第113衝 因果の鑑連
臼杵、田原常陸介の館。
「は、は、は」
「……」
「は、は、は」
端整な風貌のまま正面を見据え、口だけがパカと開かれている。そこから漏れ聞こえるのは、一定の調子で放たれる冷たい笑声である。恐ろしさに肝を潰す備中。
「……」
「で、なんだったかな、備中」
「……はっ」
これで同じことを繰り返し述べるのは三回目となる。人の言葉がしかと耳に入らないほどに怒り狂っている田原常陸の放つ恐ろしさは、鑑連のそれとはまた別種のものであった。考えてみれば、長年付き合って来た鑑連の恐ろしさはまだ備中を殺してはいないが、田原常陸のそれはさにあらず体が冷えてくる。
「そう言えば、豊前撤退行でも、この笑い声を聞いていたな……」
自分は舞い上がっていただけなのかもしれない、と田原常陸との友誼への期待に、心中ちょっと待ったを宣言するしかない。備中の話を聞き終えた田原常陸は、ようやくその意見を述べた。
「この件に関して、老中衆の寄合を持つには時間が足りないな。吉岡殿、戸次殿、そして私は承知としても、残る臼杵殿、志賀殿が不承知かもしれん。となると、老中衆の意見も割れるということになる。ワカるかな」
「……はっ」
これは軽率な提案だったか、と判断外れに落胆する備中。
「というワケで、当家がその案に乗る為には保証が必要になる。だがそれには時間が無い」
「た、確かに……」
「まあ、物事は落ち着くところに落ち着くだろう。戸次殿にはよしなに。な、森下殿」
「はっ!」
「は、は、は」
収穫の無いまま、田原常陸邸を出る備中。自身の提案が頓挫してしまったがこんな時は誰かに相談したくなる。しかし、
「左衛門はずっと不在だし、クソハゲは態度が悪いし」
さらに周囲は、備中自身を鑑連と昵懇であると見なす為、親身の相談となると人がいない。やはり戸次一門衆へは遠慮するし、由布、安東、十時と言った実戦派に相談できる話は限られてくる。
「どうしたものかな……」
悩みながら帰路を彷徨う備中。見慣れたハゲ頭を見かける。石宗だ。最近そっけなく、相談することをためらうが、
「帰路は岐路なり」
と勇気を出して相談を持ちかける。
「あの……」
「はっはっはっ!」
「い、石宗殿……」
「はっはっはっ!!」
「ちょ、ちょっと待った!」
「邪魔なり」
体格に勝る石宗の強歩の前に、哀れ弾き飛ばされてしまう虚弱武士。高笑いとともに去っていく石宗のテカり肌が目に沁みる。同時に怒りも湧いてくる。
「く、くそ……」
左手には腰の一物の感触があり、右手をかけた備中。
「ぐぐぐ」
だが抜けない。武士として致命的かもしれないが、刀を抜いて飛びかかっても勝てる思いがどうしたって湧いてこないのだ。
「……」
諦め、立ち尽くす備中。目が涙で熱くなる。なんとも悔しいが致し方ない。
「戻るか」
トボトボと歩き始めた備中。俯向きながら歩いていた為、前に立っていた人にぶつかってしまう。
「し、失礼」
「いや」
左に避けると、相手も左に避けた。ではと右に足を向けると相手も右に。もう一度左へ。すると相手も左へ。困った備中が顔を上げると、正面の相手、その若者は口を開いた。
「先程の喧嘩、見てました。何故刀を抜いて、斬りつけなかったのですか」
急な質問にビックリの備中。
「なななななな、な、え、えーと、その」
問を繰返す視線を向けてくる若者。見ればそれなりの身なりだ。武士なのだろう。自分より身分が上なのかもしれない。急に判断できた備中、言葉を選んで曰く、
「わ、私はそのような事は考えませんでした。あのお方は豊後の偉いお方なので」
「いや、刀に手を掛けていたでしょう。体は抜く気でいたはずです」
食い下がってくる若造にイライラしながら、備中は屁理屈で返す。
「で、では上下を重んずる正しい心がそれを止めたのでしょう。な、なんですか。私を奉行所へ訴えるとでも?」
若造は微笑んでいるだけで何も言わないが、嫌な予感とともに、言葉が洪水のように溢れてくる備中、
「しょ、証拠でもあるのですか。私が角隈氏に無礼を行ったという証拠が。はは、ないでしょ。見ているのは貴方だけです。この臼杵の町は道を進めば肩がぶつかり袖を引っ張られる府内や博多とは違うのです。静かで品のある入江に作られた町並み。目撃者などいない!へへっ、私は無実だ。何もしてないぞ。そも誰がこの私を非難できようか。私は国家大友のために日々考え動いているのだ。悪事など何一つ……何一つ……して、していない……」
刹那自信が無くなってきた。自身は悪事に手を染めてはいないはずだが、加担者め、と指刺されれば返事に窮する気がしないでもない。
だが、と頭を振って雑念を追い払うと、
「国家大友のために働いているのだぞ!その私を、あ、貴方、奉行所へ?訴える?じょ、冗談じゃないぞ!」
若造は相変わらず無言だが、浮かんだ笑みが強くなり、備中の目をじっと見ている。不気味さを覚えた備中は、
「そ、そういうわけだから、邪推はしないで頂きたい。失礼」
とその場から急ぎ離れた。チラと後ろを観ると、若造武士はこちらを向いたまま微笑み続けていた。
「気味が悪いな……」
戸次邸に戻った備中、鑑連へ田原常陸の意見を伝えると、
「ふん、元亡命者風情が。人生守りに入っていやがる」
と罵りが。そう、田原家は先代義鑑公の時代に追放され、義鎮公の時代とともに復帰を許されていたのだった、とその事情を思い出す備中。
「先程、田原民部の軍が出発した。ヤツの所領がある国東では本隊が動き始めているはずだ。今から対処はできんな」
「義鎮公に一歩先を越されたという事でしょうか」
手で顎を撫で考えはじめる鑑連。
「そ、そういえば石宗殿についてですが……」
備中が、最近特に素っ気ないという事を伝えると、
「あのクソ坊主め。このワシへの挨拶を欠かせ気味なのは、ヤツのみる天道からワシが離れつつあるのか、あるいは義鎮を近づかせようとしているからか、どちらかだろう」
「確かに、あの利に聡い性格なら」
熟考を終えた鑑連。方針を述べる。
「田原民部の倅が殺された事は事実だ。これは誰にとっても、予想外のはずだが、義鎮は出兵を許可した。この偶発事故を利用するつもりなのさ」
「利用する……」
「豊前路を田原常陸から取り上げ、田原民部に付け替えるつもりなのだ」
「義鎮公は、田原常陸様を除くおつもりなのですか!」
義憤にかられる備中。あれ程までに国家大友へ貢献してきた田原常陸を、確たる理由なく除くとは、非道極まるのではないか。
「血も、年齢も、性格も、田原民部の方が義鎮に近い。仕方ないだろうよ。だがこれは田原常陸にも責任がないワケではない。所領が国東や豊前に集中しすぎている。主君がその気になれば、取り上げるのも容易だ。奈多の宮の次男坊でしかなかった民部が、妹の伝手で入り込むのもまた容易というワケだ」
「は、はあ」
妹が主君の正室、というのは強いのだろう。
「そうしないためにも、ワシのように所領は分散していた方が良い」
「な、なるほど」
「まだ確認したいこともあるが、備中、喉が渇いた」
「はっ」
井戸に向かい廊下を進む備中。主人が解説した田原常陸の運命を悲しみながらも、鑑連が放つ生気、迸りに当てられて、体温の上昇を感じていた。
「殿は大事を自分に相談してくれる」
思い直せば、これは認められているという事だろう。石宗や見知らぬ若造の前で恥を晒した後ということもあり、備中は喜びとともに、重い釣瓶を引き上げるのであった。