(5)
用水路を見ていると、知らない老人に話しかかられた。
「何かいましたか?」
「いえ」
男は黒い大きな傘をさして、薄手のシャツを着ている。背筋はぴんと伸びているが、いくらか痩せすぎで、それは見ていて痛々しい程であった。
「探し物をしているのですが、もし用水路で何か見つけたら教えてくれませんか」
「ええ、良いですけれど、どんなもので?」
「……ケモノですね」
「……ケモノ?」
「ええ、飼っていたケモノが逃げまして」
「イタチとかですか?」
「いえ、雷獣なのです。私のお庭から用水路に泳いで行ってしまったようで」
「なるほど、もし見つけたらご報告しますね」
「どうもありがとう」
去っていく男の背中を見ながら私は、呆けた老人ほどかわいそうなものはないと考えた。
用水路の水かさは日に日に上昇している。
編集者が久しぶりに訪ねて来た。
「しかしいつ来てもここは雨ばかりですね、たしか晴れの国とか云われてませんでしたか?」
「何だか今年は妙らしいですね」
彼は私に新作は書かないのかと何度も聞いた。随分しつこいので、今日から書くと云ったら満足そうに帰った。
その夜、『雨鯉』という作品を少し書く。
用水路から鯉がほとんどいなくなったと云う。時に後楽園の方から鯉が用水路に流れてくることもあったが、その姿ももう見えなくなった。後楽園の方の緋鯉の数も減少しているらしい。
大学からの帰り道、ふと見るともう道路と用水路の見分けがつかないほど、水かさが増している。道路に腹を齧られた鯉が打ち上げられている。その歯跡は、何かケモノに齧られたようで、ぞっとした。
帰り道、行きつけであった喫茶店の前を通ると、店主に引き留められ、中へと引きずり込まれた。私は風が吹いてもびくともしない洗濯板が、何故か閉店中になっているのを目にした。
「お店を閉めているんですか?」
「貸切だよ。俵藤さんが君と話をしたいらしい」
「俵藤さん?」
「知らないのかい? この地の大地主だよ」
「ああ、思い出しましたが、面識もありませんよ」
「いいから、いいから、呼ばれているんだから行きなさいよ」
と連れて行かれた卓子にいたのは、いつかの呆けた老人であった。彼は椅子に姿勢正しく座り込み、私の出した『夢日記』を読んでいた。
「この本は君の夢かい?」
老人は唐突に云った。店主はいつの間にか消えていた。
「ええ、まあ」
「随分、ユニークな夢をこうも毎日見られるものですね」
彼はそう云って笑った。
喫茶店の中は、そこが喫茶店とは思えないほど何の音もしなかった。しんとした部屋は妙に寒々しくて、鳥肌が立つのを感じた。
細くて今にも折れてしまいそうな俵藤さんには不思議な威圧感があった。それは前回は感じられなかったものであった。
「君は今年からこの地に引っ越してきたのですか?」
「ええ」
「ああ、どうぞ座ってください」
私はその言葉を聞いて初めて自分が立っていることに気がついた。それほどまでに不思議な世界に引き込まれていた。
どこかで、子どもの泣き声がする。静かにしなさいという大人の喧しい声がする。そうしてどうどうと流れる水の音が絶えず聞こえてくる。俵藤さんは目を閉じてそれを聞いているようであった。
「すこし昔語りをしてもいいですか?」
「ええ」
店主が珈琲を二つ持ってきた。ひとつは私に。もう一つは俵藤さんに。私は彼に珈琲を渡す店主の手が震えているのを見た。店主は静かに礼をすると、静かに消えた。
「これはこの地の昔語りでもあり、私の家系の昔語りでもあります」
どうどうという用水路の流れる音は留まることを知らない。