表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

第二話

第二話、はじめました。

白いワンピースを着せられて、ぶかぶかの大きな麦藁帽子を被らされて。

グラウンドを駆け回る男の人達を見ている。


思いっきり手を振ったら、疲れ果てて座り込んでいた人が手を振り返してくれた。


我慢しきれなくなって駆け出す。

後ろで制止の声があったような気がするが、止まらない。


一生懸命走ったら、それだけ早く辿り着ける。

そう信じて、思いっきり手を振った。


そして、トラックを横切って、その大きな男の人に飛びついた。


その人からは汗の匂いがした。

その匂いは嫌いじゃなかった。


「速くなったね」


優しい微笑を浮かべて、その人が言う。

穏やかな声で。

大きな手で頭を撫でてくれた。


大好きだった。


だから、呼びかけた。

走って上がった息を静めながら、それでも一生懸命に呼びかけた。


「おとーしゃんっ」


それが私の原風景だ。


父が生きていた、あの頃。

毎日が幸せだった。


保育園に行かない日には、朝からサンドイッチとおにぎりを母と一緒に作って。

父の練習を観に行った。


世界中が輝いて見えた。

夢はどこまでも大きくて。

大きくなったら何だってできるようになると信じていた。


それこそ父のように速く走れるかもしれない。

あるいは長い距離を走れるようになるかもしれない。


きっと明日にはもっともっといいことがあると無条件に何の疑いもなく信じていた。

もっともっと楽しいことがあると、明日になるのが待ちきれなかった、あの日々。

どうしようもなく幼くて、でも、大切な想い出も一杯できた。

きっと、幸せだった。


父が死んだのは、私が四歳の時だった。


彼は練習中に倒れた。

私の目の前で倒れた。


後ろに倒れる父の姿は、とてもゆっくりとしていた。

まるで何かに驚いて空を見上げたようにも見えた。

白い雲と、蒼い空を、ただ見上げるように。


何が起こったのか理解できずに、唖然とした。

何も判らなかった。


そのまま立ち尽くす私の目の前、倒れた父に大勢の人が群がり、すぐに病院に運び、そして父の死が確定した。

脳動脈瘤破裂だったと後に聞いた。

破裂して、くも膜下腔へ出血して、急激な意識障害に襲われ、倒れたのだろうと後に説明された。

その説明と父の死がどうして結びつくのか。

まだ幼かった私には到底理解できなかったけれど。


ああ、父は苦しんだだろうか。

それとも、苦しまなかっただろうか。

楽に逝けただろうか。


グラウンドの整えられた地面に倒れて、硬直した父の身体を思い出す。

病院の白いベッドの上で握った手はまだ温かかったのに、死んだと告げられたあの日のことを、私は今でも鮮明に思い出すことができる。


父はそうしていなくなってしまった。


走るのが好きな人だった。

私の記憶にある父は、いつも風に乗るように颯爽と走っていた。

陸上競技の長距離が専門の選手だった。

強いランナーだった。


いつも母と共に通ったあのグラウンドは、父が所属する実業団の所有する練習場で、本拠地だった。

伝統がある強豪チームで、実業団による駅伝大会などではチームはとても優秀な成績を収めていた。

だから、そのチームの長距離選手だといえば、たいそう力がある有望な選手だと見做されたそうだ。

確かに、記憶に残る練習風景ではとても活気があったように思う。

チーム内でも切磋琢磨して、きっと実力を高め合っていたことだろう。

私は、いつも父を含めた幾人かの選手達が練習する姿をスタンドから見ていた。

グラウンドには、あの頃、確かに風が吹いていた。

心地良い風が吹いていた。


父が死んでから、南鉄平という一人のランナーが死んでから、母は女手一つで私を育ててくれた。


思い出が色濃く残るグラウンドの傍に、母は小さな定食屋を開いた。

何か特殊な技能や資格を持つわけでもない母は、温かい家庭料理の店を開いた。

評判になるわけでも、特別繁盛したわけでもないその店は、しかし、母と娘が生きていけるだけのお金を与えてくれた。

父の友人だった、実業団の選手の方々が贔屓にしてくれた。

母の料理は派手じゃないけれど、でも確かに美味しかったから、心が温まったから、何人かの心優しい常連さんだってできた。


私は手伝いができる年頃になってから、毎日、母を手伝うようになった。


だから、自然と、店に良く来る実業団の選手の方々と親しくなった。

陸上競技の選手生命は短い。

不慮の事故で、怪我で、一瞬にしてなにもかもふいにしてしまうこともある。

長くない周期で店に来る人達の顔ぶれは変化した。

それでも、実業団の人達との繋がりは断ち切れることはなかった。

ずっと、親しくしてくれた。

それはとてもありがたいことだと思っている。


「いたっ」


小さな悲鳴が、すぐ傍で、上がった。


「大丈夫、お母さん?」

「へへっ、だいじょーぶ、だいじょーぶ。ちょっと指切っちゃっただけだから」


そんなことは、普通ならありえない。

しかし、母はいつものように笑っている。


「ふう、お母さんも老いたな。時代はもう若くて美しい私のものだね」

「何を言ってるのよ、このいかず後家が」

「カッチーン。今、地雷踏んだ」

「あのね、怒って膨れ面して見せても、もう可愛くないよ。あなただって、いい歳なんだし」

「うっさい」


冗談交じりの会話を交わして、気づかなかった振りをして。

母の動揺を黙って、甘受した。

仕込みの途中、お昼前の開店を控えて、あらかじめ料理に時間のかかる品の下拵えをこなしておく必要があったから、作業を続ける。


そもそも童顔の母は、いつまでたっても若々しく可愛らしい。

動作は俊敏で軽やか。

表情をころころ変えて話術も巧みだ。

私と並んで立つと、姉妹に間違えられることすらあった。

にこにこと愛想笑いを絶やさない小柄な母が姉なら、ちょっと仏頂面で大柄な私が妹といったところだった。


私はいつまでも母は変わらないと思っていた。


いつも笑みを絶やさず、明るくて、気配り上手。

そこにいるだけで、周囲の人間を癒すような、そんな存在。

そんな母は、私の密かな憧れだった。


でも、いつからだったろう、私は気付いてしまった。

母の食器を洗う速度がちょっぴり遅くなって。

前は走って移動していたところを、母は歩くようになった。


「父に似てきた」と、母はよく私に言う。

それが「嬉しい」とも。


私の背は、中学の頃にはもう母を追い越していた。

だから、いつの間にか、私は女性として小柄な母を見下ろすようにして生活している。

例えば、買い物に付き合い、重たい荷物を運ぶ時。

黙って差し出した私の手に、荷物を渡しながら、母は笑うのだ。

「父さんにそっくり」だと。


そんな愚直な母のことだ。

いつまでも私に父の面影を見るほど、父を強く愛している母のことだ。

いつまでも父を一途に想っているような母のことだ。


衝撃を受けないはずがない。

落胆を感じないはずがない。

悲しくないはずがなかった。


思い出のグラウンドがなくなることを知って、そのことをあるいは誰よりも嘆いているだろうに。

がっかりしているだろうに。


あのグラウンドがなくなるという話を聞いた翌日。

いつもと変わらない、にこにこした柔らかい笑みを浮かべながら。

母は包丁の手元が狂って、ちょっとだけ指の皮を切ってしまったのだった。


「ねえ、それで、貴方達はどうなるの?」


ご飯のお代わり分を持った椀を渡しながら、私は小声で尋ねた。

なんでもない風を装って、できるだけ平然と。

そうしたら、陸上部の若い子が、苦笑を浮かべながら教えてくれた。


「いきなり解雇はされませんよ。我々も正社員の待遇です。労働者の権利を守られていますから」

「そうなんだ」

「でも、もうチームの方は……」


来春を目処に、グラウンドは閉鎖、実業団の陸上チームは解散。

それが企業の上層部の方々の判断だったそうだ。

来春といえば、もう半年もない。


グラウンドの土地は細かく分画されて、売却される見込みらしい。

陸上部のメンバーの雇用は保たれるが、きっと人事異動で配属もバラバラになるだろうということだ。


長い伝統を誇っていた名門チームだったのに。

父のいたチームなのに。


積み上げるのには長い年月がかかっても、壊すのは簡単ということらしい。

呆れるほど唐突に、あっさりと、解散が決定した。


日本は不況が長く続いていた。

相次ぐ企業の合併。

下がる株価。

経済の動向に特別詳しい訳ではないけれど、それでも社会に重たい空気が漂っていることぐらいは感じ取っていた。

そして、それが父の在籍していた企業とて例外ではないのだということも。


そんなことは私にだって判っていた。


「寂しくなるね」

「ははは、彩夏さんが寂しくないように、自分はどんなに遠くに飛ばされても週に一回はここに食べに来ます」

「あっ、オレも」

「いやいや、お前らはいいよ。この崇高な使命は俺だけのものだ。安心してください、彩夏さん。貴方は俺がきっと幸せにします」

「――ばかっ、てめっ。調子にのんなよ、こら。彩夏さん、すみません……」

「ふふっ、みんな、ありがとう。お気持ちだけ貰っておくわね」


喧騒に背を向けて、奥に下がる。


楽しい子達だ。

人並みにお世辞を言うかと思えば、無邪気に美味しそうに、まるで子供みたいに料理を食べる一面も併せ持つ。

だから、まるで弟のように思えるのだ。


私も、もう二七歳になっていた。


幼い頃は見上げるような大きな存在だった実業団の選手の方々は、いつの間にか、私より年下の人達ばかりになった。

私だってまだまだ若いつもりだけど、私よりももっと元気で腕白な様子を見せられると、なんだかしみじみと感じ入るものがある。

 

ずっと母と寄り添うようにして生きてきた。


地元の公立高校を卒業して、母の店を本格的に手伝うようになって。

そろそろ十年に近くなるけど、本当に母とは寄り添うようにして生きてきたと思う。


お見合いを持ち掛けられたりもしたし、何人かの男性とお付き合いしてみたことはもちろんあった。

でも結局のところ、いつだって自分に一番身近に感じていたのは母だった。


母が好きだった。

父亡き後、私は母だけを心から愛してきた。

私に残された唯一の家族を、世界で一番大切に想ってきた。


男性にモテたことなんてろくにない、格好の良い素敵なブランド品を贈られたことなんてない。

私はそんな地味な女だけど、もしかしたら他人には嗤われてしまうようなちっぽけな生き方かもしれないけれど、でも、私はそんな自分のことが嫌いじゃない。


毎日、母と一緒にお店を切り盛りして、私達の料理を美味しいと言ってくれる人の為に過ごした。

お店が休みの日には、大企業で働いている友達や、もう結婚して温かい家庭を築いている友達に会ったりして。

そして、その帰り道やなんかにふっと立ち寄ってみるのだ、父のグラウンドへ。

こっそりと練習を覗いてみる。

そんな毎日。


ドラマのように素敵で劇的な出会いなんかもなければ、本当に、なにもない。

例えば、大晦日には母と二人して紅白歌合戦と格闘技のチャンネル争いをしたり、一緒に年越しそばを作ってみたり。

みかんを剥きながらコタツで温まり、他愛もないおしゃべりをしながら熱燗の杯を傾け、遠く除夜の鐘を聞いた。


そうやって年を重ねてきた。

そうやって生きてきた。そんな人生。

私も、もう二七歳だ。


いつの間にか、本当にいつの間にか、それだけの年月が過ぎていた。

子供から大人になるには十分な時間だ。


父のグラウンドがなくなるのも、きっと、変化の一つにすぎない。


本当は判っているのだ。

強豪として名高かったチームがいつしか振るわなくなり、不況の中で、企業が実業団チームを維持する資金を削減する。

それはとても合理的で理論的で、きっと正しい判断なのだ。

父のグラウンドがなくなるのは、至極当然の流れで、きわめて妥当なことなのだ。


だから、本当は頭では判っているのだ――ただ、一つの時代が終わっただけということを。


最初に私達母娘にそのことを教えてくれた彼の名を、辻洋一といった。

長距離を専門にするランナー。

父と同じだ。


長い手足の付いたよく引き締まった身体は、見るからに速そうで。

よく陽に焼けた小麦色の肌は健康的で、僅かに茶色に染めた短い髪と併せて、爽やかな感じに見える。

少々内気な性格だけれども、伏し目がちに慎み深く笑う姿は、悪くないように思えた。

心を開いた人に見せる人懐っこい、どことなく照れたような笑顔は、見る人の心を温かくする。


彼はまだ二三歳だから、大学を卒業し入社して、まだ一年も経たないうちに今回の事態を迎えたということになる。

大学の陸上界ではとても有力な選手だったと聞いた。

箱根駅伝を何度か走り、インカレでも日本人トップタイムを出した。

珍しく、我らが実業団のチームに入った有望株。

将来は、チームの顔にもなりうる将来性があったのに。


だから、その日、私達に教えに来た彼自身の顔もかなり浮かなかった。


自分の力を密かに信じていたが故に、失望も大きかったのだろう。

そして、きっと、私と母があのグラウンドにかける想いも知らなかったのだろう。


彼はふとした拍子に、口を滑らせた。

彼にとって、母のお店が安心して愚痴や弱音を零せる場所だったから。

彼は無念さを滲ませながら、ぼそっと告げたのだった。


「成績不振と、長引く不況の為に、チームは解散。グラウンドはなくなる」ということを。


彼に応対していた母の目の前で。

私にもそれは聞こえていた。

それは我々にとってとても衝撃的なニュースだった。


洋一君は、とても良い子で、母のお気に入りだ。

母は客の選り好みをしない人だけど、それでも気持ちの良いお客さんとそうでないお客さんがいるのは当たり前のことで、母は洋一君の慎み深く謙虚なところと時折見せる笑顔が好きなのだと言っていた。


でも、私には分かっていた。

本当は知っていた。

たぶん、洋一君はどことなく父に似ている。

だから、母は彼を気に入っていたのだ。


「ふーん、そっかあ……」


母がそう言うのが聞こえた。

小さな声だった。

一瞬、泣いているのかと思った。


私は母を見た。

母の顔は私からは見えなかった。

いつもと変わらない背中が見えた。


私もいつもと変わらないように普通を装って野菜炒めを作りながら、母と彼の会話にそのまま耳を傾けていた。

私は彼の言葉にショックを受けていたけれど。

そういうのを隠すことは、私は昔から上手かった。


母はどんな顔をしているだろう、と思った。


母はいつものように笑っているのだろうか。


様々な感情の色が混ざりあって、もう何色をしているのか定かでない、そんな曖昧な色をした笑顔の仮面。

その表情はにこにこと愛想よくしているけれど、私はその奥に秘められたものを知っている。

母の娘だから。


母はいつだって、顔では笑いながら、心で泣くような女性だった。


父の葬儀が終わった翌日、母は私に寂しく笑いかけた。

「二人になっちゃったけど、頑張ろうね」と。

母は必死に笑っていたけど、でも、その目は真っ赤に充血して泣いているように見えた。


あの時の母の笑顔を、私は決して忘れないだろう。


あの日のことを思い出していたら、突然、まるで臨界点を超えたみたいに、私の目に涙があふれた。

野菜炒めを作る際にじゅうじゅうと昇る煙が目に入った風を装って。

お客さんに冗談交じりに冷やかされながら、私はそっと目頭を押さえた。

洋一君の他に残っていたもう一人のお客さんに野菜炒め定食を笑顔で出して。

私は、それから、粉雪が降る師走の夜空に裏口から飛び出したのだった。


父のグラウンドへ向かって。

辻、てめー、空気読めよ、って感じ。

次回、変なおっさんが出てくる第三話です。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ