表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

第四話

第四話です。

僅かな希望に縋るべきか。

なお絶望を深めるべきか。


「事情が変わりました」


そう洋一君が切り出したのは、グラウンドがなくなることを知らされた一週間後のことだった。

その間、母は密かに失意に沈んでいたし、私も悲しくて落ち込んでいた。


洋一君は、私達にうっかりと最初に口を滑らしてから、それをずっと悔やんでいたらしい。

うちの店には、毎日ひっきりなしに選手の誰かが訪れるのだから、どうせすぐに知ることとなったに違いないのに。


「予定に残念ながら変化はありません――ただし、条件が付きました」

「条件?」

「オリンピックに出場する選手がいたら、全てを撤回しチームの存続を許可する、と。次の東京マラソンはオリンピック出場選手の選考会です。オリンピックの日本代表の内定を獲得する選手があれば、全てを撤回し存続を許可するということになりました」


それは急展開だ。

そんな話が本当にありえるのだろうか。


「オリンピック、ねえ……」

「今度の東京マラソンには所属選手一丸となって参戦することになりました。それが正真正銘の最後のチャンスです」


確かに、来年はオリンピックの開催年だし、東京マラソンはその為の選考会を兼ねている。

しかし、なにしろ東京マラソンまでは僅かの期間しかない。


「驚きましたか?」


囁くような小さな声で、洋一君が訊く。驚いたに決まっていた。


「嘘みたいな話ね」

「ウソみたいなホントの話」


そう言って、洋一君はそっと微笑んだ。これ以上、悪くなりようがない状況にもともといたのだ。だから、状況は好転したと考えるべきなのかもしれないけれど。


――でも、それがどんなに困難なことか……。


私は、この無理難題に対して、頭を抱えたかった。


「洋一君は、確かそれにもともと出る予定だったのよね?」


私の隣で黙って話を聞いていた母が口を挟んだ。


出るに決まっている。


東京マラソンは国内外から招待選手が集うが、彼は国内招待選手の一人だ。

洋一君はチームの長距離班のエースだ。

若いが、彼が一番なのだ。


そんなことは判っているはずなのに、母は確認した。


「そうです。僕はもともと走る予定でした」

「ふーん、そうなんだ――でも、何の為に?」


母は妙なことを尋ねた。

冗談交じりの問いかけの中に、でも僅かに本気が混じっていた。


「ちょ、ちょっと、お母さん?」


なぜか不躾な態度をとる母に混乱して、私は母をなじるようにいった。

しかし、母は、いつものように曖昧に笑った。


「ねえ、洋一君は、何故、走るのかしらね?」


洋一君は何か答えようとして、しかし結局、何も答えなかった。


   ■


嘘みたいな話を聞いた後で、どうしてそんなことになったのか考えてみた時に、とっさに思い出したのは、数日前に訪れた井口とかいう妙な中年紳士のことだ。


きっと、あの人が何かしたに違いない。


漠然とそんなことを思った。なぜならば、井口というのはあの企業の創業者一族と同じ苗字だったからだ。


「さっきの話、お母さんはどう思う?」

「正直、無理でしょうね。ここ最近は、オリンピックはもちろん世界選手権の代表に選出されたこともないし。世の中、そんなに甘くないの。劇的じゃないの」


母は、可愛い顔して、言う事は容赦がなかった。


「そんなの、やってみなきゃ判らないじゃない」


私はまるで幼い子供のような反論をしてみた。


「オリンピックなんて、お父さんでも選ばれなかったのに、あの子達にできるものですか」


こういう事を言ってしまうあたりが、母はなんだか可愛らしいと思う。

惚れた男のことを誇りに思って、その男の名誉のためになんだか張り合ってしまうあたりが、まるで思春期の女の子の発言みたいで面白い。

健気というか、なんというか。


「なんだ、それが本音か」


きっと、母にとってはオリンピックに出場することという条件が、父を超えることを要求しているように感じられて、ちょっと嫌な気分になっているのだ。

明らかに、考えすぎだと思う。

でも、いかにも母らしい。


「お父さんは世界選手権に出場して入賞したことがあるんだからね。あんたがまだお腹の中にいた頃だけど。とっても凄いランナーだったんだから」


父のことを、娘の私に向かって自慢されても、困る。

私だって、父のことを誇りに思っているのだ。


父は一度だけ、日本を代表して世界選手権に出場したことがあった。

その時は五位入賞を果たした。

それはすなわち、その時、父はこの地上で五番目に強いランナーだったということに他ならない。

それはきっと誇っていいことだ。


その時の大きな新聞記事を、母が今でも大切に保管しているのを私は知っていた。

そして、それを時折夜中にこっそり取り出して読んでは泣いていることも、もちろん知っていた。


「まあ、みんなで出れば一人ぐらいは優勝できるだろうなんて、そういう確率的なものでもないからね」


一番強いランナーこそが優勝するのだ。

皆同じ条件下で、たった一人、一番早く、その長い道のりを駆け抜けた者だけが。


マラソンとは、そういうものだ。


「――でもさあ、もしかしたら……」

「そういう期待はしない方が、良いわよ」


母は、可愛い顔して、言う事は本当に容赦がない。


   ■


実業団のチームの人達が、来なくなってしまった。

それが仕方ないということは判っている。


食事管理というのはスポーツ選手には付きものだけれども、大会直前のそれはとりわけ神経質になる。

糖質、蛋白質、脂質の三大栄養素のバランス。

プロの管理栄養士さんが選手の体調や体質を考慮して、大会当日に最大限の力が発揮できるようなプログラムを作成して、それに則った献立こそが選手達の食生活の全てとなる。


残念ながら、一定食屋に過ぎないうちの店では、それには付き合えない。

一般人のお客さんだっているからだ。

したがって、その期間には、選手の皆は宿舎に用意されたその献立を淡々と片付けることになり、うちの店には来てもらえなくなる。


それだけ真摯に競技に打ち込むのは良い。

でも、やっぱり、寂しい。


東京マラソンに参加しようとする人は、もちろん来ない。

長距離以外の選手もいて、その人達は特に食事制限をしているようには考えられないが、でも、来ない。


「あの子達、勝つつもりなのねえ」


母がぼそっと言った。


「何事もやるからには、勝つつもりで挑むものでしょう」

「でも、洋一君が来てくれなくて、彩夏、寂しいの~。なんちゃって」


母が気持ち悪いことを言い出す。

暇だから私をからかうつもりらしい。


「そんな事は思っていません」


私は、きっぱりと、はっきりと、否定した。


「いや、思っているわね。だって、私はそう思っているもの」

「お母さんと私は、全く別の生き物なんだけど」

「でも、母娘でしょう。あんたが洋一君を贔屓していることぐらい知っているわよ」

「贔屓しているのはお母さんだけでしょうが。私はね、どのお客様にも最高のサービスを心掛けています」

「だから、いかず後家なのよ。いい男はさっさと唾つけておかなくちゃ、駄目。自分のものにしないと駄目なの。私が彩夏の歳の頃には、もう鉄平さんの子供を生んでいたわよ。つまり、あんただけど」


母がそんなことを言い出す。


「時代が違うでしょう。今時、二七歳で未婚の女性なんて大勢います。私の友達だって、未婚の子なんて一杯いますから。私は別に結婚しなくても、今のままでも幸せです。 ――そもそも、お母さんの年代の人だって、何が何でも、結婚、結婚と言う人は、あまりいなかったでしょうに……」


母さんが、私の顔をじろじろと見る。それに対して私は「なによぅ」と言う。母が溜息をつく。


「あんたは、本当に男女の心の機微に疎いというか、なんと言うか。育て方を誤ったわ。この私から、どうしてこんな朴念仁が生まれたのか。一体全体、まるで理解不能」

「人のことを鈍感みたいに言うのは止めて」

「だって、事実でしょう。あなた、それなりの器量の持ち主なのに」

「親バカ」

「私はねえ、早く孫の顔が見たいの。それだけなの」

「うっさい。そんなに早く、私をお嫁にやりたいの?」


そんな風にして、いつものように店の奥で軽口を叩き合いながら、私は感じていた。


やっぱり、母も寂しいのだ。


私が洋一君に期待していないと言えば、それはやはり嘘になってしまうだろう。

私は彼に期待している。


洋一君は、チームの主力選手だ。

エースだ。


おそらく、彼ぐらいしか今度のレースで勝つ可能性はない。

期待の新人として入団した彼は、更に急激にその力を増している。

チーム最強のランナーは間違いなく彼だ。


私は生まれてきたときから、ランナー達を身近に見て育ってきた。

一時間のロード走に出掛ける選手を見ながら遊び、三〇〇〇m走を五本繰り返している横でお昼寝していた。

そんな子供時代を過ごした。


その私が見て判断するのだ、彼は速いと。


走行フォームの上半身にブレが生じないのは体幹が強靭な証左だ。

一定の歩幅を淡々と刻むピッチ走行は、非常に安定している。

彼の走る姿は美しい。

そして、ずっと美しく走れる者は、やはり強いものだ。


ただ、惜しむらくは、舞台が東京マラソンだということだった。


チームの事情を詳しく知るわけではないが、おそらく監督さんは彼を次の次のオリンピックに出場できるように育てたかったのだろう。

ゆっくりとじっくりと育てることができれば、彼は、辻洋一は必ず日本を代表するランナーになれる。


来年のオリンピックのその次のオリンピックの切符は、おそらく怪我さえしなければ、彼が獲るはずだ。

おそらくだが、次のオリンピックへの出場は予定になかったのではないだろうか。


さらに不運なことに、国内外の有力な選手の多くが今回の東京マラソンに参加することを既に表明していた。

前回オリンピックの日本人銀メダリストまで参加するという、錚錚たる面子がライバルに揃っているのだ。

例えば、井口祐輔。現在の日本男子マラソン界の第一人者だ。


それを知って、来年二月の東京マラソンを指定してきたのなら、会社の上層部、経営者達も意地悪なことだと思う。


やっぱり、金食い虫の陸上チームを消滅させることを目論んでいるのだろう。

チームに発破をかけるというには、あまりに酷な条件だ。


そのような環境で、誰かに期待をかけるのは酷なことだと思う。

洋一君に期待するのも彼に悪いと思う。


優勝して、チームとグラウンドを存続に導く。


私達の一人一人のささやかな期待は確かな重みとなって彼を捉えている事を、私にだって判っていた。


期待に応える為に、連日、身体に鞭打って辛い練習に彼は励んでいるのだろうか。

寄せられる無責任な期待に応える義務などないのに、今日もまたその身体と精神をボロボロにして。勝つための努力をしているのだろうか。


だから、母の言うことも理解できた。

期待しない方がいいわよ、というのは母なりの優しさなのだろう。


父のグラウンドがなくなるのは嫌だ。

でも、だからといって、そんな私達の望みが、彼の重荷になるのも嫌なのだ。

私は、実は、東京マラソン好きです。

好きなんです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ