婚約者の好きな色ばかり選んで?たら自分の好きな色がわからなくなっていました
ベルフォール公爵家の衣装部屋には、淡い色のドレスばかりが並んでいた。
薄青。
灰桜。
生成り。
どれも上品で、控えめで、決して悪くはない。
けれど、鏡の前に立つリシェル・ベルフォールは、そこに並ぶ色を見つめながら、小さく息を吐いた。
「お嬢様、本当にこちらでよろしいのですか?」
侍女のマリーが、遠慮がちに尋ねる。
手にしているのは、深い青のドレスだった。
夜空を閉じ込めたような、美しい色。
リシェルは一瞬だけ視線を向け、けれどすぐに逸らした。
「ええ。……その色は少し華やかすぎるわ」
そう答えると、マリーがほんの少しだけ寂しそうな顔をする。
けれど何も言わず、代わりに淡い藤色のドレスを差し出した。
「では、こちらを」
「ありがとう」
リシェルは静かに微笑む。
鏡の中の自分は、今日も穏やかで、落ち着いた公爵令嬢だった。
「やはり、君にはそういう色が似合う」
夜会の会場で、婚約者のセドリック・アルフェンが満足そうに笑う。
柔らかな金髪。
整った顔立ち。
誰もが認める好青年。
リシェルも、そう思っていた。
「ありがとうございます」
「落ち着いていて上品だ。派手な色より、ずっと君らしい」
その言葉に、リシェルは静かに頷いた。
昔は、もっと鮮やかな色が好きだった気がする。
深い青。
ワインレッド。
金糸の刺繍。
けれど、セドリックが「君には控えめな色が似合う」と言うたび、少しずつ選ばなくなっていった。
その方が、彼が喜ぶから。
婚約者として正しいのだと思っていたから。
「リリアーヌ嬢のドレス、素敵だったな」
不意に、セドリックが言った。
視線の先には、伯爵令嬢リリアーヌ・セイベルがいる。
薔薇色のドレスを纏い、華やかに笑っていた。
「明るい色がよく似合っていて、見ているだけで場が華やぐ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
けれどリシェルは、何も言わない。
言えなかった。
代わりに微笑んで、グラスを持ち直す。
そうしているうちに、自分の好きなものが、わからなくなっていた。
それからも、セドリックは変わらなかった。
「やっぱり、君には淡い色が似合う」
「その髪飾りは少し華やかすぎるかな」
「リリアーヌ嬢くらい明るい色だと、彼女には映えるんだけどね」
どれも責める言葉ではない。
むしろ穏やかで、優しい声音だった。
だからリシェルは、「嫌です」と言えなかった。
似合わないのなら、落ち着いた方がいいのなら。
婚約者として、そうあるべきなのだと思った。
いつしか衣装部屋からは、深い色のドレスが消えていった。
代わりに増えていくのは、淡く控えめな色ばかり。
薄青。
灰桜。
生成り。
鏡の前に立つたび、そこに映る自分が少しずつ薄れていく気がした。
それでもセドリックは満足そうに笑う。
「やっぱり、君はそういう方が落ち着くよ」
――本当に?
胸の奥で、小さな声が響く。
けれど、その答えを見つける前に、決定的な夜が訪れた。
春の王宮夜会。
無数のシャンデリアが、広間を眩い光で満たしている。
磨き上げられた床には光が溶け、色とりどりのドレスの裾が、音楽に合わせて揺れていた。
甘い花の香り。
グラスの触れ合う音。
人々の笑い声。
華やかな空気の中で、リシェルはいつものようにセドリックの隣へ立っていた。
淡い藤色のドレス。
控えめな銀糸刺繍。
婚約者が好む、“落ち着いた令嬢”の姿。
けれど本当は今夜のような光の中では、もっと深い色を纏ってみたかった。
夜空のような青を。
宝石みたいな色を。
そんな願いを抱いたことすら、誰にも言えないまま。
その時、不意に王妃オフィーリアが足を止めた。
「この装花、とても綺麗ね」
視線の先には、広間を彩る花々。
白を基調にした花の中へ、夜空のような深い青が差し色として添えられている。
まるで月夜を閉じ込めたみたいに、美しかった。
「誰が考えたの?」
侍従たちが戸惑う中、リシェルは小さく頭を下げる。
「恐れながら、私が少しだけ」
「……そう」
王妃はゆっくり目を細めた。
「白だけより、ずっと印象的だわ」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
初めて自分の“好き”を、美しいと言われた気がした。
けれど、その隣で、セドリックが穏やかに笑う。
「リシェルは、こういう裏方の気遣いが得意なんです」
褒めている、そのはずだった。
なのに、胸が苦しい。
シャンデリアの光が滲む。
――ああ、この人は。
私が“表に立つ”姿を、一度も望んでいなかったのだ。
その瞬間、リシェルの中で、何かが静かに切れた。
夜会の音楽は、変わらず華やかに流れ続けていた。
笑い声。
グラスの触れ合う音。
くるくると回る色鮮やかなドレス。
その中心にいるはずなのに、リシェルだけが、ひどく静かな場所へ取り残されたような気がした。
「リシェル?」
セドリックが不思議そうにこちらを見る。
その優しい声音に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
この人は、本当に悪い人ではない。
だから今まで、何も言えなかった。
自分が苦しいことすら。
「少し、風に当たってまいります」
「大丈夫か?」
「ええ」
リシェルは微笑み、そっと広間を離れた。
王宮の回廊を抜ける。
開け放たれた扉の向こうから、夜風が流れ込んできた。
熱を持っていた頬を、静かに冷やしていく。
庭園には、人影がほとんどなかった。
白い噴水が月明かりを受け、水面をきらきらと揺らしている。
淡い灯りの浮かぶ東屋。
夜露を纏った花々。
リシェルはゆっくり息を吐き、噴水のそばへ歩み寄った。
その時。
「……深い青が、お好きですか?」
不意に声がした。
振り返ると、そこに立っていたのはレオニス王太子だった。
夜色の髪。
静かな金の瞳。
王族らしい威圧感があるのに、不思議と空気は穏やかだった。
「で、殿下……!」
慌てて礼を取ろうとしたリシェルへ、レオニスが小さく首を振る。
「楽にしてください。今はただ、少し庭を歩いていただけです」
低く落ち着いた声。
リシェルは戸惑いながらも、ゆっくり姿勢を戻した。
「先ほどの装花」
レオニスは噴水へ視線を向ける。
「あなたが考えたのでしょう」
「……少しだけ、手を加えました」
「白の中へ、夜の青を差した」
水面へ月光が落ちる。
揺れる光が、まるであの装花の色みたいだった。
「美しかった」
その言葉に、胸が小さく震える。
「ありがとうございます」
「あなたは、ああいう色を選ぶ人だったんですね」
リシェルは返事ができなかった。
選ぶ人。
そう言われたのは、初めてだった。
今までずっと、誰かに“似合う”を決められてきたから。
レオニスは静かに続ける。
「けれど、今夜のあなたは随分控えめだ」
リシェルは思わずドレスの裾を見下ろした。
淡い藤色。
穏やかで、静かな色。
けれど今は、それが少しだけ遠く感じる。
「……この色が、婚約者の好みでした」
ぽつりと零れた声。
レオニスは何も言わず、ただ続きを待っていた。
「昔は、もっと違う色が好きだった気がするんです」
深い青。
夜の色。
宝石みたいな色。
でも、いつからだろう。
“似合わない”と言われるたび、選ばなくなった。
「気づけば、自分の好きな色がわからなくなっていました」
噴水の水音だけが、静かに響く。
レオニスはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり口を開く。
「……それは、とても惜しいことですね」
リシェルが顔を上げる。
王太子はまっすぐこちらを見ていた。
夜風が、東屋に絡む白い蔦を揺らしている。
噴水の水音だけが、静かに庭園へ響いていた。
レオニスの言葉は、不思議なくらい穏やかだった。
「あなたは、本来もっと色を知っている人だ」
リシェルは、ゆっくり目を伏せた。
そんなふうに言われたことは、一度もない。
いつだって、
「落ち着いた方がいい」「控えめな方が似合う」
「その色は少し華やかすぎる」
そう言われ続けてきた。
だから、選ばなくなった。
深い青も。
鮮やかな色も。
好きだと思う気持ちさえ。
「……私は、似合うものを選んでいただけです」
小さくそう言うと、レオニスは静かに首を傾ける。
「本当に?」
優しい声だった。
責める響きはない。
それなのに、胸の奥へ隠していたものを、そっと見つけられてしまったような気がした。
リシェルは噴水へ視線を向ける。
月光を受けた水面が、きらきらと揺れていた。
「……本当は」
言葉が、ゆっくり零れる。
「深い青が好きでした」
夜空みたいな色。
宝石みたいな色。
昔、母の宝石箱を開けては、夢中になって眺めていた色。
「でも、婚約者には似合わないと言われて」
「それで諦めた?」
「諦めたというより……」
リシェルは少しだけ困ったように笑う。
「その方が、喜んでくださると思っていました」
レオニスはしばらく黙っていた。
やがて、低い声で言う。
「あなたは、優しい人ですね」
その言葉に、胸が小さく痛んだ。
優しい。
そう言われるたび、自分を後回しにしてきた気がする。
けれどレオニスは続ける。
「ですが……」
金の瞳が、まっすぐリシェルを見る。
「誰かの好みに合わせて、自分の色を失う必要はありません」
夜風が髪を揺らす。
噴水の水音。
月光。
静かな庭園。
その中で、胸の奥へ落ちていく言葉だけが、やけに鮮明だった。
「……自分の色」
小さく呟くと、レオニスが微かに目を細める。
「ええ」
そして、ほんの少し笑った。
「少なくとも私は、あなたが選んだ青を、とても美しいと思いました」
その瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた気がした。
夜会の後、リシェルは父へ婚約解消を申し出た。
ベルフォール公爵は驚きながらも、静かに理由を聞いた。
そしてアルフェン侯爵家との正式な話し合いの場で、セドリックは困ったように言った。
「リシェルは落ち着いていて、理想的な婚約者でした」
その言葉を聞いた瞬間、
ベルフォール公爵が低く口を開く。
「娘は、“落ち着いていた”のではない」
静かな声だった。
「お前に合わせ続けていただけだ」
セドリックが息を呑む。
「先日の夜会で、あの子が色を選ぶ顔を久しぶりに見た」
父はゆっくり続ける。
「だから私は、娘の意思を尊重する」
婚約解消は円満な形で成立した。
けれど、セドリックは最後まで、どこか呆然としていた。
数日後。
ベルフォール公爵家へ、王妃から招待状が届く。
王宮で、侍女見習いとして働かないかという誘いだった。
「あなたは、空気へ色を添えることができる人だわ」
オフィーリア王妃は、穏やかにそう言った。
王宮の衣装室には、無数の色が溢れていた。
幾重にも重なる布地。 宝石。
レース。
花。
その中へ身を置くたび、リシェルの中で忘れていた感覚が、少しずつ戻ってくる。
夜会の花選び。
宝石の色合わせ。
灯りとドレスの調和。
最初は恐る恐るだった提案も、やがて自然に口をついて出るようになっていた。
「こちらの青を入れれば、白がもっと柔らかく見えると思います」
「月明かりなら、銀より白金の方が映えるかと」
リシェルの選ぶ色は、不思議と人々の視線を引いた。
「最近の王宮、素敵よね」
「空気が変わった気がするわ」
そんな噂が、少しずつ広がっていく。
そして、リシェル自身も変わっていった。
灰色ばかりだった衣装部屋へ、深い色が戻り始める。
夜空みたいな青。
熟れた果実みたいな赤。 金糸の刺繍。
鏡の前へ立つたび、知らなかった自分を見つけるようだった。
初夏の園遊会。
王宮の庭園は、無数の硝子灯に照らされていた。
白薔薇。
銀の装飾。
夜露を纏う花々。
その中で、深い青だけが夜空みたいに美しく浮かび上がっている。
リシェルは少し離れた場所から、その光景を見つめていた。
今夜のドレスは、深い青。
夜空を閉じ込めたみたいな色だった。
「……リシェル?」
振り返ると、セドリックが立っていた。
彼は言葉を失ったように、リシェルを見つめている。
「そんな色も、似合ったんだな」
その言葉に、リシェルは静かに瞬きをした。
不思議なくらい、胸は痛まなかった。
ああ、私は。
“似合わない”のではなく、選ばなかっただけだったのだ。
「リシェル」
その時、別の声が響く。
レオニス王太子だった。
濃紺の正装を纏った姿は、夜の庭園によく映えている。
彼は自然な仕草でリシェルの隣へ立つと、静かに庭園を見渡した。
「今夜も、美しいですね」
「ありがとうございます」
「あなたの選ぶ色は、夜を綺麗に見せる」
低い声が、柔らかく耳へ落ちる。
セドリックがわずかに息を呑む気配がした。
けれど、もう気にならなかった。
レオニスはゆっくりリシェルを見る。
「ようやく、あなたらしい色を纏うようになった」
その言葉に、リシェルは目を伏せる。
夜風が髪を揺らした。
噴水の水音。
硝子灯の光。
夜空みたいな青。
全部が優しく混ざり合っている。
「……まだ少し、勇気がいります」
小さく零すと、レオニスが微かに笑った。
「では、これから少しずつ慣れていけばいい」
穏やかな声音だった。
急かさない。
押しつけない。
ただ、リシェル自身の色を見てくれている。
「少なくとも私は、あなたが選ぶ色をもっと見てみたい」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
誰かのためではなく、誰かに好かれるためでもなく。
自分が好きだと思える色を選びたい。
そう思えたのは、初めてだった。
リシェルはゆっくり顔を上げる。
庭園の硝子灯が、夜露へ滲んでいた。
まるで世界そのものが、静かに輝いているみたいだった。
その光の中で、リシェルはようやく自分の色で笑った。




