26.なぜ私の名を?
それからしばらく、夜会は穏やかに、そして楽しく過ぎていった。
何か起きると思ったけれど、大きな事件は起きていない。
音楽は軽やかで、笑い声があちこちに弾けている。
仮面のおかげで、みんなどこか肩の力が抜けているように見えた。
ライナ様も、数人の令嬢に囲まれて、楽しそうに談笑している。
……よかった。
そんな姿を見て嬉しく思うなんて、私もすっかりライナ様の側付き侍女が板についてきたなぁ……。
思わず、苦笑してしまう。
ルート様は相変わらず、ライナ様から視線を外さない。
私と会話しながらも、さりげなくライナ様と適度な距離感を保ち続けているから、さすがだ。
「あの……」
頃合いを見て、私はそっとルート様に声をかけた。
「ちょっと、お手洗いに行ってきます」
「一人で大丈夫か?」
「はい、すぐ戻りますので」
子供じゃないんだから、それくらい平気。
そんなことを考えながら会場を抜け、静かな廊下を歩く。
賑やかな音楽が少しずつ遠ざかっていく。
「はぁ……」
社交の場は、気を張るせいか少し疲れる。
外の空気が吸いたくなった私は、人気のない扉を押し開けて、庭に出た。
夜風が頬を撫で、空には美しい月が浮かんでいる。
少しだけ庭を歩いてから戻ろうと、奥のほうへ進んでいくと――。
やわらかな灯りの下に、ひときわ目立つ集団があった。
「どうしたのかしら?」
中心には、背が高くて肩幅ががっしりとした男性。
その人を囲うように、数人の令嬢が何か言っている。
「ねぇ、その仮面、少しだけ外してくださらない?」
「目元をもっと、よく見せてよ」
「ねぇ、お願い」
「それは……」
甘い声が重なり、白い手が彼に伸びている。
令嬢たちは酔っているのか、高い声で笑いながら、とても楽しげだ。
けれど男性は、どう見ても困っていた。
こんなところまで逃げてきたのだろう。それでも追いかけられてしまったのね。
仮面舞踏会では、仮面を外させようとするのは明確なマナー違反だ。
彼女たちはそれをわかっているのだろうか。
あの男性は、気が弱いのかしら。それとも、はっきりと断ることができない、優しい人なのかも。
とにかく、数人の令嬢に捕まって、困っているのは明白。
気づけば私は、一歩前に出ていた。
「それは、マナー違反でしてよ?」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
仮面をつけているからかしら? 私自身も、いつもより強気でいられる。
「……何よ、あなた」
「あなたには関係ないでしょう?」
令嬢たちが、きょとんとしながら、こちらを見る。
「今夜は仮面を外してはならない決まりなの、ご存じないの?」
「本人がいいなら、いいのよ!」
「駄目よ。それに、彼は困っているように見えるけど?」
「……」
一瞬の沈黙。
令嬢たちの視線が、私に集まる。
「……いいわよ、もう。行きましょう」
「なんかしらけちゃった」
「つまんないわ」
令嬢たちはブツブツ文句を言いながらも、諦めた様子で会場に戻っていった。
大事にならなくてよかった。
「あなた、大丈夫ですか?」
彼女たちの背中を見送り、囲まれていた男性を振り返る。
「ああ、助かった――」
仮面を押さえて顔を伏せていた男性が、その手を取り、顔を上げた。
その直後だった。
ぱさり、と。
彼の目元から、仮面が落ちた。
令嬢たちが無理やり取ろうと、手を伸ばしていたら、たぶん紐が外れてしまったのね。
「あ――」
至近距離で、紫色の瞳と目が合う。
月光を反射するような、淡い銀色の髪。
近くで見ると、思った以上に背が高い。体格もよく、騎士であるルート様よりも長身でたくましい、美丈夫だ。
一瞬、本当に一瞬だけ、時間が止まったような感覚がした。
……この人、どこかで見たことがあるような……でも、どこでだったかしら?
名前は、まったくわからない。
でも、この銀髪は――。
「……マレーネ」
「え?」
ぽつり、と。まるで心の声がこぼれるみたいに、彼は私の名を口にした。
「なぜ、私の名前を……」
「俺は、ずっと君と話がしたかった」
「……え?」
心臓が、どくん、と跳ねる。
え、待って。
この人……初対面だよね?
私は仮面をつけたままだよね?
名乗ってもいないよね?
それなのに、彼はまるで切羽詰まったような表情で、まっすぐに私を見つめている。
仮面をつけているのに、私が〝マレーネ〟だと、一瞬でわかったというの?
も、もしかして――。
頭の中で、嫌な予感が全力疾走し始める。
同時に、心臓がドクドクと早鐘を打つ。
「以前……お会いしたことがありましたっけ?」
それでも私は、必死で平静を装って尋ねた。
「俺は、ずっと君を見ていたんだ」
「……」
それ、答えになっていますか?
「この機会を逃すわけには、いかないんだ」
「あの、落ち着いてください……」
彼は、なんだかとても必死な様子だ。一方的に言葉を続けている。
絶対に私を逃がさないとでも言いたげな視線を向けて、一切逸らそうとしない。
銀髪……、明らかにモブではないこの見た目、オーラ……そして、この展開――。
ついに銀髪と出会ってしまった……!続きます!!




