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第一話

突然ですが、ラブストーリー、再びはじめました。

闇と、闇がもつ静けさだけが、その場を支配していた。


暗雲に阻まれて、冷ややかな月明かりさえ届かない。

風もない。


雪の降る音すら聞こえそうな夜の中、ひとり立ち尽くしていた。

非現実的な静寂の中、彼方に見える街灯のかすかな明かりが、まだ自分が確かにこの世界に存在することを教えていた。


昼間までの賑やかさが嘘のように静まり返った四〇〇mトラック。

通りがかったその隅で、こっそりと練習に励む選手達の様子を伺っていたのは、ほんのちょっと前のことだったように思えるのに。


「どうして」と、思った事が口から零れてしまった事に気付き、それすら自分の他に聞く者がいないという、その静けさと不気味さを逆に嫌という程に痛感させられる。


その空間の無機質な冷たさに、知らず身体が震えた。

思わず口から漏れた白い吐息、それに乗って軽やかに粉雪が舞った。

穢れを知らない純粋で無垢な粉雪は、あまりに儚げな美しさを誇りながら、しかし、差し出した掌の中に溶けて消えた。


一瞬、背後にかすかな物音を聞いたような気がした。

振り返ろうとした、その次の瞬間。

「気は、済みましたか?」と、不意に声が掛けられた。

それはまるで囁くような声だったけれど、静寂に支配された空間の中ではあまりに異質だったから。

鮮明に私の耳に響いた。


慌てて振り返ると、彼がかすかに降る粉雪の中で傘もささずに佇んでいた。

もの思いに耽っていたからといって、こんなに近寄られるまで気がつかないとは思っていなかった。


知り合いとはいえ、少し恐怖を覚え、わずかに身を硬くした。


「びっくりさせようと思ったわけではなかったのですが」


彼の小さく笑う声に、強張っていた体からふっと力が抜けた。

「十分、びっくりしたわよ」と言って、とっさに微笑んで見せようとした。


しかし、そうするだけの気力さえ残っていないことに気付きいた。

そして、自分が思っていたよりもずっと落胆していたことをようやく理解した。


「彩夏さんが、消えていってしまうように見えた」


彼がそんな事を言う。


冗談交じりに笑って振る舞う中に真摯に私を心配する気配が混じっているのを感じ取った。

安心させるように、彼の角ばった右手にそっと、自分の手を重ねた。

その手は温かかった。

ということは、自分の手が冷たくなっている。


「消えたりなんかしないよ、私」

「――彩夏さんの手、冷たい。氷みたいだ」


彼が雪で濡れないように、そっと傘を傾けた。

粉雪は積もる程の勢いではない。

ただ、空と地の間を白く薄めるためだけに降っている。


「やっぱり、ショックでしたか? ごめんなさい、話は彩子さんから伺いました。知らなかったとはいえ、申し訳なかった」


彼は心配そうにこちらを窺っている。


そうか、母に事情を聞いたのか。

それなら、彼がここに来るのも道理だ。


「ショックを受けたかどうかは、自分では判らないよ。でも、私はここに来ようと思った。だから、たぶん、そういう事なんだと思う」

「そうですか」

「初めて聞いたから、ちょっと動揺しちゃったんだ。びっくりさせちゃったとしたら、こちらこそ、ごめんね」


曖昧に微笑む彼に問いかけた。


「でも、本当なんだね。嘘じゃないんだね」


傘をくるくる回しながら、ぐるっとグラウンドを見渡す。

静寂に包まれた神聖なグランドは、こうしてみるとやけに広く感じる――本当に、広く。


「ええ、本当です」


彼が目を伏せて言う。

しょげたその姿勢は、なんだか捨てられた子犬みたいで。

思わず、彼の髪に手を伸ばした。

励ますために、その短い髪を、くしゃくしゃと撫でる。


このグラウンドがなくなってしまう。


それを聞いて、平静ではいられなかった。

胸がずきりと苦しくなって、痛んだ。

いてもたってもいられなくなって、そして、グラウンドに来た。


でも、傘をちゃんと持ってきているあたり、自分の中に冷静な部分があるのも事実だった。

きっと、慌てふためき混乱する私を、冷めた目で見ているもう一人の私がいるのだろう。


「彩子さんが心配していましたよ」と彼が言う。


母の方がきっとショックは大きかっただろうにと思った。

そうしたら、取り乱した己のことが急速に恥ずかしくなった。


穴があったら入りたい。


「すみません、言うべき刻は他にもあったかもしれない。お二人にも、もっと穏便に受け止めてもらえる機会があったかもしれない。そう思ったら、俺」

「いつかは知ることになるのなら、早い方がいい。少なくとも、私はそう思っているよ。だから、気にしないでよ、洋一君」


そう言って、笑おうとしたら、なんとか笑えた。

感情に関係なく笑える用意がある。

大人になるということは、たぶんそういうことだ。


「送っていきます。もう遅いし、暗い」


あいかわらず、囁くような声で、,彼が言った。

その声がよく通り、空気を震わせることを意識した時。

彼と二人きりなのだという事実を、私は今更ながらに強く認識させられた。

闇の夜、粉雪降り注ぐ空の下、私たちは二人きりだった。


「ねえ、彩夏さん」

「ん?」

「泣いていますよ」


言われて初めて、自分の頬が涙で濡れていたことに気付いた。

プロローグ的な第一話が終わり、次回、説明回的な第二話です。

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