4話
俺は生来「見える」人間だった。
霊感が強い、とか言う例のアレだ。だが、何やら俺の場合「見える」度合いが明らかに常軌を逸している。背後にぼんやり見えるとか、この部屋に気配がするとか、取り憑かれているとか、そういった「見える」ではないのだ。
もっとはっきりと、くっきりと、俺には死んだらしい者達の姿が見えている。それはまるでそう、生きている人間と区別がつかないほどに。
俺自身がそんな迷惑千万な能力を備えていることは、幼い頃に気が付いていた。幼い頃の俺が指差す先の人間が他の誰も見えていなかったり、壁をすり抜ける奇妙な人間をたまに見かけたり、俺はだんだんとこの世界に二種類の人間がいることを知った。そして今のところ俺だけが、その二種類とも「見える」ことを、数多の小さな怪奇な経験から思い知った。そして、俺と同じ「見える」人間が俺の身近に居たことも、物心つく頃にはとっくに知っていた。
もっとも、一ヶ月前の出来事である死者の首筋に咬みつく、なんていったいろんな意味で激しい行為が順調に進んだかと言えば決してそんなことはなく、運命的だ何だと言ってる割にその運命はわざとらしいほど残酷で。とにかく、紆余曲折といくつかの失態により、俺はこうして記憶を半分ほど失った。そうしてあの地獄のような物語は収束し、そして終息したのだ。
しかし記憶喪失、と言っても半分ほどだとそれほど劇的に穴だらけの思い出にはならなかった。
当然それには運も左右したのだろうが。
考えてもみて欲しい。人間、思い出せる記憶などほんの一部分であることを。想起できる記憶はあくまで『思い出せる記憶』であり、『覚えている記憶』ではないのだ。
例えば小学校の頃の友人のフルネームを全員覚えているかと言えば案外そうでもない人だとする。言われれば思い出すのだが、自ら思い出すにはただうーんと唸って考えてもなかなか閃かないだろう。つまり覚えているが思い出せない、と言うことになる。
俺が失った大半の記憶はそんな記憶だ。いや、第一人間の記憶の大半がそんな曖昧な記憶、思い出せないが覚えているという少し変わった記憶なのだろうが。
自覚して忘却してしまった記憶ももちろんある。朝日奈の名前がその最たるものだ。
とは言っても、知らない話が出れば適当に話を合わせればある程度補完できるし、その中から残った記憶と照らし合わせ事実と結合させることもできる。正直不自由はさほどないのである。少なくとも、今までは。
――と御託をざっと並べてみたものの、どれほど理屈をこねようと、きっと俺は運が良かったのだ。そう思うのが最も楽に受け入れられる。納得できる。
「どうした水瀬。おい、水瀬薫? 氷の彫刻みたいに動きがないぞ。お前は札幌雪祭りの雪像か。もしくは幽霊でも見たか」
……何で例えがそんな具体的なんだよ。しかもとんでもなく季節外れ。俺が冷たい人間なのはもうわかったから。
「強いて選ぶなら後者だ。今見てるんだから」
「む、情緒不安定かつ意識朦朧状態から帰還直後の適切な突っ込みか。やるじゃないか、見直したぞ」
「俺は別にそんな危うい状態に陥ってはいない」
興奮した心臓を鎮めるために、俺は数度深呼吸をする。
突っ込ませるような台詞を言われちゃたまんない。こちとら気を落ち着かせるだけでも一苦労なのだ。下手に突っ込ませて話を長引かせないでほしい。
それにしても、過去を思い出すことは、やはりある程度の苦痛は伴った。しかし思ったより動悸は浅いし、動揺も小さい。とうとう受け入れようとしてきたか。一ヶ月間、事あるごとに思い出しては辟易し、鬱々と感じていたものだが、いよいよ慣れてきたか。
「で、どうにかしてくれんのかよ」
「勿論だ。控えい控えい、私をどなたと心得る」
突っ込みどころが多すぎる。
「よろしい。その悩み――いや、悩みではないか――まあ何でも良い、悩みみたいなもんだろう、とにかく、承った。死神と呼ばれる私、土御門由未が責任を持って全力を以て、君の悩みに葬送の唄を奏でよう」
いつかと似たような言い回しで、土御門はそう言った。前回との相違点と言えば、その笑みがとても似つかわしくない清爽なそれでなく――どこか作り直したような、ぎこちない笑みだったこと。
何か裏でもあるのだろうか。そう思って続く言葉を待っていると、
「何だ? まだ何か用なのか? ああ、もう少し女子中学生を見続けたいのか。すまないな、気が利かなくて……さあ、あとは煮るなり焼くなり愛でるなり、好きなようにしたらいいよ。私は逆らわない。依頼は君の悩みの解決だからね」
「そんな犯罪的な悩みがあるか」
「ところで今の君の精神状態を知りたい」
「どんな話の切り返しだよ」
「まだ居続けるつもりなら尋ねようと思っていた問いかけだよ。何も不自然じゃあない」
しまった、話が長引くか。
そんな不安もすでに後の祭りだったが、土御門にしては珍しく、語数の少ない発言だった。
「君、生きていて苦しくはないか?」
「全く」
「死んでいて辛くはないか?」
「全く」
ふむ、と土御門。顎に手を添え、再び思案中のようだ。
しかし、唐突に何を言い出すかと思えば。俺が文字通りの半死半生状態にある経過の観察の一環か?
確かに俺は本来の意味でなく文字通りの半死半生故、土御門や朝日奈のような死者の一面も持ち合わせている。
今朝の朝日奈のように扉や壁をすり抜けるのはさすがに不可能だが、修行如何で可能性はゼロではないらしい。いや、そんな倫理観を崩壊させかねない能力を鍛錬しようとは思わないが。
もっとも死者の一面、などとは言え、俺程度の死では何も超能力のようなたいした力ではない。死者も見える俺からすれば、目の前の人物が身体をもらった死者なのか生者なのかの区別が何となく直感的にわかるぐらいしか、日常に支障はきたさない。それも支障というのかどうか微妙なところだが。
あとは――俺の望み求める日常に一切関係ない。もっと非日常的で、非現実的で、非道な力。俺の希求する平凡な日々とはまるで別の方向の、むしろ別の次元の能力だと言ってもいい――。
土御門の思案タイムは今回は短かったようで、何やら神妙な面持ちで重々しそうに口を開いた――が、まるで発する言葉を選ぶかのような間が空き、その開いた口から声が出たのは、ほんの一瞬後だった。
「水瀬薫、君、生き返りたいか?」
「……は?」
「……いや、何でもない忘れてくれ。忘れてくれ」
「そんな深刻っぽい台詞、忘れられるはずが……」
「忘れてくれ忘れてくれ忘れてくれ」
「てか半分しか死んでねぇのに生き返るって……」
「忘れてくれ忘れてくれ忘れてくれ」
「まるでまたあの惨劇を繰り返すような……」
「忘れてくれ忘れてくれ忘れてくれ」
うざったい。
「忘れてくれ忘れてくれ忘れてくれ」
「……ちっ、わかったよ、忘れてやるからもう黙れ」
念仏のように唱えていた土御門の呟きがそこでようやく止まった。死者が念仏を唱えるよう、という比喩もどうかと思うが。
「おお、忘れたか。それは好都合だ。何せ今の発言はまるで私が君ごときに情が移ったかのようだったからね。今言ったばかりのことをすでに忘れてしまったような脳みそに期待はできないが、私の掲げるこの大前提を忘れてもらっちゃ困る。私は君が大嫌いだということを。決して私が同情するに値するような人間ではないことを」
「死んでしまえ」
「すでに死んでいるよ」
「さっさと成仏しろ」
「そう、成仏の話だ。おそらく、今回の君が持ってきた話は」
「意味がわからん。帰る」
「そうか、帰り道と夜道には十分気を付けなよ。君はまだ生きてるんだから。半分とは言え」
それ以上俺は何も言い返すことなく、無言で土御門に背を向ける。強制的に会話終了だ。言ってることの半分は与太なのだから、そしてやはり話が長引いてしまった以上、こうして居続ける理由は皆無。
朝日奈は突然退出しようとした俺と、未だふんぞり返るように鎮座する土御門とを慌てたように何度も見やる。そりゃこんなタイミングでぶつ切りにするのは第三者からすれば少々焦るかもしれない。
「何やってんだよ、帰るぞ」
元来土御門にはご挨拶もお愛想も必要ないのだ。こちらから頼み事をしに来て図々しいだろうが、こうも精神的に疲弊するほど言われる筋合いは生憎持ち合わせていない――彼女が俺のことを本気で毛嫌いしていても、だ。
朝日奈が後ろをついて来ているかも確認せず、俺は扉を開け部屋の敷居を跨ぐ。
「忘れてはいけない。君は死を覚悟し受け入れたかもしれないが、完全には死んでいないことを」
そんな捨て台詞を背に受け、俺は素っ気も愛想もない荒々しい音を立てて扉を閉めた。
廊下の窓から差し込む日の光が、痛いほど目に染みた。異次元空間で一波乱を経て無事日常へと帰還した主人公のような気分だった。
その表現は、案外そのままの通りなんじゃないか、と。そんな身も蓋もないことを思うのだった。