第三話
すこし短いですが、第三話、はじめました。
その客は、妙な男だった。
お客さんの流れが一旦引いた、昼下がり。
ふらっとお店に入ってきたかと思うと、「いらっしゃいませ」とお水を出した私の顔をジロジロと見てくる。
一見さんは顧客拡大のチャンスだから、できるだけ愛想良く振舞いたいなあと思う商売人の魂と、なんだか恥かしいので人の顔をじーっと見てくるのは止めてもらいたいなあと思う乙女心が、私の胸の中で争っていた。
「お嬢ちゃん」
「はい」
「別に、おれは怪しい者じゃない」
怪しいか怪しくないかは、私が判断することだ。
おじさんが決めることじゃない。
おじさんの着ているものをよく観察してみた。
紳士服のブランドなんか全然知らないけれど、怪しくないと自称するそのおじさんの格好は確かに怪しくない。
少しお洒落なストライプのシャツの上に、品の良い濃紺の背広を着ている。
着ていたコートも見るからに本物の高級感溢れるカシミアだ。
上品な着こなし方をしているから、きっと、それなりの人なのだろうなと安直に想像した。
歳は六十才くらいだろうか。
初老の紳士。
「確かに、怪しくは見えないですね。ちょっと挙動不審ですけど」
「お嬢さん、名前は?」
変なおじさんは、いきなり人の名前を訊いてきた。
本当に馴れ馴れしい。
「南と申しますが」
「やっぱり、南の娘の彩夏ちゃんだな、久しぶり」
「父の知り合いの方なんですか?」
「そうさ、彩夏ちゃんにも会ったことがあるよ」
と言われても、思い出せない。
父の知り合いで私の知り合いでもあるということは、昔、陸上の選手だった方なのだろうか。
母に聞けば、分かるかもしれないと思った。
だが、生憎と母は、昼の最も忙しい時間が過ぎた後で、町内会の集会に行ってしまっていた。
帰りはいつになるかも判らない。
「ごめんなさい、思い出せないです」
「だろうな、そんな顔をしている。別に困らせるつもりもないんだ。無理に思い出さなくてもいいさ。最後に会った時、彩夏ちゃんはまだとても幼かったし、ずっと泣いていた。南の葬式だった。私は井口という者だ」
思い出せないはずだった。
会ったのは、もう、遠い昔のことだった。
「ところで」
「はい?」
「料理はまだかな? お腹ぺこぺこなんだよ、おじさんは」
そう言って、そのおじさんは柔らかく微笑んだ。
その笑顔は、確かに昔、どこかで見たような気がした。
母の作るものには到底及ばない。
たぶん、一生及ばない。
でも、私は煮込みうどんを作った――卵をいっぱい使って。
「当店の品は全て美味しく、どれかを一つに決めることなどできかねます」
そんなマニュアル的な応答なんて毛頭するつもりもなく、私は私が一番好きな料理を選んだ。
一番美味しいと信じる料理を選んだ。
売上が一番高いわけでもないけれど、でも、きっと美味しいと信じるものを。
私の自信作だ。
「これは彩子さんが作ったのかい?」
おじさんが冗談めかしてそんなことを訊いた。
母が今、留守にしていることぐらいとっくにわかっているくせに。
「いいえ、私が作りました」
「美味い。どことなく懐かしい味だね。お店は繁盛しているかい?」
「母と私が食べていけるほどには」
「そうか」とおじさんは美味しそうに食べている。
私はすることもなく手空きだったから、上品な作法でうどんを食べるおじさんの背中をカウンターからぼーっと見ていた。
両肘をついて、掌に顔を乗せて私はおじさんの背中を見ていた。
「このお店には、よく連中は来るのかい?」
そう言って、とある企業名を挙げた。
有名な食品会社の、その実業団チームが解散する予定であることを、おじさんは知っているのだろうか。
「ええ、選手の皆さんには、よく贔屓にして頂いております」
うちはチームの所属選手だった南鉄平の遺族の店だから、陸上競技の選手の人達との繋がりは切れなかった。
切れるはずがなかった。
「そうか」とおじさんはそっと溜息をついた。
その様子を見て、私は確信した。
「――井口さんもご存知なのですね」
「まいったな、やっぱり話が漏れていたか。まだ、発表していない話なんだがね」
確かに、数日前に私たちに初めて知らされたその情報は、まだマスコミにまでは漏れていないようで、その類の報道はなされていない。
でも、本当であることは判っている。
なにしろ当事者達から聞いたのだから。
「彩夏ちゃんは、今でも、あのグラウンドには行くのかい?」
「ええ、時々は。こっそり練習を覗きに行きます」
「そうか」
「変わらない場所です――父がいた頃と、ずっと、変わらない……」
「変わったのは、人間だけさ」
「そうですね」
子供だった私も、もう二七歳だ。
それだけの時間が流れたのだ。
「あんなにちいちゃかった彩夏ちゃんも、すっかり良い女だ」
「おだてても、特別なサービスはしませんよ。お代もまけません」
「しっかりしてる」と言って、おじさんは笑った。
「最近の若いのは、みんなしっかりしすぎているんだ。賢い奴ばかりだ。なんでも合理的なことを言いやがる」
「そうですか?」
「智に働けば角が立つ虚しさってことさ」
「あの、仰っていることがよく判らないです」
そう言うと、悪戯っぽくおじさんは微笑んだ。
「気にしなくていいよ。昔から、老人の愚痴なんて聞き流すに限る。付き合っていたら、日が暮れてしまうさ。――ごちそうさま。美味しかったよ」
食器をさげるついでに、お水をコップに足しながら言ってみた。
「母にはお会いになりませんか?」
「いいさ、留守なのだろう?」
「ええ、でも、もうすぐ帰ってくると思うのですけれど」
確証はないくせに、そんなことまで言ってみた。
「いや、おれもこの後に済ませなくちゃいけない用事があってね。もう行かなくちゃならないんだ」
「そうですか」
「彩夏ちゃんに会ったら、やる気が出たよ。おじさんはね、これから戦いに行くんだ」
大袈裟な比喩だ。
私はおかしくなって、笑う。
「若い奴に、ガツンと言ってみるんだ」と井口さんはいう。
「ガツン、とですか?」
「ガツン、とだ」
悪戯を企む悪餓鬼みたいに、おじさんは微笑んだ。
背広を正し、コートを羽織って、井口さんが席を立った。
立派な財布から、しかし皺くちゃの千円札が出てくるのを見て、なんだか、このおじさんらしいと思った。
「これで足りるだろうか」と井口さんは困ったように頭を掻いていた。
伏線ってやつかな。
次回、起承転結でいえば転かなって感じの第四話です。