最終話
予定通り、最終話、はじめました。
「それで、急いで逃げて、帰ってきちゃったの?」
母は心底呆れた風だった。
「情けない」
その一言で、ばっさりと切り捨てられた。
確かに情けなくて、今更になって涙が出てくる。
目がぐぐっと熱くなって潤んできて、たぶん、涙ぐんでしまっている。
情けないなんてことは私が一番判っている――何しているのだろう、私は。
でも、本当に驚いたのだ。
怖かったのだ、彼が――まるで、知らない人みたいに見えた。
「そういうとこ、本当にお父さんにそっくり。鉄平さんも、本当にいつまでたっても、うぶな人だったけど。でも、そんなところまで似なくても良かったのに」
と母がぶつぶつ言う。
怒っている。
しかし、父に似たなら、それはそれで仕方ないではないかと思って。
私は自分を慰めることにした。
それはきっと父の責任であり、私の責任ではない。
「なによ、お土産買ってくるの忘れたからって、そんなに怒らなくてもいいじゃん、お母さん」と私は誤魔化して言った。
「そんなことでは怒らないわよ」と母が言う。
「私はね、あんたがいつまでたっても母離れしないから、とても心配して言っているの。ふふん、それにさ、うろたえているけど、あんた、ちゃんと嬉しそうな顔しているじゃないの。私に向かってのろけるの、やめてくれる? なにが『キスされちゃった、どうしよう』よ。こっちは甘くて砂を吐きそうだよ」
「ううう」
顔が、かあっと赤くなるのが自分でも判った。
キスの一つや二つ減るものじゃないし、別にその行為そのものはあまり重要ではない。
重要なのは――キスされたとき、とても胸が高鳴ってしまったことだ。
■
いつも通りの笑みを浮かべて、母が私の部屋に呼びに来たのは、それから少し経ってからのことだった。
「彩夏、お客さん」
私は二階の自分の部屋に閉じこもり、ベッドの上に身を投げ、横たわっていた。
冷静に考えると、逃げてきてしまったのは失敗のように思われた。
拒絶したと思われただろう。
洋一君がショックを受けて、それが走りに影響したりしたらどうしよう――いや、でも、影響しないかな。
よく判らない。
その時になって、初めて気付いた。
私は、あまり、辻洋一という男の人のことを知らない。
彼が練習でトラックを駆ける姿を見かけたり、お店やグラウンドで言葉を交わした事はあるけれど、つまるところ、それだけだ。
辻洋一という人は、どういう人なのだろう?
兄弟は何人いるのだろうか?
寂しがり屋さんだろうか?
好きな季節は何だろうか?
私はそんなことちっとも知らない。
それなのに、彼は私を好きだと言う。
顔を赤らめたり青ざめたりしながら、鬱々と考えにふけっていた。
「誰?」
「誰だと思う?」
「洋一君」
「ビンゴ」
きっと、さっきのことで来たのだろう。
「お待たせしているから、早く来なさい」
「ハイ」
なんとか態勢を立て直し、答える。
いつものように、普通に。
取り繕った微笑を浮かべるぐらい、何でもない。
私は言うほど子供ではないし、なにより、母の娘なのだから。
母に続いて階段を下りて、お店のフロアで所在無げに佇む彼を見つけた。
それでも、ちょっと気まずくて、私より小柄な母の背後に隠れるようにして。
私は私を好きだと言った男と対峙した。
やっぱり、ちょっと怖かった。
おそらく、私の目にその感情が出ていた。
もとより鋭敏な彼がそれを捉えぬはずがなく。
そっと、溜め息をつくと、言った。
「驚かせて、怖がらせて、ごめんなさい」
彼は真摯な表情を浮かべて、続けた。
「でも、彩夏さんが好きな気持ちは、本当ですから」
「うん。私もごめんなさい。逃げたりして」
私も謝った。
あの行為は卑怯だったと思ったから。
あの場で踏みとどまり、彼と話をもう少しするべきだった。
「ええ、僕も驚きました。拒絶されるわ、逃げられるわで、暫くあの場から動けなかった」と彼が苦笑を浮かべる。
「本当にごめんなさい。拒絶したというわけではないの、それだけは信じて欲しいんだ」
「じゃあ」
「でも、気持ちを受け止めたから、すぐに交際しようというわけにもいかないよ。私は貴方のこと、よく知らない。きっと、貴方もそれほど私のことを知っているわけではないと思うんだ」
「彩夏さんは、慎重な方なんですね」
「初めて知った?」
「初めて知りました」
「ほらね、それほど私のことを知らないでしょう」
私はちょっと得意になって、笑う。
彼も柔らかく笑ってくれた。
その笑い方は嫌いじゃなかった。
「僕は、彩夏さんのこと、もっと好きになりましたよ」
私は嬉しくなって、照れくさくなって、困ったように笑った。
「ところで、洋一君」
突然、母が口を挟んできた。
「何ですか、彩子さん」
「うちの彩夏に、惚れたのなんだのと言っているみたいだけど」
母は、いつものように微笑んだ。
「それなら、今度の大会で勝って見せなさい。じゃないと、娘との交際を認めませんから」
母は何を思ったか、偉そうに突然、そんなことを言い出した。
私は驚いた。
「ちょっと、お母さん、いきなり口を出してきたかと思ったら、どうしてそんな無茶なことを言うのよ」と母を咎めた。
思いっきり睨みつける。
「彩夏さんは、僕には無理だと思っているのですね」
洋一君がちょっとよろめきながら、弱弱しくそう言う。
でも、わざとらしい。
たぶん、演技だ。
彼にもそういうお茶目なところがあるなんて、初めて知った。
彼は良いランナーだけど、残念ながら良い役者にはなれないらしい。
「ふふん、愛は障害があった方が燃えるものなのよ」
母はあいかわらずにこにこと笑いながら、そんなことを言った。
「それに、もしもお父さんが生きていたら、きっと、そう言うと思って」
「言わない」
父は、きっと、母みたいにその場の思いつきでものを言わない。
確かに、父が娘の交際を案じてくれるような優しい人なら嬉しいけど。
そんな厳しい条件を言い出すような人じゃない。
と、信じたい。
「言う」
「言わない」
「言う」と母は一歩も引かない。
しようがない人である。
「どちらにしても、僕がやるべき事は判ってますから」
私と母が言い合いしている中に、淡々と割り込んできた彼に驚いた。
いつも内気気味に見えたから、おろおろするかと思ったけど。
意外と、頼りになってくれそうだ。
そういうところ、初めて知った。
もしかしたら、本当の辻洋一という人はこういう人だったのかもしれない。
今まで内気そうに伏目がちだったのだって、もしかして、彼なりに私に対して照れていたからだろうか。
それはさすがに自分に都合良く考えすぎだろうか。
「次の東京マラソンでは、微力を尽くして勝ちにいきます。それで勝てたら、彩子さんには、僕と彩夏さんの結婚を前提とした交際を認めてもらいますので」と彼はきっぱりと言った。
「あら、私に二言はないわよ」
二人のやりとりを聞いて、頭の中を様々な思考と感情が入り乱れた。
とっさに何も言えなくて、私はただ、彼の顔に見入ったのだった。
■
街灯の光はあるものの、日はとうに暮れていて、仄かに暗い道。
店の前で、帰る洋一君を見送ることにした。
「寒いですから、ここまででいいですよ」
「うん」
「また、来てもいいですか?」
「うん」
俯いて、足元を見ていた。
「彩夏さん?」
言わなくちゃ、と思った。
言っておくべきだと。
「あのね、さっき、母が言ったことだけどね。あんなの聞かなくていいから」
「え?」彼は驚いたようだった。「どうして?」
「だって、私は賞品じゃない。私はね、勝ったら付き合うとか付き合わないとか、そういうのは嫌なんだ。 ――交際を認める? 冗談じゃない」
「私は私の意思で、恋人を選ぶよ。私は、私の心のままに、恋人を愛するよ。だから、だからね……」
続く言葉が思いつかなくてごにょごにょと口籠った。
恥ずかしくなって、彼を見上げるようにして、上目遣いで彼の様子を窺った。
彼は、柔らかい微笑を浮かべていた。
急に、右腕を掴まれたかと思うと、引っ張られて、抱き締められた。
それは窮屈な抱擁じゃなかったはずなのに。
なんだか、胸が苦しくて。
彼からは、昔、父に感じたような匂いがした。
「初めて、知りました」
「え?」
「彩夏さんを抱き締めると、気持ち良い」
「バカ」
数秒、そのまま黙っていた。
「私は、勝っても負けても、きっと貴方を好きになると思う」
「もう、本当は好きになってくれているんじゃないかな?」
「まだだもん。まだ駄目だもん」
「そうですか」と彼は言って、ふふっと可笑しそうに笑った。
私も声には出さなかったけど、微笑んでいた。
「また、来ます」
「うん」
交わした視線。
彼の眼は、頷いていたように見えた。
そして、彼は、私に背を向けて歩み去ってゆく。
夜の道は、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていて。
その空間に響くのは、彼のかずかな足音だけ。
今は夜闇が世界を覆っていても、じきに明日はやってくる。
朝になって、光が世界に溢れれば、また新しい一日が始まるのだ。
「ねえ、洋一君」
信じてみようと思った。
彼のことを、信じてみようと思った。
「負けるな、頑張れ」
私の想いを託された彼は黙ったまま手を挙げて、その呼びかけに答えた。
ひとまず、彩夏さんと洋一君のお話は、ここまで。
お楽しみ頂けたならば幸いです。