表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

第三話

すこし短いですが、第三話、はじめました。

その客は、妙な男だった。


お客さんの流れが一旦引いた、昼下がり。

ふらっとお店に入ってきたかと思うと、「いらっしゃいませ」とお水を出した私の顔をジロジロと見てくる。


一見さんは顧客拡大のチャンスだから、できるだけ愛想良く振舞いたいなあと思う商売人の魂と、なんだか恥かしいので人の顔をじーっと見てくるのは止めてもらいたいなあと思う乙女心が、私の胸の中で争っていた。


「お嬢ちゃん」

「はい」

「別に、おれは怪しい者じゃない」


怪しいか怪しくないかは、私が判断することだ。

おじさんが決めることじゃない。


おじさんの着ているものをよく観察してみた。

紳士服のブランドなんか全然知らないけれど、怪しくないと自称するそのおじさんの格好は確かに怪しくない。


少しお洒落なストライプのシャツの上に、品の良い濃紺の背広を着ている。

着ていたコートも見るからに本物の高級感溢れるカシミアだ。

上品な着こなし方をしているから、きっと、それなりの人なのだろうなと安直に想像した。

歳は六十才くらいだろうか。

初老の紳士。


「確かに、怪しくは見えないですね。ちょっと挙動不審ですけど」

「お嬢さん、名前は?」


変なおじさんは、いきなり人の名前を訊いてきた。

本当に馴れ馴れしい。


「南と申しますが」

「やっぱり、南の娘の彩夏ちゃんだな、久しぶり」

「父の知り合いの方なんですか?」

「そうさ、彩夏ちゃんにも会ったことがあるよ」


と言われても、思い出せない。

父の知り合いで私の知り合いでもあるということは、昔、陸上の選手だった方なのだろうか。

母に聞けば、分かるかもしれないと思った。

だが、生憎と母は、昼の最も忙しい時間が過ぎた後で、町内会の集会に行ってしまっていた。

帰りはいつになるかも判らない。


「ごめんなさい、思い出せないです」

「だろうな、そんな顔をしている。別に困らせるつもりもないんだ。無理に思い出さなくてもいいさ。最後に会った時、彩夏ちゃんはまだとても幼かったし、ずっと泣いていた。南の葬式だった。私は井口という者だ」


思い出せないはずだった。

会ったのは、もう、遠い昔のことだった。


「ところで」

「はい?」

「料理はまだかな? お腹ぺこぺこなんだよ、おじさんは」


そう言って、そのおじさんは柔らかく微笑んだ。

その笑顔は、確かに昔、どこかで見たような気がした。


母の作るものには到底及ばない。

たぶん、一生及ばない。


でも、私は煮込みうどんを作った――卵をいっぱい使って。


「当店の品は全て美味しく、どれかを一つに決めることなどできかねます」


そんなマニュアル的な応答なんて毛頭するつもりもなく、私は私が一番好きな料理を選んだ。

一番美味しいと信じる料理を選んだ。

売上が一番高いわけでもないけれど、でも、きっと美味しいと信じるものを。


私の自信作だ。


「これは彩子さんが作ったのかい?」


おじさんが冗談めかしてそんなことを訊いた。

母が今、留守にしていることぐらいとっくにわかっているくせに。


「いいえ、私が作りました」

「美味い。どことなく懐かしい味だね。お店は繁盛しているかい?」

「母と私が食べていけるほどには」


「そうか」とおじさんは美味しそうに食べている。


私はすることもなく手空きだったから、上品な作法でうどんを食べるおじさんの背中をカウンターからぼーっと見ていた。

両肘をついて、掌に顔を乗せて私はおじさんの背中を見ていた。


「このお店には、よく連中は来るのかい?」


そう言って、とある企業名を挙げた。

有名な食品会社の、その実業団チームが解散する予定であることを、おじさんは知っているのだろうか。


「ええ、選手の皆さんには、よく贔屓にして頂いております」


うちはチームの所属選手だった南鉄平の遺族の店だから、陸上競技の選手の人達との繋がりは切れなかった。

切れるはずがなかった。


「そうか」とおじさんはそっと溜息をついた。

その様子を見て、私は確信した。


「――井口さんもご存知なのですね」

「まいったな、やっぱり話が漏れていたか。まだ、発表していない話なんだがね」


確かに、数日前に私たちに初めて知らされたその情報は、まだマスコミにまでは漏れていないようで、その類の報道はなされていない。

でも、本当であることは判っている。

なにしろ当事者達から聞いたのだから。


「彩夏ちゃんは、今でも、あのグラウンドには行くのかい?」

「ええ、時々は。こっそり練習を覗きに行きます」

「そうか」

「変わらない場所です――父がいた頃と、ずっと、変わらない……」

「変わったのは、人間だけさ」

「そうですね」


子供だった私も、もう二七歳だ。

それだけの時間が流れたのだ。


「あんなにちいちゃかった彩夏ちゃんも、すっかり良い女だ」

「おだてても、特別なサービスはしませんよ。お代もまけません」


「しっかりしてる」と言って、おじさんは笑った。


「最近の若いのは、みんなしっかりしすぎているんだ。賢い奴ばかりだ。なんでも合理的なことを言いやがる」

「そうですか?」

「智に働けば角が立つ虚しさってことさ」

「あの、仰っていることがよく判らないです」


そう言うと、悪戯っぽくおじさんは微笑んだ。


「気にしなくていいよ。昔から、老人の愚痴なんて聞き流すに限る。付き合っていたら、日が暮れてしまうさ。――ごちそうさま。美味しかったよ」


食器をさげるついでに、お水をコップに足しながら言ってみた。


「母にはお会いになりませんか?」

「いいさ、留守なのだろう?」

「ええ、でも、もうすぐ帰ってくると思うのですけれど」

 確証はないくせに、そんなことまで言ってみた。

「いや、おれもこの後に済ませなくちゃいけない用事があってね。もう行かなくちゃならないんだ」

「そうですか」

「彩夏ちゃんに会ったら、やる気が出たよ。おじさんはね、これから戦いに行くんだ」


大袈裟な比喩だ。

私はおかしくなって、笑う。

「若い奴に、ガツンと言ってみるんだ」と井口さんはいう。


「ガツン、とですか?」

「ガツン、とだ」


悪戯を企む悪餓鬼みたいに、おじさんは微笑んだ。

背広を正し、コートを羽織って、井口さんが席を立った。

立派な財布から、しかし皺くちゃの千円札が出てくるのを見て、なんだか、このおじさんらしいと思った。


「これで足りるだろうか」と井口さんは困ったように頭を掻いていた。

伏線ってやつかな。

次回、起承転結でいえば転かなって感じの第四話です。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ