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第五話

お店の休みの日、気が置けない友人達と久しぶり会ったその帰り道、ちょっとだけグラウンドに立ち寄ってみることにした。


何年も着ているこげ茶色の簡素なコートに、ふわふわの白い毛糸のマフラー巻いて、シンプルなカーディガンとセーターのアンサンブルに、細かい花模様のスカートを着たまま、霜月の寒い風を時折頬に感じながら、そっと勝手知ったるグラウンドのスタンドに入ってみた。


寒い中、必死の形相で走る選手達。練習にかける真摯な情熱が伝わってくる。

掛け声なんかも聞こえてきて、グラウンドの中は賑やかだ。

高まった熱気が、まるでこちらにも伝わって来るようだった。


今日も、グラウンドには、心地良い風が吹いている。

その風がなにより愛しい。


スタンドの端にちょこんと座りながら、練習光景をぼーっと見ていた。

この場所が、この光景がもうすぐなくなるのだとしたら、それはとても寂しい。

嫌だ。


胸の奥からゆっくりと込み上げてくる何か重たいものがあって、少し息苦しさを覚えた。


でも、顔を伏せたりはしない。

ただ、じっと練習光景を見ていた。


「隣、いいですか?」


振り返らなくても、その声の持ち主が誰かなんて知っていた。

なぜなら、練習光景の中に洋一君がいない。

そんなこと、すぐに気付いていた。

「いいよ」と私は答えた。


「それでは」


隣に、彼が腰を下ろしたのが判った。


「練習はいいの?」

「ええ、僕は、今日はお休みです。朝、軽くジョギングをしましたが、それだけ」


疲れが身体に蓄積されないように、選手は数日に一度休養をとる。

どうやら、今日が彼にとってのその日のようだった。


見ると、黒いスニーカーを履き、古びたブルージーンズの上に黒いシャツを羽織って、その上には暖かそうな光沢のあるダウンジャケットを着ていた。


休みの日はジャージかなんかを着て過ごしているものと思っていたけど、そうでもないらしい。

少なくとも、走れる格好ではない。


「そっか」


私は、そんな言葉しか洋一君にかけることができなかった。

「頑張れ」だとか、そんな言葉さえもかけることが躊躇われた。


「今日は、これからお出かけですか?」

「ん? 違うよ。どうして?」

「彩夏さん、お洒落な格好をしているから」


洋一君も、なかなか気の利いたことを言うものだと思った。

別に大して着飾ったつもりもないけれど、服装を褒められたら、私は素直に喜ぶことにしている。


「ありがとう。今日はお店がお休みだからね、知人と会ってきたの。気が置けない相手だけど、あまりみっともない格好はできないし」


「そうですか」と硬い声。

彼の表情がちょっとだけ曇っているように見えた。

いつもより声も少し沈んでいる。


「練習、やっぱり辛いの?」

「え? いえ、そんなことは特にありません。練習は苦しいですけど、でも、勝つ為ですから。そう考えたら、練習だって張り切りすぎてしまって。今日もオーバーワークにならないようにって、無理矢理休みを取らされたようなものです」

「そっか。ごめんね、変なことを訊いて。ちょっと、元気ないみたいだったから」


と私は慌てて取り繕った。


「僕が元気ないように見えたのだとしたら、練習のせいじゃないです」

「そうなの?」


「ええ」と彼が頷く。


「じゃあ、どうして?」

「そんなの、自分で考えてください」


そんな事を言われた。

考えてみた。

判らなかった。


妙な感じの沈黙が二人の間に漂う。


洋一君とはちょっと久しぶりに話すし、この前の夜にはこのグラウンドで失態を見せてしまっていたから。

なんだかちょっと気恥ずかしい。


違う話題を振ってみた。


「今日はねえ、駅の近くに新しくできたお菓子屋さんに行ってきたんだ。私の高校の時のお友達がね、もう可愛い娘さんを産んだお母さんなのにね、甘いお菓子が大好きで。そういう情報に耳聡いの。私を誘ってくれたから、一緒に食べに行ってきたんだよ。ケーキ屋さんなんだけど、店内にはカフェのスペースがあってね。そこで、お店のケーキと紅茶を食べることができるの。とっても美味しかったよ」


「そうなんですか」と彼は、なぜか安心したように、ほっと息をついた。


「私ったら、うっかりしていてね。母にお土産を買ってきてあげれば良かったことに、ついさっき気付いて。ちょっと自己嫌悪」

「それでしたら、今度は彩子さんと一緒に行ってみたらいかがですか?」


洋一君の表情をそっと窺うと、ちょっと彼の表情は明るくなってくれたみたいだ。

なんだかよく判らないが、機嫌は直ったらしい。

……美味しいものが好きなのかな。

とにかく良かったと思った。


並んで座って、練習風景を見ていた。


幸いにも、よく晴れた陽の光が温かくて、寒い思いはしなかった。

風に運ばれて、汗と埃が混じったような匂いがした。


「ねえ、彩夏さん」

「ん?」

「どうして、頑張れ、と言ってくれないのですか?」


唐突に、洋一君がそんなことを言い出した。

脈絡もなく切り出されたけど、今度の東京マラソンのことだとすぐに判った。


だが、私はそのことについてかけるべき言葉を持たないと思っている。

だから、何も言わない。


困ったように微笑むことで、誤魔化そうとした。


「僕の実力では、期待できませんか?」と怒ったように彼がいう。

「そういう風に思った事はないよ」

「じゃあ、どうして言わないんですか?」


少しだけ冷たい声。

わずかに拗ねているような響きも含まれている。


私に侮られているとでも、思っているのだろうか。


私は、彼の強さを疑ったことなどない。

今、練習を見ていても思うけれど、やっぱりこのチームの中では、彼の力が抜きん出ていると思う。

走る姿が全てを物語っている。


誰もがそうだけれど、疲れてくると走るフォームは乱れるものだ。

だが、乱れたフォームで走っていては更に余計に疲れてしまう。

無駄な力の抜けた安定したフォームをできるだけ維持しながら、長い距離をできるだけ早く駆け抜けることこそがマラソンランナーには要求されるのだ。

疲れてだんだんあごが上がり、腰が下がってくるようではもう駄目だ。

美しい姿勢で、安定したリズムで左右の足を動かし、走り続けること。

それがたとえ数十km走った後でも、できなくてはならない。

ゴールに辿り着くまでは。


そういう観点からして、彼がこのチームで一番だ。

間違いなく一番強いランナーだ。


もしかして優勝できるとしたら。

オリンピックの代表に選ばれるとしたら。

彼しかないだろう。

私はそう思っている。

そう信じている。


でも、だからといって、私が彼に期待の言葉をかけることはない。

そんなこと、できない。


「言う資格、ないと思うから」

「本当に、そう思っているんですか?」と彼が眉をひそめ、私を見た。


その黒い瞳に、私の思惑なんて全て見透かされそうだ。


「彩夏さん、このグラウンドがなくなるのは、嫌なのでしょう?」

「うん」と私は力なく答えた。


彼も私の父のことを知っている。

このグラウンドで死んだ父のことを。

私と母がこのグラウンドにかける想いを。


母が話したらしい。

あの母が。

それだけ母は、彼を買っているのだろうか。


ならば、私も素直になるべきなのかもしれない。

ふと、そんなことを思った。


「嫌だよ」


「本当はね、凄く嫌なんだ」


「なくなって欲しくないんだ」


一度、口を開けば、想いがそこから言葉になって、あふれてしまった。


「父のグラウンドなんだ。私が子供の頃からずっと見てきたグラウンドなんだよ」


「子供の頃から、ずっとここの選手の人達がお店に来てくれて、私を可愛がってくれた。優しくしてくれた。今はいなくなってしまったけれど、でもね、私はお店に何度も足を運んでくれたおじさん達のことを、今でもけっこう覚えているよ」


「ここは、大切な場所なんだ、私にとって。いつまでたっても変わらないこの眺めが好き。本当に、子供の頃から何一つ変わらない。今も変わらず存在しているのに、何もかもが懐かしくて……」


一方的に滔々とつづく私の言葉を、彼は黙って聞いてくれた。

隣にそっと座っている。


私は空を見上げた。

呆れるほどに蒼い空を。


「私の想いは、たぶん、強すぎて大きすぎる。執着に他ならない。だからこそ、洋一君には言いたくなかった」


「私は洋一君に期待をし過ぎてしまう。それはきっとプレッシャーになる。重荷になる。だから、言いたくなかったんだ。たぶん、頑張れの一言にすら、私の執念が込められてしまうような気がした。――洋一君には、自分の実力を最大限に発揮することだけに集中して欲しい。だから、私の言葉が重荷にはなって欲しくないと思っていたよ」


彼は何も言わない。

でも、隣に、彼が座っている。

それは彼の温かさで判った。


沈黙が続いたから、私は空を仰いだ顔を少し傾けて、彼の方をちらっと横目で窺った。

彼は私の方を黙って見ていた。

黒い瞳をまっすぐに向けて、口元に柔らかな微笑を浮かべながら。


「ねえ、彩夏さん」と彼はいった。

「僕はね、ランナーの強さというものを二つの面から考えています」


 彼の話に興味を引かれて、私は彼の方に顔を向けた。


「一つはもちろん、身体の強さです。走るという志向に特化して鍛えられた強靭な肉体は、そのままランナーの強さに繋がります」


囁くような、いつもの声。


「そして、もう一つは心の強さです。どんなに辛い状況でも決して諦めないということ。最善を尽くすということ。飽くまで勝ちを追求すること。決して心を折らないこと。それが心の強さになるなら、その強さを与えるものは何か……」


「性格とか?」と私は言った。


「生来の性格はもちろんもあるでしょう。強いランナーは総じて負けず嫌いです。そして、他には――例えば、僕にとっては、想いを託されることが、力を与えてくれるんです」


彼は「ちょっと格好付けすぎたことを言ってしまいましたかねえ」なんて照れながら、それでも続けた。


「大学時代の恩師がいつも仰っていました。昔、恩師の友人にとても強いランナーがいたと。そのランナーに、いつも可愛い彼女がとても大きな期待を抱くから。だから、そのランナーはここぞという時には必ず加速したのだと。勝ったのだと。そのランナーの名前は南鉄平。僕はその話を聞いて、そのランナーをとても羨ましく思った。だから、このチームにも来ました」


父の背を追って、彼はこのチームに来たのか。

彼のような有望な選手が落ち目の実業団に来た理由がやっと判った。


「託された想いを力の礎にせよと、よく恩師は仰っていました。まず、勝負に参加できる環境にあることを感謝すること。勝負に参加できなかった人達の想いを、もう、そこで背負っているわけです」


つまり、私のような人間のことだろうか。

私はこのグラウンドの存続を願うけれどランナーではない。

東京マラソンなんて走ることができない。


誰かに、想いを託すことしかできないのだ。


「そして、もう一つ。勝者は敗者の想いも背負わなくてはならないと。例えば、オリンピック代表にしても、そうです。彼らは日本中のランナー達の想いを背負っている」


私は、グラウンドの方を向いた。

陸上競技に限らず、勝負の世界は、常に勝者と敗者を生む。

強いものが勝つのだ。

そこに容赦はない。


「だから、彩夏さんは僕に期待してくれて良いのです。もし彩夏さんが僕に期待してくれるなら……」

「期待するなら?」

「僕はどんなことでもできる気がするから」


驚いた。


私はそんなたいそうな存在ではないし。

それに、それはまるで。

まるで、愛の告白のようじゃないか。


驚いて、彼の方にそっと顔を向けた。

彼の黒い瞳の中に、私が映っていた。


「ねえ、知らなかった?」と彼がいう。

「何を?」と私は混乱しながら問い返した。


「貴方が世界で一番好き」


そう言って、洋一君は私の唇を奪った。

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