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婚約者の好きな色ばかり選んで?たら自分の好きな色がわからなくなっていました

作者: 絵宮 芳緒
掲載日:2026/05/13

ベルフォール公爵家の衣装部屋には、淡い色のドレスばかりが並んでいた。


薄青。

灰桜。

生成り。


どれも上品で、控えめで、決して悪くはない。


けれど、鏡の前に立つリシェル・ベルフォールは、そこに並ぶ色を見つめながら、小さく息を吐いた。


「お嬢様、本当にこちらでよろしいのですか?」


侍女のマリーが、遠慮がちに尋ねる。


手にしているのは、深い青のドレスだった。


夜空を閉じ込めたような、美しい色。


リシェルは一瞬だけ視線を向け、けれどすぐに逸らした。


「ええ。……その色は少し華やかすぎるわ」


そう答えると、マリーがほんの少しだけ寂しそうな顔をする。


けれど何も言わず、代わりに淡い藤色のドレスを差し出した。


「では、こちらを」


「ありがとう」


リシェルは静かに微笑む。


鏡の中の自分は、今日も穏やかで、落ち着いた公爵令嬢だった。


「やはり、君にはそういう色が似合う」


夜会の会場で、婚約者のセドリック・アルフェンが満足そうに笑う。


柔らかな金髪。

整った顔立ち。


誰もが認める好青年。

リシェルも、そう思っていた。


「ありがとうございます」


「落ち着いていて上品だ。派手な色より、ずっと君らしい」


その言葉に、リシェルは静かに頷いた。


昔は、もっと鮮やかな色が好きだった気がする。


深い青。

ワインレッド。

金糸の刺繍。


けれど、セドリックが「君には控えめな色が似合う」と言うたび、少しずつ選ばなくなっていった。


その方が、彼が喜ぶから。

婚約者として正しいのだと思っていたから。


「リリアーヌ嬢のドレス、素敵だったな」


不意に、セドリックが言った。


視線の先には、伯爵令嬢リリアーヌ・セイベルがいる。


薔薇色のドレスを纏い、華やかに笑っていた。


「明るい色がよく似合っていて、見ているだけで場が華やぐ」


その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。


けれどリシェルは、何も言わない。

言えなかった。


代わりに微笑んで、グラスを持ち直す。


そうしているうちに、自分の好きなものが、わからなくなっていた。



それからも、セドリックは変わらなかった。


「やっぱり、君には淡い色が似合う」


「その髪飾りは少し華やかすぎるかな」


「リリアーヌ嬢くらい明るい色だと、彼女には映えるんだけどね」


どれも責める言葉ではない。

むしろ穏やかで、優しい声音だった。


だからリシェルは、「嫌です」と言えなかった。


似合わないのなら、落ち着いた方がいいのなら。


婚約者として、そうあるべきなのだと思った。


いつしか衣装部屋からは、深い色のドレスが消えていった。


代わりに増えていくのは、淡く控えめな色ばかり。


薄青。

灰桜。

生成り。


鏡の前に立つたび、そこに映る自分が少しずつ薄れていく気がした。


それでもセドリックは満足そうに笑う。


「やっぱり、君はそういう方が落ち着くよ」


――本当に?

胸の奥で、小さな声が響く。


けれど、その答えを見つける前に、決定的な夜が訪れた。


春の王宮夜会。


無数のシャンデリアが、広間を眩い光で満たしている。


磨き上げられた床には光が溶け、色とりどりのドレスの裾が、音楽に合わせて揺れていた。


甘い花の香り。

グラスの触れ合う音。

人々の笑い声。


華やかな空気の中で、リシェルはいつものようにセドリックの隣へ立っていた。


淡い藤色のドレス。

控えめな銀糸刺繍。


婚約者が好む、“落ち着いた令嬢”の姿。


けれど本当は今夜のような光の中では、もっと深い色を纏ってみたかった。


夜空のような青を。

宝石みたいな色を。


そんな願いを抱いたことすら、誰にも言えないまま。


その時、不意に王妃オフィーリアが足を止めた。


「この装花、とても綺麗ね」


視線の先には、広間を彩る花々。


白を基調にした花の中へ、夜空のような深い青が差し色として添えられている。


まるで月夜を閉じ込めたみたいに、美しかった。


「誰が考えたの?」


侍従たちが戸惑う中、リシェルは小さく頭を下げる。


「恐れながら、私が少しだけ」


「……そう」


王妃はゆっくり目を細めた。


「白だけより、ずっと印象的だわ」


胸の奥が、じんわりと熱くなる。


初めて自分の“好き”を、美しいと言われた気がした。


けれど、その隣で、セドリックが穏やかに笑う。


「リシェルは、こういう裏方の気遣いが得意なんです」


褒めている、そのはずだった。


なのに、胸が苦しい。

シャンデリアの光が滲む。


――ああ、この人は。


私が“表に立つ”姿を、一度も望んでいなかったのだ。


その瞬間、リシェルの中で、何かが静かに切れた。


夜会の音楽は、変わらず華やかに流れ続けていた。


笑い声。

グラスの触れ合う音。

くるくると回る色鮮やかなドレス。


その中心にいるはずなのに、リシェルだけが、ひどく静かな場所へ取り残されたような気がした。


「リシェル?」


セドリックが不思議そうにこちらを見る。


その優しい声音に、胸の奥が少しだけ痛んだ。


この人は、本当に悪い人ではない。


だから今まで、何も言えなかった。

自分が苦しいことすら。


「少し、風に当たってまいります」


「大丈夫か?」


「ええ」


リシェルは微笑み、そっと広間を離れた。


王宮の回廊を抜ける。


開け放たれた扉の向こうから、夜風が流れ込んできた。


熱を持っていた頬を、静かに冷やしていく。


庭園には、人影がほとんどなかった。


白い噴水が月明かりを受け、水面をきらきらと揺らしている。


淡い灯りの浮かぶ東屋。

夜露を纏った花々。


リシェルはゆっくり息を吐き、噴水のそばへ歩み寄った。


その時。


「……深い青が、お好きですか?」


不意に声がした。

振り返ると、そこに立っていたのはレオニス王太子だった。


夜色の髪。

静かな金の瞳。


王族らしい威圧感があるのに、不思議と空気は穏やかだった。


「で、殿下……!」


慌てて礼を取ろうとしたリシェルへ、レオニスが小さく首を振る。


「楽にしてください。今はただ、少し庭を歩いていただけです」


低く落ち着いた声。


リシェルは戸惑いながらも、ゆっくり姿勢を戻した。


「先ほどの装花」


レオニスは噴水へ視線を向ける。


「あなたが考えたのでしょう」


「……少しだけ、手を加えました」


「白の中へ、夜の青を差した」


水面へ月光が落ちる。


揺れる光が、まるであの装花の色みたいだった。


「美しかった」


その言葉に、胸が小さく震える。


「ありがとうございます」


「あなたは、ああいう色を選ぶ人だったんですね」


リシェルは返事ができなかった。


選ぶ人。

そう言われたのは、初めてだった。


今までずっと、誰かに“似合う”を決められてきたから。


レオニスは静かに続ける。


「けれど、今夜のあなたは随分控えめだ」


リシェルは思わずドレスの裾を見下ろした。


淡い藤色。

穏やかで、静かな色。


けれど今は、それが少しだけ遠く感じる。


「……この色が、婚約者の好みでした」


ぽつりと零れた声。

レオニスは何も言わず、ただ続きを待っていた。


「昔は、もっと違う色が好きだった気がするんです」


深い青。

夜の色。

宝石みたいな色。


でも、いつからだろう。

“似合わない”と言われるたび、選ばなくなった。


「気づけば、自分の好きな色がわからなくなっていました」


噴水の水音だけが、静かに響く。


レオニスはしばらく黙っていた。

やがて、ゆっくり口を開く。


「……それは、とても惜しいことですね」


リシェルが顔を上げる。

王太子はまっすぐこちらを見ていた。


夜風が、東屋に絡む白い蔦を揺らしている。

噴水の水音だけが、静かに庭園へ響いていた。


レオニスの言葉は、不思議なくらい穏やかだった。


「あなたは、本来もっと色を知っている人だ」


リシェルは、ゆっくり目を伏せた。

そんなふうに言われたことは、一度もない。


いつだって、

「落ち着いた方がいい」「控えめな方が似合う」

「その色は少し華やかすぎる」

そう言われ続けてきた。


だから、選ばなくなった。


深い青も。

鮮やかな色も。

好きだと思う気持ちさえ。


「……私は、似合うものを選んでいただけです」


小さくそう言うと、レオニスは静かに首を傾ける。


「本当に?」


優しい声だった。

責める響きはない。


それなのに、胸の奥へ隠していたものを、そっと見つけられてしまったような気がした。


リシェルは噴水へ視線を向ける。


月光を受けた水面が、きらきらと揺れていた。


「……本当は」


言葉が、ゆっくり零れる。


「深い青が好きでした」


夜空みたいな色。

宝石みたいな色。


昔、母の宝石箱を開けては、夢中になって眺めていた色。


「でも、婚約者には似合わないと言われて」


「それで諦めた?」


「諦めたというより……」


リシェルは少しだけ困ったように笑う。


「その方が、喜んでくださると思っていました」


レオニスはしばらく黙っていた。


やがて、低い声で言う。


「あなたは、優しい人ですね」


その言葉に、胸が小さく痛んだ。


優しい。

そう言われるたび、自分を後回しにしてきた気がする。


けれどレオニスは続ける。


「ですが……」


金の瞳が、まっすぐリシェルを見る。


「誰かの好みに合わせて、自分の色を失う必要はありません」


夜風が髪を揺らす。

噴水の水音。

月光。

静かな庭園。


その中で、胸の奥へ落ちていく言葉だけが、やけに鮮明だった。


「……自分の色」


小さく呟くと、レオニスが微かに目を細める。


「ええ」


そして、ほんの少し笑った。


「少なくとも私は、あなたが選んだ青を、とても美しいと思いました」


その瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた気がした。


夜会の後、リシェルは父へ婚約解消を申し出た。


ベルフォール公爵は驚きながらも、静かに理由を聞いた。


そしてアルフェン侯爵家との正式な話し合いの場で、セドリックは困ったように言った。


「リシェルは落ち着いていて、理想的な婚約者でした」


その言葉を聞いた瞬間、

ベルフォール公爵が低く口を開く。


「娘は、“落ち着いていた”のではない」

静かな声だった。


「お前に合わせ続けていただけだ」


セドリックが息を呑む。


「先日の夜会で、あの子が色を選ぶ顔を久しぶりに見た」


父はゆっくり続ける。


「だから私は、娘の意思を尊重する」


婚約解消は円満な形で成立した。

けれど、セドリックは最後まで、どこか呆然としていた。



数日後。

ベルフォール公爵家へ、王妃から招待状が届く。


王宮で、侍女見習いとして働かないかという誘いだった。


「あなたは、空気へ色を添えることができる人だわ」


オフィーリア王妃は、穏やかにそう言った。


王宮の衣装室には、無数の色が溢れていた。


幾重にも重なる布地。  宝石。

レース。

花。


その中へ身を置くたび、リシェルの中で忘れていた感覚が、少しずつ戻ってくる。


夜会の花選び。

宝石の色合わせ。

灯りとドレスの調和。


最初は恐る恐るだった提案も、やがて自然に口をついて出るようになっていた。


「こちらの青を入れれば、白がもっと柔らかく見えると思います」 


「月明かりなら、銀より白金の方が映えるかと」


リシェルの選ぶ色は、不思議と人々の視線を引いた。 


「最近の王宮、素敵よね」


「空気が変わった気がするわ」


そんな噂が、少しずつ広がっていく。


そして、リシェル自身も変わっていった。


灰色ばかりだった衣装部屋へ、深い色が戻り始める。 


夜空みたいな青。

熟れた果実みたいな赤。  金糸の刺繍。


鏡の前へ立つたび、知らなかった自分を見つけるようだった。


初夏の園遊会。

王宮の庭園は、無数の硝子灯に照らされていた。


白薔薇。

銀の装飾。

夜露を纏う花々。


その中で、深い青だけが夜空みたいに美しく浮かび上がっている。


リシェルは少し離れた場所から、その光景を見つめていた。


今夜のドレスは、深い青。

夜空を閉じ込めたみたいな色だった。


「……リシェル?」


振り返ると、セドリックが立っていた。


彼は言葉を失ったように、リシェルを見つめている。


「そんな色も、似合ったんだな」


その言葉に、リシェルは静かに瞬きをした。

不思議なくらい、胸は痛まなかった。


ああ、私は。

“似合わない”のではなく、選ばなかっただけだったのだ。


「リシェル」

その時、別の声が響く。

レオニス王太子だった。


濃紺の正装を纏った姿は、夜の庭園によく映えている。


彼は自然な仕草でリシェルの隣へ立つと、静かに庭園を見渡した。


「今夜も、美しいですね」


「ありがとうございます」


「あなたの選ぶ色は、夜を綺麗に見せる」


低い声が、柔らかく耳へ落ちる。

セドリックがわずかに息を呑む気配がした。


けれど、もう気にならなかった。


レオニスはゆっくりリシェルを見る。


「ようやく、あなたらしい色を纏うようになった」


その言葉に、リシェルは目を伏せる。


夜風が髪を揺らした。

噴水の水音。

硝子灯の光。

夜空みたいな青。


全部が優しく混ざり合っている。


「……まだ少し、勇気がいります」


小さく零すと、レオニスが微かに笑った。


「では、これから少しずつ慣れていけばいい」

穏やかな声音だった。


急かさない。

押しつけない。

ただ、リシェル自身の色を見てくれている。


「少なくとも私は、あなたが選ぶ色をもっと見てみたい」


胸の奥が、じんわりと熱くなる。


誰かのためではなく、誰かに好かれるためでもなく。

自分が好きだと思える色を選びたい。


そう思えたのは、初めてだった。


リシェルはゆっくり顔を上げる。


庭園の硝子灯が、夜露へ滲んでいた。


まるで世界そのものが、静かに輝いているみたいだった。


その光の中で、リシェルはようやく自分の色で笑った。

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― 新着の感想 ―
すごく色に詳しくて綺麗な表現ですごいなと。羨ましい。 主人公の気持ちの、その心情の表現のうまさに引き込まれてしまいました。 しかし、酷い婚約者だ。別れて正解だわ。我慢は良くない。自分らしく輝いて生きる…
 リリアーヌさんと比較しては露骨に罵倒する訳ではない・オフィーリアさんに浮気やら過剰な寄り添いする訳でもない、しかし、色などについての好みや立ち位置、特定の物差しをじわじわ押し付け、じわじわリシェルさ…
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