2話
死者と出会ったのは先月の、梅雨真っ只中には貴重な快晴の日だった。久々に洗濯物を大々的に干せるなという主婦的思考がこんな俺にも芽生え始め、生活スタイルの影響力をまざまざと感じていた頃だ。
死者、と言っても非日常的やホラー的な邂逅ではなく、実に現実的なそれだった。ばったりとある驚愕するような場面に鉢合わせ、と言うわけでも、別に俺に強力な霊感があってのことでもない。
その出会いは、むしろ邂逅などと言う偶然ではなく。
「そろそろ来ると思っていたよ。さあ、私が相談相手になってやろう。水瀬薫君?」
かと言って必然でもなかったような。
とにかく俺は、ちょっぴりある事情に悩みと頭を抱えていたところで、どこからか風の便りで噂を耳にしただけだ。
「うん? その顔はどうして初対面なのに名前を知っているのかという驚きか? 恐怖か? それとも、ホラー研究サークルの端くれで活動中の、『死神』などという馬鹿げたネーミングを掲げる今絶賛巷で噂の人物が、女子中学生のような風貌であったことによる戸惑いか? 緊張か? ああ、そうか、萌えているのか」
大学の数ある建物の中で最も古い校舎である、三階建ての旧館三号棟。その最上階、最も奥の寂れた一室。今は講義で使われることなく、旧館三号棟は同好会やサークルの部室のような扱いとして明け渡されていた。
そこに。電灯も付けず光もろくに差し込まない、薄暗く寂れた簡素な部屋に、彼女は。『死神』は。
古びた校長室にあるような大きな木の机に組んだ足を乗せ、今にも壊れてしまいそうなほど軋む椅子に小さな体躯を押し込んで精一杯ふんぞり返らせ、圧倒的な異質を纏い、まるで俺の事情全てを見透かしているかのような様子で――そこに居た。
「私は『この姿』がお気に入りでね。何せ誰が相手でも警戒心を抱かせない、素晴らしい人種だからさ……」
今のところ、俺が不信感と警戒心しか抱いていないことは言わない方が良いのだろうか。
薄汚れた暗い服装、くすんだ肌の色、ぼさぼさな割に艶やかな黒の長い髪、特徴の薄い相貌、猫のように研ぎ澄まされた鋭い瞳。感情を失ったような力無い表情は、部屋の不穏な雰囲気と見事に調和していた。
まるで彼女自身も含めてこの一部屋が成り立っているような、そんな絶妙が、そんな異質が、そんな同調が、そこには在った。
「いくら君が欲情しようとも、このフォルムは変えないから、それは念頭に置いといてもらいたい。ああ、女子中学生の制服ぐらいなら着てあげてもいいよ。君がそう望むなら」
「俺の望みは」
痺れを切らし、とうとうこちらから切り出した。このまま黙っていれば、俺の性癖が明後日の方向へ飛び出してしまいそうだったから……だけではないが。そもそも本題は別にある。
「悩みの解決だ」
突っ込みどころは多々あったが、別にどうだって良かった。彼女が俺の何を知っていようが、俺の悩みはそんなことではないし、いちいち触れることもない。
だって彼女は『死神』なのだから。
「ふむ、親でも友人でも、警察や先生方でもなく、それは本当に、『死神』に頼るに値する悩みなのかな。こんな不確かで不思議で不審な存在に相談しても、問題ない話なのかな」
『死神』の噂とは、それこそ迷信的で、伝説的で、それ故どうしようもないほど懐疑的で信憑性に欠けるものだった。
が、俺がこうして廃墟のような校舎を伝って、友人から友人への噂話を伝ってここに辿り着いた相応の理由――それは、眼前の少女の存在よりもよっぽど異常で、かつ非日常的であった。
「で? その悩みとは何なんだい」
俺はそこで初めて、部屋の中に入った。これまでは滑りの悪い木の扉を開けたその場所で動かず話していたのだ。何の気なしに一歩を踏み出してはならないような、部屋と廊下との敷居を安易に踏み越えてはならないような、そんな思いに憚られて。
何十年も使われていないわけではないのに、踏み込んだ足が軋ませる音から察するに相当年季が入っていそうだった。廊下はそんなことはなかったのだが、この部屋だけ。どこまでも異質であるかのように。ここだけ異次元の世界であるかのように。
俺は長机を挟んで、少女と対峙する位置についた。幼い女の校長先生と対話しているようだ。手を伸ばせば、彼女の無造作な長い黒髪なら届きそうな、そんな距離。
俺は特に何の感情も込めず、とても自分の悩みを打ち明ける様子とは思えないような、さながら業務連絡のように。
「最近よく、『俺』を見かけるんだ」
刹那――少女の口の端が、僅かに吊り上がった。まるでそれが待ちわびていた言葉だったように。
返事は、一瞬後だった。
「よし、水瀬薫。その悩み、承った。『何でも誰でもお悩み解決! 最強死神ちゃん』こと私、土御門由未が責任を持って全力を以て、君の悩みに葬送の唄を奏でよう」
まるで柄に合わない清爽な笑みで、決して萌えはしないけど、女子中学生の成りをした彼女は、お悩み解決死神ちゃんは――土御門由未は、俺に握手を求めてきた。
この時の彼女はまるで幽霊のようではなく、どちらかというと仮想生物のような不気味な力を持つ印象があったが、今になって思う。彼女は幽霊らしいが、俺からすれば悪魔か鬼だと。
今になって、つくづく。土御門由未は、容赦も温情も欠片として持ち合わせていない、文字通りの『死神』だったと。
これが偶然的でも必然的でもない、言うなれば運命的な、死神もとい幽霊との出会いだった。