第136衝 黒嵐の鑑連
夜須見山城の広間には戸次叔父が残り、撤兵作戦を念入りに確認していた。そこに飛び込んだ森下備中を見て、大して驚かない戸次叔父。
「備中か、早く休めよ……」
「親繁様!一大事、かも……しれません」
「な、なんだって?」
存念を明かす備中と、それを聞いて驚く戸次叔父。その間にも雨音がさらに強くなる。
「秋月勢が我らに復讐を企むなら、今を置いてないはずです!夜、この雨、そしててて、撤兵」
「確かに警戒は必要だな。だ、だが、どうする。この真夜中の嵐、一番近い臼杵隊の陣まで、迷わず無事に行けるか」
「ええと、あ、あの、その」
備中自身が動いても良いつもりであったが、馬術が達者と言えない彼に、この天候では到底無理だった。そして、運悪く秋月勢に遭遇したとすれば……想像だけで、血の気が引いていく備中。雨音は激しさを増す。
と、そこに小野甥が追いついた。
「私が参りましょう」
「小野……怪我は大丈夫か」
「はい、それより戸次様は?」
「先程お休みを取られた」
「備中殿の話の通り、危機が迫っている恐れがあります。休んでいる兵を起こしてでも、城の防衛に当たらせるべきでしょう」
「ワカった。私の責任で、そうしよう」
「では、すぐ発ちます」
そう言って退出する小野甥。備中顔を見て、強く頷いて出ていった。正念場を越えよう、という意志が込められており、その行動力を称える戸次叔父。
「若さとは美しいな」
「はい……」
「備中、もしも雨とともに秋月勢が夜討に動いたとして、吉弘隊の陣にはいつ頃到達するだろうな」
「降り始めから逆算して、子の刻にはまず……」
「では今、向こうは戦場となっているかもしれんな。で、敵が吉弘隊を突破したとして、その後、臼杵隊の陣にはいつ頃着くか?」
「敵が長居しなければ、同じ刻の内には到達するかもしれませんし……古処山に兵はそれなりにいたはずです。二手に分かれて、同時に攻めていたとしたら……」
説明していて、秋月勢がそこまでするか、疑問もあった。だが、戸次叔父の次の質問が備中を奮い立たせる。
「雨が降れば川が溢れる。秋月勢は暴れ川を渡れるかな」
自分が秋月の人間なら、賭けるだろう。勝たなければ、死あるのみ、なのだから。
「彼らはこの地に生きる者達です。きっと越えてくるに違いありません。吉弘隊も、臼杵隊も彼らは撃破するでしょうが、真の狙いは我ら戸次隊であるはず」
「ワカった。これ以上の問答は不要だな」
雨音は引き続き強いまま。戸次叔父は自身の権限で休息中の武将達を叩き起こし、いかにも眠たげな声を懸命に鞭打つ。
「起きろ!警戒態勢をとれ!」
「ええっ、親繁様……この雨なら敵も出てきませんよ……川が溢れれば、危ないじゃないですか」
「馬鹿!だからこそだろうが!何にせよ警戒せにゃならん!これは物見遊山じゃない!」
「で、でも。明日は陣を引くんでしょう?もう戦は無いんじゃ……」
「この、何を言っていやがる。いいから警戒態勢だ!」
「私らが起きんでも、歩哨がいるじゃないですか。連中立っていますよ……」
「交代して休ませてやるんだ!交互に交代!ほら起きろ!」
「叔父上……なんです」
「何を寝ている鑑方。我ら一門が先にやらずどうする!起きろ起きろよ」
「は、はい、はい、起きますよ起きました」
戸次隊に見られる鑑連の独裁体制は、戸次叔父の権威を必ずしも強くしていないのか、それともみな睡眠欲には勝てないのか、備中は緊張と不安で目が猫のように丸くなっていた。すると、騒ぎを聞いた鑑連が起きてきた。
「備中」
「はっ」
「何事か」
今は全く緊張していない備中。返事をする前にちゃんと会話をしてくれる事が嬉しい。この主従関係は、きっともう大丈夫だろう。
「はっ、敵襲の警戒を、親繁様が」
「今は丑の刻か」
「はい」
「……」
鑑連からあまり緊張感を感じない備中。あれ?戦争の達人が、ゆっくりしている、と調子が狂う。広間には雨音が響いている。
「フン……不愉快な一日になりそうだ。今の内に朝食を済ませるか」
「すぐ用意させます」
「由布と安東はどうしている」
鑑連にとって、この二将はやはり別格。動向が気になるらしい。
「親繁様のご指示で、警戒に入られています」
「様子はいつも通りか」
「由布様は恐らく。安東様は……」
「安東は滾っていたか」
「はい、あまり眠れていないご様子で」
「……」
食事をとり始める鑑連。下がろうとする備中に質問を投げる。
「備中、小野の若造のその後を報告せよ」
「は、はい。先程起き上がられ、吉弘隊、臼杵隊へ敵への警戒を促しに、出られました」
「この雨の中をか」
「はい」
「野心に燃えているな。さぞ出世したいのだろうよ」
「は……」
「貴様、聞かんのか。ワシがあれを殺さないのかと」
「あの無礼なお振る舞いに対しての……」
「そうだ」
「……」
「何を黙っている」
「殿は、直言をする者をみだりに害したりはされない方だと、心得ております」
「ワシは手を抜いて殺めなかったと?」
「そ、そうなのではないかと」
「クックックッ」
「……」
「貴様、よくそんなことが言えるな。ワシはあれに小筒まで使ったのだぞ。躱されたがな」
「いやあ、十数年振に拝見した気がします。覚えていますか、別府の温泉で」
「おい」
「し、失礼いたしました。そ、それであればこそ小野殿は、殿の試練を越えたのだと思います。殿はあの方を害さないと思います」
「試練」
「は、はい」
「衝動に駆られて斬り捨てたとて、戦場に捨てれば問題ないがな……しかし、あれは義鎮の近習だ。ワシに忠誠を誓い当家に移ってくれば、可愛がってやらんこともない。備中、貴様と同じくらいはこき使ってやろう」
「そ、それは何よりで……」
「何よりだと?ワシの命令に従うには百の命があっても足りんはず。備中貴様、奥向きの仕事が続いているからと油断していると、命を失うぞ」
「はっ!」
「……」
「……」
「……クックックッ」
「……はは……は……」
「クックックッ!」
「あはは……」
「笑え備中!クックックッ!」
「あっはっはっは!はっはっはっはっはっはっはっはっは!」
「何がおかしいか!」
「……」
主人の狂気じみた精神を前に備中が沈黙したその時、雨音を裂いて怒号と叫び声が広間までつんざいた。
「な、何事でしょうか」
遠くに聞こえるのは悲鳴、鳴き声、撃剣の音だった。これはもしや……討ってでた秋月勢がここまで到達したか、と身構える備中。
「と、殿!これはもしや……」
「敵襲のようだな」
敵襲を認めた鑑連は、そう言いながらも、朝食をとり続け、動じない。先程の笑いと言い激昂と言い、政治闘争の果てに気が狂ってしまったのか、主人の本心を計りかねる森下備中であったが、一向に揺るがない鑑連の側に居る事で、自身の精神も安定を得ているんだろうなあ、と不安の中、おぼろげに自覚するのであった。
廊下を走る何者かの足音が近づいてくる。さすがに緊張を強める森下備中。自分一人で主人鑑連を守れるだろうか。緊張しているはずだったが、脇差を掴んだ手は、思いのほか乾燥していた。そして思い直す。いざという時は、鑑連の後ろに避難しよう、と。