第104衝 影操の鑑連
国家大友と毛利家が争ってから何度目かの春がやってきた。戸次邸の広間にて、備中と十時が庭を眺めている。
「臼杵の春は美しいですね」
「そうねえ。だが春が過ぎれば毎年の如く、出兵の季節。だから春を思うと腕が鳴るよ。安芸勢と戦いつつ向かえた春、何回目だっけ」
「永禄二年の夏頃からですから……」
「もう五回目か。長いなあ。あの応仁の大乱って何年間戦ったんだっけ」
「さあ……十年位じゃないですか」
「和睦が失敗すれば、それに並ぶな」
「十時様はその方がよろしいので」
「そうは言わないけど。でも活躍の場は増えるよな。安芸勢との戦いで、私もかなり裕福になれた。備中、お前だってそうだろう」
「い、いえ。私は戦場での武勲には恵まれていないので……余り変わりません」
「事務方はそんなもんか。機会があったら、殿に聞いてみるよ」
「な、なにをですか」
「加増」
「いや、そんな。あとが怖いですし」
「はは、備中だとは知られないように聞くさ」
広間に幹部連が集まってくる。今回一同に緊張感は見られない。
「備中、殿は?」
「明朝に臼杵城へ向かわれました」
「珍しくそなたを連れていないのだな」
「はっ、吉岡様へのご報告のみ、と言う事でして。常よりは早く戻られるということです」
「しかし門司城の件、先程聞いたが……まさか統制の緩みから出た略奪行だったとは」
「ふん、統制がなっていないとは。毛利元就も不甲斐ないな」
これは戸次弟の嗤いだが、一同似たような感想は持っていた。ここまで安芸勢を強力に牽引してきた毛利元就も衰えてきたのではないか、と。自然に、話題が和睦の話に移る。
「香春岳城の破却は進んでいるらしいが、本当か?」
「はい。田原常陸様の指揮により順調だという事です」
「そうか、では松山城も近いうちに戻ってくるな」
「豊後と安芸の和睦の形が成りつつあります。これも将軍様の御権威の賜物ですね」
「そうだな」
うんうん頷く叔父に対して、戸次弟が毒を吐いた。
「ここで成果を見せねば、吉岡様は危ないでしょうから、あのお方でも必死にならざるを得ないのでは」
口は禍の元であるからして、誰も追随して頷くことは無かったが、実際そういった事はあるのだろう、と備中には思えた。
香春岳城の破却が決まるまで、老中衆は何度か寄合を持ち、幾度か備中も同席を命じられたが、その度に主人鑑連の発言力の高さが目立ち、転じて吉岡のそれは説得力を失いつつあるようであった。
「今、吉岡様は殿の名声の陰で和睦交渉の実務を許されている、と言えるのかもしれません」
「……」
「……」
なかなか不遜な発言をしてしまった。一目置かれるようになってもやっぱり生来の気弱は変わらない備中、すぐに戸次叔父に詫びるが、
「撤回するな備中。そなたの言う通りだ。そもそも吉岡様はこれまで悪事を担い過ぎたのだ。戦場で命を危険に晒すこともなしに」
「は、ははっ」
「門司でもそうだった。前線に出てきても代理人で吉弘様を立てていた。退却時は田原常陸介様を囮にした。まこと卑劣なり」
「鑑方」
さすがに行き過ぎである、と戸次叔父が嗜める。が、
「常に最前線にいた我ら戸次家の者達は、皆同じ考えだ。だから口に出さなくてもいい」
「はっ」
見るところ、最近、戸次叔父が丸くなってきている。前は鼻にかけたところもないでは無かったが、甥鑑連の補佐役に徹してきて人格が陶冶されたのだろうか。嫌味を言われた過去を懐かしんでうんうん独り頷いていると、他の幹部連に怪しまれる備中であった。
「……」
そうだ。戸次叔父はもう七十代手前のはず。丸くなってきて当然なのだろう。鑑連だって五十代に突入したのだから。
ふとそう思い周りを見渡す。戸次弟は四十代後半、十時は三十代半ば、この場にいない由布や安東も同じくらいだろう。そして自身も三十代に突入していた。
この三十代で将来へ繋がる何事を為す事ができるだろうか。主人鑑連は、老中第二位に、そして今や軍事部門の最高権力者になっている。
やはり大したものだ。偉大な主人を持つ事は、一面では間違いなく幸せである、と備中安穏の上にあぐらをかく喜びを堪能してみせた。
香春岳城の破却が完了した頃、松山城から安芸勢が撤退を開始した、という報告が臼杵に入った。住民達はみな戦の終わりを期待して、大いに喜び合ったという。
戸次邸を歩む備中、近習衆の仕事の件で内田を探す。広間では、これで今年の出兵はなさそうだ、と戸次叔父と戸次弟がホッとした表情で話し合っている。
「松山城の杉一族は罰せられずに済む、という話でしたが、安芸勢とともに去ったらしいですね。新しい城主には誰がなるのでしょう」
「田原常陸介様のご配下らしい」
「ほう、ここまで勢力下に納められるという訳ですか。我ら戸次家にとって、強力な競争相手ではないですか」
「不安定なこの豊前を抑えるには相当な腕力が必要だ。田原常陸介様以外、適任者はいないさ」
「海がありますからなあ。我らも水軍衆が欲しいですね」
廊下を進む備中に十時曰く、
「由布様も安東も帰国を始めたらしい」
「皆さまご無事で、よろしゅうございました」
「うんうん」
主人鑑連の部屋の前で内田を見つけ出した備中が話しかけると、
「うわっ」
「おわっ」
「なんだ、お前か」
「な、なんだよ」
「うるさい。ふふん備中、お前の時代も終わりだ」
「な、何かしでかしたかな」
「違うよ、私は殿から重要な任務を頂いたのだ」
「ええっ、どんなの?」
「極秘だ」
「……」
「秘密だ」
「同僚同士、秘密は良くないよ……」
「ふっふっふっ、まあ指を咥えて見ていることだ。私はしばらく臼杵を離れる」
「ええっ、仕事の相談があるんだけど」
「ダメだ。お前の権限で適当に始末しとけ」
内田は微妙に鑑連の振る舞いをマネて去った。あいつ、何処へ行くのかな、と独り言ちた備中だが、すぐに同僚の事は忘れた。戸次鑑連は、今や老中二位、それも計り知れない潜在的な権利を持つに至った。その近習となれば、めまぐるしい多忙な日常が待ち構えているのだ。
鑑連の部屋へ入ると、腕を組み何やら熟考する主人が。野心と情熱が溢れており、備中は思わず瞠目する。我が主人はまだ、奔りを止めてはいない、と胸にときめきを覚えると同時に動悸が激しくなるのであった。




