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最執話

 雨の街は雨が降っている。槍の雨ではない。そんなものは比較にならない程の鋭い水の雨だ。傘でも買えばよかった。


 街に人の気配はない。と言うか、事実人が居ない。今日は何時もより雨が強いらしいから、きっと街の住人は自宅に篭もっているのだろう。

 師匠との待ち合わせ場所は、今私が居る工業地帯の先にある打ち捨てられた土地の廃屋らしい。

 工業地帯は鋼の街のように灰色で、しかし鋼の街のような光沢は全く見られない寂しい場所だった。

 雨に打たれながらも道を進む。雨は好きだ。人肌が恋しくなるのを実感出来る。

 標くんの痩せぎすの体躯、塔子さんの小柄で暖かい肌、件さんの甘い香りのする髪と体。友人達の体の感触を想起する。師匠は……どうなのだろう。師匠に抱きついたことなどないし、体を密着させたこともない。まあ師匠は体の形が変わるから『これこそ師匠』というような実感を持つことは不可能だろう。気紛れで八方美人な人なのだ。


 辺りから工場が減ってきた。打ち捨てられた土地は確かに近づいている。いや、使われなくなったコンテナや捨てられた鉄パイプがあるのだから、既に入っていると言っていいだろう。

 誰も居ない道路の先に木製の大きな建物が見える。所々穴が空いており、一見して目的地だと断ずることが出来た。

 あそこに師匠が居る。師匠と会うのは何百年ぶりだろうか。お説教を喰らうだろうか。喰らうのだろう。私のここまでの無様を思えば当然のことだ。本当に何もかもが無様だった。冬人くんですら呆れる無様さだ。醜態と言い換えてもいい。醜い。私は醜い。こんな私を誰が愛するものか。この卑怯で臆病な私を笑ってくれ。誰でもいいから笑ってくれ。


 いつの間にか廃屋は目の前にあった。

 見上げて倦ねる。深呼吸を一つしてノブに手をかけると、私の頭上に何かがかざされた。

「傘くらいさせ。全く、相変わらず可愛いヤツだなお前は」

 四五十代のがっちりとした体格の男が私の頭上に傘をさしていた。師匠だ。師匠は私に会う時は決まってこの姿だ。

「本当に久しぶりだな。いやはや最近はオレも何かと忙しくて、オマエに会う時間も取れなかった。相変わらずサイエンスに執心しているのか? オマエのことだからそれもまた至当だが、正義の為に動くことも忘れないでくれよ。オマエはオレの弟子なのだからな」

 私は首肯する。

「小屋に入ろう。ここじゃあ煙草も吸えん」

 ここから案内してくれるのではないのか。しかし師匠は私が迷ってしまった時、必ず正しい道を示してくれた。ここは素直に従っておくのが吉だ。まあ吉凶の判らぬ私が占いを語った所で、騙りになってしまうのは目に見えている。長岡さんの冗談ならば笑えるが、私の冗談など冗談ではない。洒落にもならない。道化ならばなんとかする所なのだろうか。


 私たちは廃屋に入る。屋内は外観からは想像もできぬ程小ぢんまりとしていた。なるほど、師匠が『小屋』と言う訳が判った。

「まあ座れ」

 師匠に勧められたぼろぼろのソファーに腰掛ける。師匠はテーブルを隔てた対面のソファーに腰掛けた。

「公式が見つかったそうじゃないか。しかも原初の公式。まあそんなことはどうでもいいか。オマエなら近いうちに全ての公式を集めて世界を引っ繰り返してしまうだろうしな」

 師匠は静かに笑い、煙草に火をつけた。標くんと同じ銘柄だ。師匠は私のことをやたらめったら可愛いと言う。標くんも私のことを可愛いと思ってくれているのだろうか。そうであれば嬉しいと思う。何故かは判らない。私は彼に好意を持っている訳ではないし、彼も塔子さんにご執心だからどう間違っても私が彼のことを好きになるなどあり得ない。

「ん? どうした? 顔が赤いな。ははんオマエ、風邪を引いたな。傘をささないからだ。戦場では風邪を引かないことが勝利の鍵だ。故に傘と友情は欠かせない。オマエは義理堅いから友情について言うことは何もないが、反面ずぼらだ。折り畳み傘を携帯するといい」

 風邪か。確かに引いたかもしれないが、傘をささないことと風邪を引くこととはなんの関係も因果もない。師匠はたまにトンチンカンなことを言う。

「そうだ。友情と言えばオマエ、家波標とかいう青年とまだ付き合いはあるのか?」

 肯定した。なんだろう。標くんは人に嫌われ易いから、これから師匠が何を言うのか気が気でない。

「そうか。では今度彼を紹介してくれ。彼はいい目をしている。いい耳をしている。いい口をしている。いい鼻をしている。つまりいい顔をしている。是非とも弟子に欲しい。きっと潜入のプロになれる」

 紹介することについては吝かではないが、きっと標くんは師匠の誘いを断るだろう。彼は筋肉質な男性が特に苦手なのだ。原因は父親だ。父親からの期待を一身に受けながらもそれに答えられなかった標くんは不幸なことに絶縁された。期待を人一倍欲し人一倍恐れるというのは彼の本質の一歩手前を突いている。そんな彼が筋骨隆々である師匠の誘いに乗る訳がない。

 私はそれを師匠に伝える。

「相応の姿で訪ねるさ。この姿はオマエだけだ」

 なるほど。師匠はそういう人だった。しかしそれにしたって標くんは塔子さんの期待に応えることに手一杯なのだから師を持とうなどと考えるはずがない。

「親に捨てられた子か。軍人には向かんかも知れんな。いや、向いている職など何一つないかも知れん。しかしヤツはいい顔をしている。参ったな。オレの常識じゃあ測れん……そうだ、ここは一つオマエに頼むとしよう。可愛い可愛いオレの弟子に依頼することにしよう」

 師匠は煙草を一杯に吸い込む。

「オマエは家波標のことが好きだな。違うとは言わせん。それだけ一人の男の事情を知りながら、好きでないとは言わせんよ」

 何を言いだすかと思えば世迷い言とは。師匠はやはりトンチンカンである。訳の分からないことを常識の如く言う。

 私は反論しようと口を開くが、師匠はそれを煙草の煙で制した。

「反論は話が終わってからだ。終わったら幾らでも受け付けてやる。オレからオマエへの頼み事、師匠から弟子への懇請というのはな、家波標と恋仲になって、もっとヤツのことを知り、そしてヤツのことを教えてほしいということだ。言葉を引き出すのに愛というのは最も効力を発揮するのだよ。心の問題だからな。未だに脳みそを切除していない科学者連中は、シナプス信号論を必死に唱えているが、そんなのは悪徳な宗教団体の繰り言のようなものだ。心と脳を一緒くたにするなど愚かにも程がある。愛を感じるのが錯覚であるなど全くけしからん戯言だ」

 後半の脳と心の話は無視して、師匠からの依頼を突っぱねる。標くんには恋人が居るのだから私などが入り込む余地はない。私ごときが踏み込んでいい領域ではない。全く何時にも増しておかしなことを言う師匠だ。

「ほらみたことか。オマエは自分に自信がないだけで、家波標のことを好きではないと思い込んでいるだけだよ。入り込む余地がないと言うのは入り込みたいと思っているからなのだろう。踏み込んではいけないと言うのは諦めているからなのだろう。不器用だな。全く可愛いヤツだ」

 黙り込む。

 認めた訳ではない。反論が思いつかないだけだ。確かに私は不器用だが、今している話とそんなことには何の繋がりも筋道もない。

「そういう訳だ。きっとオマエにも得るものがある。家波標の恋人に――――」

 言い終わる前に拒否する。なんて無茶を言う人なのだろう。全く非科学的だ。全く幾何学的だ。

「嫌か。まあそれなら仕方あるまい。可愛い弟子に無理をさせるのは本望ではないからな。しかし一つ言わせて貰いたい。自分のことを見て見ぬ振りするのはやめろ。オマエ自身が損をする。オマエは言葉遊びが上手いから、容易く自分を偽ることが出来る。犬の肉を売りつけるのはよくないぞ」

 標くんを知ることこそ諦めてくれたようだが、私の内心の話題からは離れようとしない。私は標くんのことが好きではないのだ。何度だって繰り返す。好きではない好きではない好きではない。

「頑固者め。好きではないと言った所で無関心を装える訳でもないのだろう?」

 それは無理だ。好きではないにしても関心くらいはあるのだから。ならばどうする。

 簡単だ。嫌いになればいい。私はこれより標くんを嫌うこととする。標くんなんか嫌いだ。

 私は、標くんが嫌いですと師匠に念を押した。

「安易すぎるぞ。取り返しのつかないことにならんといいが……まあいい。説教はここまでにしよう。オマエも急いでいるんだしな。着いて来い」

 ようやく解放された。

 師匠は立ち上がると、裏口の方へと私を促した。


 私は暗澹とした気持ちで師匠の背中を追った。

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