(8)
俵藤さんの家は長い階段を登った先に、長い塀に囲われるようにしてあった。
「ここです、私の家は」
入り口から入ると、なるほどそれは綺麗なお庭であった。
広すぎお庭を綺麗にまとめ上げていた。
「綺麗なお庭ですね」
「ええ、後楽園を作った作庭家の方が設計してくれたらしくて」
「なるほど」
「しかし私の見たお庭とは違いますよ」
「ええ、それは家の裏側ですので」
そう言って彼はひとりで歩いて行った。私は彼について行くと、そこに広がっているのは、確かに私が夢に見たお庭であった。
しかしそれは随分荒れ果てていた。生臭い匂いが鼻に突いた。しばらくして、その匂いの原因が、池の横に落ちて干からびた鯉の死骸のせいであると気がついた。
「これは?」
「雷獣にやられました」
「なるほど」
「しかし彼は井戸から逃げたのではないですか?」
「夜に戻って来たのです。そうして閉じ込められていた腹いせか、お庭を荒らしました」
「家の方々に被害はなかったのですか?」
「そりゃもう、雷獣に噛まれたら大変ですから、閉めきってましたよ」
私はぶらぶらとお庭を歩いた。ぬかるんだ土が私の靴を濡らした。このお庭はいっそう雨が激しい様に思われた。池の水はすでに溢れだしそうであった。
「それじゃあ、どうか頼みますよ」
ふいに俵藤さんが言った。
私はどうして井戸の中にいた。真っ暗闇の中、どうどうという音が反響したように、私を包むように、襲うように聞こえてきた。
用水路のいっぽん下の通路を私は泳いでいた。
こちらの水の流れは、用水路に比べて随分静かで、あの濁った水に比べると、清らかで、ときおり口に含むと柔らかかった。
不思議と息は出来る。上に流れる用水路がどうどうとうるさい。私はその音から逃れるようにすいすいと泳いだ。
時に用水路に抜ける道があった。そこではとびきりどうどうと云う音が聞こえる。そこを抜け出して雷獣は鯉を齧ったのであろう。しかしそうすると、まだこの地下水路にいるのか、あるいはもう用水路から町に抜けだしたのではないかと思った。
「そういうことはありません」
ふいに声がして振り向くと、金魚が一匹、並走している。もぐもぐと口を動かして、皺くちゃの顔はいつかのお婆さんに似ていた。
「やつはまだここにいますよ」
金魚が続けて云った。
「しかしどうして逃げ出さないのでしょうか?」
「それは夢ですから」
「これはやはり夢なのですか?」
「ええ」
「では私の思い通りに進むのですか?」
「あなたの夢でしたらそうでしょうが。今ここは彼の夢の中ですよ」
「彼?」
「ええ、俵藤さんですよ」
「なるほど」
私たちはそれから黙って泳いだ。小さな小さな金魚は私について来るのなんていとも簡単だ、とでもいうようにくるくると私の周りを回っている。かと思ったら、金魚は私の目の前に小さな体で、立ちふさがった。
「あなたは逃げるべきです」
「どうして?」
「泉さんの友だちだからです」
「あなたはやっぱり……」
「そんなことはどうでもいいのですが、あなたは逃げるべきなのです」
金魚はそう繰り返した。
ふいに用水路からどうどうと大量の水が流れ込んできた。
私たちは流された。耳元で騒がしいほど、水が叫んでいる。気がつくと、再びは私は静かな水の中を泳いでいて、もう金魚は傍にいなかった。
代わりにけけけと云う鳴き声が聞こえた。驚いてその声の方に視線を向けると、ぷかぷかとケモノが浮かんでいる。なんだかケモノはひどく弱っているように見える。
私は静かに近寄った。やつを捕まえて、早く現実に戻ろうと思った。手を握ると短い毛からぴりぴりと小さく電流が走った。そうしてそのケモノが雷獣であることを改めて思い出した。
しかし奴は抵抗するそぶりも見せなかった。そこで私は彼に抱きついた。小さな電流が再び私の体を走った。それは気持ちいいくらいであった。ケモノは小さくけけけと笑った。そうして私の腕をかぷりと噛んだ。ふいにどうどうという濁流の流れる音が聞こえてきた。振り向くと水がもうすぐ後ろまで迫ってきている。逃げる術もなかった。水に揉まれる中、ケモノは私の腕にはいなかった。流されていくうちに、梅から覚めていくのを感じた。
そこは真っ暗だった。しんしんと何かが響き渡っているようで、何も聞こえない。薄っすらと涼しかった。立ち上がると、眩暈がした。仕方なしに腕を使って、這いずるように歩いた。
「あなたは騙されたのですよ」
誰かが言った。暗さに目が慣れて来ると、隙間から入る太陽の光で、うっすらと見えるようになってきた。
私のおかげで晴れた。そう思うとなんだかこの町のヒーローになった気がした。
「ええ、悲劇のヒーロですね」
誰かが言った。
慣れた目で辺りを見渡すと、小さな鼠がいた。その小さな獣に私は驚いて飛びあがった。
「雷獣が死ぬとき、この町では誰かが生贄にならないといけません。それを俵藤さんが選ぶのです」
鼠が近づいてきて言う。
「あなたは選ばれたのですよ、そして俵藤さんが恐れられている理由も分かったでしょう」
私は扉であろう場所まで、這いずって行った。
そうして扉を開けるように叫んだ。
何処かでけけけと雷獣が鳴く声がしたように感じられた。
驚いて振り向くと、鼠が歯の具合でも悪いのか、もぐもぐと口を動かしている。
(了)