第119衝 閾煙の鑑連
内田が持ち帰った高橋殿謀反の兆しは、鑑連から老中筆頭吉岡を経由して、直ちに義鎮公に伝えられた。
しかし、何も起こらなかった。
領内では緊張ばかりが嵩じており、といって大友首脳部の無策を訝しむ家臣団も、積極的に声を上げる集団ではない。訝しむ一人である森下備中、戸次叔父へ質問をしてみる。
「臼杵城に報告は上がっているのに、なぜ何も起こらないのでしょうか」
「義鎮公が行動に出ないからだ」
その問いを苦々しげに答える戸次叔父もまた、積極的に声を上げない一人である。
「そ、それではご老中衆がその決定によって動かさないのでしょうか」
「老中衆に田原民部様がいる以上、決定しないよ。全員一致が原則だから」
田原民部は今やそこまで先輩老中らに敵対しているのか。だが、それは田原民部の意思というよりも、義鎮公の意思のはず。
「これまでは決定できていたのに……時を逸するばかりではないですか」
「なんだかんだ吉岡様の権威が強かったからなあ。思えばあの決定の速さは国家大友にあっては離れ業だったのかも……吉岡様が正しい決定をしていたとは言っておらんぞ備中」
「はっ」
「しかし、無策無為よりも、正しくはない決定の方がなんぼかマシかもしれん」
そう嘆息する戸次叔父に強く同調するが如く、戸次弟が現れた。
「筑前豊前の土豪らの間に不安や期待が広がっているそうです」
「不安?」
「東の戦線にケリをつけた毛利元就が、和睦など一蹴して西へ兵を向けてくるのではないか、との不安です。人質を取っている家からは援軍の確約を求める使者がひっきりなしで」
「ううむ……しかし、門司周辺に兵を向けるワケには行かないぞ。それこそこちらから和睦に違反する形になってしまう」
「鑑方様、恐れながら期待、というのは?」
備中をバカにしたように答える戸次弟。
「決まっている。毛利元就の西進を救援とみなす輩どもは、それを期待しているんだ」
「な、なるほど」
話を聞いていたらしい安東が間に入ってくる。
「ですが、安芸の頭領は例の宣言をしたらしいじゃないですか。ほら、ワレ天下ヲ競望セン、という。戦を控える、という意思表示では?」
「今も畿内は混乱しているようだが、天下は望まない、そちらへは兵を向けない、という意味なのではないかな。つまり、代わりに筑前豊前には容赦なく兵を向ける、という……」
「あ、なるほど……」
小走りにやってきた十時も話に加わる。場の体温の高まりを感じる備中。
「であれば、高橋様謀反の噂、より真実味が増すのではありませんか。高橋様がやり取りをしていた相手とは、安芸勢なのでしょう」
一同頷いたが、ただ一人首を横に降る戸次叔父。むしろ十時の発言を諌める。
「確実な証拠は何もない、内田が掴んだ書状も、全てを明かすものではない……ところでな十時、高橋殿は仮にも本国不在が長いとはいえ、身分地位の確かな方だ。発言には気をつけろよ」
ははっ、と頭を下げる十時を押しのけ、戸次弟が反論する。自分もまた血筋で引けを取らないと自負するだけあって、より辛辣な口調で、
「ですが、反逆者の弟ですぞ」
「鑑方」
「……はっ」
叔父貴に呆れられ、さすがに口を閉ざす戸次弟の素直さに胸が熱くなる備中。頬まで染まったため、火照りの色を誤魔化すように発言を突っ込む。
「しかし、噂は冬の野火に負けない勢いです。そのうち義鎮公もご不安に押されて……例えば召喚命令を発するやもしれません」
「何事も無ければよいが」
「恐れながら、高橋様がどのようなご気性の方か、よろしければ教えて頂きたいのですが」
安東に問われた戸次叔父、淡々と述べて曰く、
「そうだな、勇敢な御仁……そう、実に勇敢な武士だ。兄君二人が討伐された後、堂々と出頭したしその後は肥後の小原遠江討伐、伊予攻めもしっかり成果を出した。今は亡き義鎮公の弟君の補佐役として山口にも付き従っている。それから十年近く、任された筑後方面を大過なく監視しているのだ。相当な気力胆力をお持ちだろう」
「高橋様が謀反したとして、どれほどの筑後勢が敵に回るでしょうか」
十時のその際どい質問に、先程の注意をもう忘れたのか、と顔で怒りを表明する戸次叔父、その質問に答えたのは、いつの間にか輪の中に入っていた内田であった。
「半分近くは高橋様に呼応するかもです。星野、黒木、問注所、西牟田、溝口、三池……菊池の殿や小原遠江殿ご謀反の時、国家大友に歯向かっています」
腕を組んで唸る一同に内田はもう一撃を食らわせる。
「その場合、筑後よりも筑前が問題です。周辺だけでも、筑紫、原田、秋月、宗像、麻生……そして立花と怪しげな者共がひしめいているのです。場合によっては筑前一国が完全に敵になるやもしれません」
好戦的かつ伝統を尊重しない連中ばかりで反論を諦めた戸次叔父は、腰を下ろし胡座を組み、後ろを向いてしまった。もうこの会話には参加したくないようだった。代わって戸次弟が続ける。
「内田、その連中全てに毛利元就は声をかけているのか」
「筑後勢は不明ですが、筑前ではその様子です」
「我々は、立花山城と宝満山城を抑えることで、筑前筑後に睨みを利かせてきた。言わば、この二つの拠点は筑前統治の要だ。今、門司城が敵の手にある上に、仮にこの拠点までが敵の手に渡ってしまったら……」
「おしまいですね」
「筑前が失われれば、筑後が狙われる。肥前からも侵略があるかもしれんし、いよいよ筑後が危うくなれば肥後勢などあっさり国家大友を見捨てるだろう」
「義鎮公の下で積み重ねてきた当家の所領も危険に晒されます。それは我らの生活が危険に晒される、ということです」
今日はどこまでも悲観的な戸次弟に、実践的な危機を煽る内田。発言の機会も無いし、とそれに乗っかってみる備中。
「そうなれば、隊を組織する事も困難になります」
「そうだな。足軽共に銀や銭を渡せなくなる」
「武器兵糧の手配も、先立つものがなければ信用でやらざるを得なくなるが」
「果たして筑前筑後肥後を失った我々に、商人どもが売掛をしてくれるかどうか……」
思いもかけず安東、十時も話に乗ってきたが、こちらもやはり暗くなる。この空気が苦手な備中、払拭に挑戦するが、
「ま、まあまあ。まだ何か起こっているワケではないのですから……」
「……」
「……」
「……」
「……」
見事にしくじった。全員沈黙し、考え込んでしまっている。こんなざまで国家大友は大丈夫だろうか、と自問する備中。せめて主君と重臣の間がしっくりいっていれば、こんな事にはならないのだろうが、
「ふぅ、どちらも意地っ張りだからかなあ」
とため息とともに備中が呟く。すると遠雷が響いた。
「今ため息を吐いたのは誰だ!」
「……殿がお戻りだな。なんたる地獄耳」
「備中だろう、ため息」
広間の全員が備中を見る。動悸が一気に激しくなった備中、悲鳴をあげる。
「さ、左衛門!黙っていてくれ!」
「いいとも!貸しだからな!」
「……」
「……」
廊下を全速力で駆けてくる音が聞こえる。全員すぐさま平伏すると、襖が勢いよく放たれた。
「ワシの屋敷でため息は許さん!忘れるな!」
勢いよく閉じられる襖。気のせいか、敷居から摩擦の煙が上がっているよう。
「……高橋殿対策、これは不調に終わったかな」
「ああ、国家大友はどうなるのだろう。神仏のご加護を仰ぐしか無いかな」
これに戸次弟が意地悪く、
「義鎮公は吉利支丹伴天連の御本尊にお祈りでしょうから、八幡大明神はきっとそっぽむいていますよ」
ため息厳禁であるため、無言で首を振るしか無い一同、同感であったのだ。
戸次家幹部連の不安は、永禄十一年の暦が進むに連れて、一層増すばかりであった。