ジークの正体
湖の畔のベンチに座り、二人は黙って湖の水面を眺めていた。長い沈黙が続き、気まずい空気に何か言わなければとディアナは口を開く。
「あ……そう言えばジーク様は今日どうして図書室に来なかったんですか?」
軽い話題をと思い、何気なく聞いてみる。しかしジークは黙ったまま何も答えない。
「お仕事だったんですか?」
「あー、いや、仕事は午後からなんだ。……ディーン、お前に聞きたいんだけど……よ、変な事聞くけど、悪気は無いんだ、そこは理解して欲しい」
「何ですか?」
ジークに向い合うように座り直し体を向けると、ジークも同じく対面するように座った。
そして何も言わず徐にディアナの胸を触った。何度も。
ディアナは予想外の事に何のリアクションもできず、呆然と自分の胸を触る彼の大きな手を見ていた。
「うん、やっぱり男だな。華奢だと思ったが存外鍛えているな。立派な胸筋だ」
「胸筋? い、いったい何を確認したかったんですか」
布越しとはいえ何度も撫でる様に乙女の胸を触られて、ディアナは動揺を隠せない。大体、聞きたい事があると言った相手が触ってくるとは思わないだろう。
「……昨日の夢に、お前が出て来た。夢の中のディーンは女だった。正直、この夢覚めるなって思うくらい可愛くて、夢だからって色んなを事してしまった。さっきお前に口づけしたとき、夢の内容を思い出して夢中になった。ただ現実のお前の方が、ちょっと……かなり良くて。いや、そうじゃなくて、朝行けなかったのは、お前への罪悪感で顔を合わす事が出来なかったからだ。俺が約束通り行っていれば、あんな目に遭わずに済んだかも知れないよな。何か変なんだよ。お前の事は男だって頭ではわかってるつもりなのに、心のどっかで女かもしれないって期待してるみたいで。これ聞いて俺の事、気持ち悪いと思ったか?」
本能で女だと気付いているくせに、私の事を信じようとしてくれているのね。
「気持ち悪くありませんよ。でも正直に話し過ぎじゃないですか?」
「本当の事言わないと、モヤモヤしそうだったからな。本当に夢の中のディーンは可愛くて、華奢なのに出るとこ出て、思い出すだけでヤバイ」
「もう一度殴りましょうか?」
今度は腹に一発、手加減したが気を抜いていたジークには結構効いたらしい。
「……ディーン、腹減ったな。飯食いに行くか?」
「奢ってくれますか?」
「仕方ないから奢ってやる。あ、やっぱり止めだ。俺が買ってくるからお前はここで待ってろ、また迷子になられちゃ面倒だからな」
ジークは笑って城下町へと走って行った。ディアナはその隙に塔からお茶を持って来ることにした。
塔ではシーラがまったりお茶を飲んでいた。
「まぁ、お帰りなさいませ。今、昼食の用意をしますね」
「あ、いらないわ。水筒にお茶を貰いに来ただけだから」
「ディアナ様、また殿方とご一緒ですか? 相手の方はどこの何と言う御方かご存知でお付き合いしているのでしょうね?」
「……ジークという騎士の制服を着た人よ」
「ジーク? 騎士でジーク…………まさか、ジークフリート・ローゼンバーグ公爵令息? 鳶色の髪で、瞳はヘーゼルの……?」
シーラは情報通だ。貴族の顔と名前は一通り覚えている。しかし、その表情はあまり歓迎できる相手ではない事を表していた。
「どうしたのシーラ? 怖い顔して」
「その方とのお付き合いは、考えた方が良いと思います」
「え?」
「ローゼンバーグ公爵は、この国の宰相です。そのご次男であるジークフリート様はアデルハイト様の結婚相手候補に入っております。国王様の希望ではジークフリート様を夫に据えたいとの事で、毎朝朝食の席をご一緒されています。午前中はアデルハイト様と過ごし、お二人の仲も良好で婚約も間近と言われております」
「嘘よ! だって全然仲良くなんて無かったわ! それに、子供が出来たらその人と結婚するんじゃないの?」
ディアナは先ほど見た二人のやり取りを思い出す。アデルハイトは彼を蔑みの目で見ていた。ジークもまた同じ。互いに嫌い合っている様にしか見えなかった。
「ディアナ様、ジーク様からお話を伺っていたのですか? でもおかしいですね、まるでその目で見て来た様な言い方ですよ?」
「……今日、図書室で本を探していたら、アデルハイトが来たの。私を少年だと信じて、私室へ連れて行かれたわ。その時ジーク様が助けに来てくれたの。二人は仲なんて良くなかったわ」
シーラは言葉も出ず、口をパクパク動かしていた。ジークの事よりも、アデルハイトと対面してしまった事に驚愕した。呪いの件は全て嘘であるとわかっても、それを知っているのはディアナと自分だけだ。王妃とは中々二人になる機会が持てず、話しそびれている。今だこの国の呪いの象徴とされる存在なのだ、根回しもせず存在が明るみに出れば、命は無いだろう。
「では、あの怪しげな部屋にお入りになったのですね。体は大丈夫ですか? おかしな香を焚いていたでしょう」
「体は大丈夫……だけど、良く知っているのね」
「王妃様が散々愚痴を言っておりますからね。私も王妃様に付添って入った事がございますし。最近はアデル様の乱れた生活を正そうと必死になっておいでですから。そうそう、その香には催淫効果があるそうで、つまり……淫らな気分にさせられるのです。ディアナ様に影響が無くて本当に良かったです」
「はは……」
効果はあった。ディアナにも、ジークにも。おかしな気分になったのは全てあの香のせいだと分かり、思わず引き攣った笑いを見せる。
ジークが悪かったわけでは無い。これで気まずさからも開放されるとディアナは思った。
「図書室へは、もう行かない方が良いですね。また次があっては大変です。ジーク様とも、もう会わない方が良いと思いますよ。彼がアデルハイト様の伴侶となられたら、辛い思いをなさるのはディアナ様ですから」
「だから、子供が出来た相手と結婚するのでしょ? ジークは相手にする気が無いみたいだもの、子供は出来ないわ」
「結婚相手と子供の父親は別でございますよ。アデル様は夫の他にたくさんの愛人を持つ事になります。子供が出来るのを待っていては、いつまでも結婚出来ない事になってしまいますからね」
ディアナは呆然と立ち尽くす。結婚相手候補の一人というだけで、漠然とジークは現段階で除外されていると思っていた。当人達の気持ちは別として、国王が望めば二人は夫婦となってしまう。
何とも言えない焦りにも似た気持ちがディアナを支配する。
「ディアナ様、ジーク様をどこかで待たせているのではないですか? 今日の所は行って差し上げた方が良いでしょうね」
シーラは水筒に冷たいお茶をいれ、カップを二つ差し出した。
ディアナは肩を落とし、ジークの待つベンチへ向った。
「ディーン、遅かったな。今日は別なのを買って来たぞ。お前が食べやすそうな小ぶりなのを選んできた。これならお前でも食えるだろ?」
ジークは昨日の様な大きなサンドイッチではなく、2口ほどで食べられる小さくカットされた物を数種類買って来ていた。
テーブルの上には包み紙を開いただけの簡易皿に、綺麗に並べられたサンドイッチがある。
「美味しそう……」
ディアナはカップにお茶を注ぎ、ジークに渡した。先ほどシーラが言っていた事を思い出し、無意識にジークを見つめてしまう。
「ん? どうした? もしかして、さっき味見したのばれたか?」
ジークは口元を手で拭い、確認する。
「僕を待たずにつまみ食いしたんですか?」
「一個だけだって。ほら、座って食おう。腹減ったよ」
ディアナの口にサンドイッチを一つ押し込んで、ジークはパクパク食べていく。彼にとっては一口サイズだ。
「うん、色んな種類あると飽きなくて良いな? ここのはパンもやわらかくて、具の野菜も新鮮だ。次もこれにしよう」
「ジークフリート様……」
「何だよ改まって。お前も一緒に選びたかったのか?」
「いえ、美味しいですね。僕はこれが気に入りました。ハムときゅーりのやつ。ハムに塗られたソースが良いです」
ディアナにはもう味なんて殆ど分からなかった。
頭の中ではシーラとの会話が何度も繰り返し思い出されていた。試しにジークフリートと呼んでみたら、あっさり認められてしまった。まだ出会って間もないが、離れがたい思いにどうして良いかわからず、シーラには内緒で、自分が女とばれるまでの間はディーンとして会う事に決めた。