勢との何を、話したいのかな」
「精強な安芸勢に対した時、誰が門司表を守り、誰が豊前を守るか、という話です」
「誰が、ということであれば大友家督や吉岡殿が考える事だ」
「いえ、宗麟様はともかく、もはや吉岡様はご担当なさらないでしょう」
「何故かね」
「先の和睦が崩れた時、今は亡き田北様が力を失った事と同じ理由です」
この発言に、鑑連は興味をそそられた様子であった。ついさっき、相手の顔面に強撃をお見舞いした事を忘れるかのように、話に乗っていく。
「では将軍家斡旋の和睦に、吉岡殿は誠心誠意取り組んでいた、ということかな」
「心の次第はともかく、政治生命を賭していたのは間違いないところです」
「あの手練手管の妖怪ジジイが、自分の何かを賭すようなことをするかね。似合わん」
「吉岡様は御高齢です。戸次殿はご存知無い事かもしれませんが、ご持病もあります」
「まあ、長く生きていればそれぐらいはあるだろう」
「さらに吉岡家は強力な権門ではありません。吉岡様のご権威は、あの方が一代で築き上げたもの」
その権力の獲得について、鑑連と似ている、と感じた備中だが、義鎮公の時代になってから、反発もあったろうが両名は協力しあってここまできたのだ。似ているのも当然かな、と思い直す。
「今の吉岡様のご希望は、ご自身の後、今の吉岡家家督のために万全の体制を用意する事です」
「ああ、妖怪の倅について、特に話は聞かんなあ」
「これは吉岡様の悩める所ですが……話を元に戻します。安芸勢が進出してくれば、吉岡様はその力を失ってしまいます。では誰が力を持つのか。候補は二人に絞られる」
「二人?鑑理、そなたを入れて三人だろう」
「私は外れます」
「何故」
「今、宗麟様の直属として動いておりますが、もともと私は吉岡様の指揮系統にあった者です」
「それも義鎮の希望があったからだろうが」
「私が分不相応な地位を得るに至ってからは、吉岡様がどうお考えかはワカりません」
その謙虚な発言につられてか、背後に控える吉弘殿の子息も深々と頭を下げた。鑑連、だんだんと上機嫌になる。
「クックックッ、自覚があるという事は良い事だ」
「宗麟様と吉岡様、そのどちらもが、安芸勢との戦いに対する大将、というより頭脳候補には該当しません」
「では誰が?」
「戸次殿と田原民部殿でしょう」
「田原民部?田原常陸ではなく?」
「はい」
吉弘のこの考えには備中も意外であったが、鑑連も同様のようであった。
「何故、田原常陸は外れる?」
「田原民部様との競争から、外れたためです」
「もう結果がでたか……興味深い」
権力争いに動きがあったようだ。備中、尊敬する田原常陸の行方が気になって仕方がない。
「話せるか」
「無論です」
「極秘の情報では?」
「対安芸勢の資料としての提出です」
「クックックッ」
愉快そうな鑑連である。
「本家である田原常陸殿の家から、幾人かの家臣が田原民部殿の家へ移る事が内定しました」
「クックックッ、おい備中聞いたか」
「は、ははっ」
これは発言を許す、という事だ。備中、二人の大将の会話にお邪魔する。
「お、恐れながら。しかし移るのは、譜代のご家臣ではなく新参の……」
「いえ、譜代の家臣も含まれています」
「え!」
「譜代の家臣ともなれば土地持ちだろう。その連中が田原民部の側へ行くということは、田原常陸自慢の戦力の弱体化だな。あいつも嫌われたものだな」
「同時に、田原民部様の戦力強化でもあります」
「強化になると思うかね」
「強化が落ち着くには時間がかかるでしょう」
「ふむ……それでワシと田原民部の二人か。で、鑑理、提案の内容を聞こうか」
ようやく本題である。
「安芸勢との戦いに際して、我ら吉弘隊は戸次殿の指揮命令に従います」
びっくりな提案である。何のためか、と問うまでもない。安芸勢に勝つためである。目の前の人物はそのためだけに、競争者でもある悪鬼の前に膝を折っているのだ。国家大友への忠誠心、その祖国愛は備中の心を強く打った。この人物は、貧相な表情をしていても、心は武士の鑑であり鏡のように美しい。
だが主人鑑連は受けるだろうか。安芸勢に対してのみ、という限定が気にくわない、とか言いそうである。
「いいだろう。使ってやる」
あっ、簡潔な承諾。これは奇跡だ、と備中は思った。
「ありがとうございます。吉弘隊全員、戸次殿にお認め頂けるよう、精一杯励みます」
「安芸勢との戦いに備えて情報を資料として提供した貴様の姿勢は戦術としては誠に正しい。それを以後も忘れるなよ」
「承知しました」
「では安芸勢との戦いに際し、以後当家の作戦会議に参加する事を許す」
「……はっ」
まさかの結果に声も出ない備中。だがこれは鑑連の戦果というより、吉弘殿が譲歩した結果だろう。備中はその人徳の深さに触れ、人知れず幸福に包まれていた。