32.私が欲しいもの
私は思わず息を止めた。
ルート様の表情が、見る間に曇っていくのがわかる。
「……」
返事はない。
ライナ様は、まるで気づいていないかのように、更に追い打ちをかける。
「婚約者なんだから、当然あるか。指輪とか、花とか、お菓子とか? 何かひとつくらいは――」
「……」
沈黙の空気が、冷たく部屋に響く。
ルート様は視線を落としたまま、何も言わない。
……まずい。
胸の奥がひやりとする。
私は、ルート様から何かをいただいたことはない。
ルート様はいつだって真面目で、誠実で、私を気遣ってくれる。
けれど、形あるものをもらった記憶は――ない。
「……え? まさか何もないのか?」
「……」
ライナ様の素直すぎる驚きに、私は慌てて声を上げた。
「わ、私は別に、何かが欲しいわけではありませんので!」
それは本心だ。本当に、何か欲しいとか、何ももらったことがないのを、不満に感じたことはない。
けれど、今この場でそれを突きつけるのは……少し残酷な気がする。
「ふーん。じゃあ、セドリックに先を越されたな?」
「……っ」
ライナ様の囁くような言葉に、ルート様がぎゅっと拳を強く握るのがわかった。
「俺だって……!」
「?」
そして、たまらず言い返そうとしたルート様は、はっとして口を閉じた。
「……いえ、なんでもありません」
静かに落とされたその一言が、やけに重く、胸に沈む。
今、何かを言いかけた。何か、言いたいことがあったように思う。
「ルート様――」
「ま、とりあえず受け取ってあげなよ。〝礼〟なんだから」
ルート様に声をかけようとした直後、ライナ様が口を開き、私の声はかき消えた。
「突き返したら、あいつはまた何か理由をつけて押し付けてくる。だったら素直に〝礼として〟受け取っておいたほうがいいと思うな」
「……ですが」
「マレーネが負い目に思う必要はない。助けたのは事実でしょう? エーレンベルク公爵家にとっては、これくらい大した額じゃないし」
「……」
軽い口調なのに、不思議と逆らえない。殿下だからとか、そういう理由ではなく。
私はもう一度、箱の中のドレスを覗いた。
――礼。
確かに、そう思えば、少しだけ重みが形を変える気がした。
「……わかりました。では、ひとまずお預かりします」
そう答えると、ライナ様は満足そうに頷いた。
その後ろで、ルート様は――何かを言いかけて、やめた。
唇がわずかに動いたのに、声にはならなかった。
「それじゃあ、私たちも戻ろうか、ルート」
「……はい」
公爵家の使用人を見送ると、ライナ様も執務のため自室に足を向ける。
ルート様は短く返事をして、去り際に一瞬だけ私を見た。
「あ……」
改めて声をかけようと思ったけれど、すぐに背を向けてライナ様の後に続くルート様。
その背中が、やけに切なく見える。
「……」
部屋には、宝石とドレスの煌めきだけが残った。
すごく華やかなのに。どうして胸の奥は、こんなにも落ち着かないのだろう。
私は、そっとドレスに触れた。
どう見ても、これは〝正ヒーロー〟らしい、贈り物。
客観的に考えると、ライナ様が言っていたように、〝さすがだな〟と思ってしまう。
婚約者からは一度もプレゼントをもらったことがないヒロインが、正ヒーローにたくさんの高価な贈り物をもらう。
……なんという、お約束展開。
確かに、素敵だ。
私のためにこんなことをしてくれるなんて、女性として素直に嬉しい。
でも……今の私は、こんなに高価なアクセサリーやドレスよりも。
もっと欲しいものがある。
「……私は、本当にヒロインだよね?」
正ヒーローから愛されても、こんなに素敵な贈り物をいただいても、ちっともときめかない。
私は読者ではない。当事者だ。
高価な贈り物はいらない。
それよりも、ルート様が私をどう思っているのか――その気持ちが知りたい。
「……」
ドレスはやわらかくて、綺麗で――少しだけ、冷たかった。
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