22.夜のハプニング
今夜、マレーネの部屋へ来るまで。俺は何度も足を止めかけた。
殿下がようやく休まれ、城内が静まり返ったあと――。
この時間に、婚約者とはいえ、女性の部屋を訪ねるのは軽率ではないか。
そんな考えが頭に浮かんでは、扉の前で立ち尽くし、引き返そうとした。
それでも、少しだけでいい。
マレーネの顔を見て、「おやすみ」を言えるだけでもいい。
そう思い、勇気を振り絞って扉をノックした――。
「疲れているだろうに、突然すまなかった。ゆっくり休んでくれ」
「はい」
結果的に、思った以上に会話をすることができた。
だが、いくら婚約者とはいえ、こんな時間に女性の部屋に長居するのはよくない。それに、マレーネは疲れているはずだ。
だから、今日のところは長居をせずに立ち上がった。
……というか、寝衣姿のマレーネはどこか無防備で……。
はっきり言って、可愛すぎるのだ。
俺には刺激的過ぎて、長居したら変な気を起こしてしまいそうだった。
マレーネも俺を見送るために立ち上がった。
ともに扉に向かって歩き始めた、そのとき――。
ピカッ――と、一瞬外が光り、なんだ? と思って窓のほうを見た次の瞬間、
ドォン――!
夜を切り裂くような雷鳴が、部屋全体を震わせた。
「……っ!」
驚いた拍子に、マレーネの肩がびくりと跳ねる。
「大丈夫か――?」
近かった。王宮近くに、雷が落ちたようだ。
慌てて彼女に声をかけると、俺の手よりも早く、マレーネの指先が、俺の夜着を掴んだ。
「マレーネ……」
ドクン、と、心臓が大きく鳴る。
「……す、すみません。びっくりして……」
細い指が震えている。
それでも、すぐに手を離そうとした彼女を、俺は止めてしまった。
正確には、その手首を掴み、自分に引き寄せていたのだ。
「謝ることじゃない」
できるだけ、落ち着いた声で囁く。
その距離は、あまりにも近い。
雷鳴が、もう一度遠くで唸った。
その音に、マレーネが小さく息を吸い、俺の袖を再び強く握った。
「雷が、苦手で……」
普段は明るくて元気のいいマレーネが、怯えている――。
俺はかつてないほどの、庇護欲を掻き立てられた。
彼女を守りたい――。
怒られそうだが、騎士として、殿下にもここまで強くそう思ったことはない。
掴まれた袖の上から、そっと手を重ねる。
「大丈夫、俺がここにいる。雷が止むまで、一緒に」
マレーネが、そっと顔を上げた。
……近い。近すぎる。
息遣いも、瞬きも、全部わかる。
「ありがとう、ございます……」
「当然だ」
「ルート様の心臓も、速いですね」
「……っ、聞かなかったことにしてくれ」
「ふふっ」
俺の鼓動が速いのは、雷が怖いからではないのだが……。
マレーネが笑ってくれるなら、なんだっていい。
やがて、少しずつ雷の音が遠ざかっていった。
マレーネの指から、力が抜けていくのがわかる。
「そろそろ、落ち着いたようだな」
それは、紳士の言葉だった。
本当はいつまででもこうしていたかったが、さすがにそんなわけにはいかない。
だから、そう言って、俺のほうから離れようとしたのだが――。
「その……もう少し、このままで……」
「……!」
思わず、息を呑んだ。
マレーネの指が、俺の夜着の端を躊躇いがちに掴んでいる。
先ほどよりも弱く。だが、確かに。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
抱き寄せたい。
このまま彼女を腕の中に閉じ込めて、彼女を全身で感じたい。
だが、今ここでそんなことをして、果たしてそれだけで済ませられるだろうか?
そんなことをしたら、俺はもう止まらなくなるかもしれない。
彼女はただ怯えているだけだというのに――。
そんな弱みに付け込むようなこと、していいはずが……!
「……っ、マレーネ」
「はい……っ」
名前を呼ぶ声が、思ったよりも低くなる。
自分でもわかるほど、理性が削られていた。
もう一歩、踏み出してしまえば。
もう少しだけ、距離を詰めてしまえば――。
彼女の肩に手を置く。
想像以上に華奢なその肩は、薄い寝衣一枚で。彼女のやわらかく、あたたかい温もりが伝わってきた。
「……」
「ルート、様……?」
不安げながらも、じっと俺を見上げてくれるマレーネ。
逃げもせず、嫌がりもせず、まっすぐに俺を見つめてくれる瞳。
俺たちは、婚約している仲だ――。
それが背中を押すように、彼女の愛らしい唇に、そっと視線を落としたとき。
〝キーーーーン〟
マレーネの胸元で、殿下の魔石が淡く光り、高い音を発した。
「あ、ライナ様だわ」
「……」
「はい、ライナ様。どうされましたか?」
『マレーネ。起きているな』
マレーネはすぐに仕事モードに切り替わり、魔石に応答する。
『雷はもう収まったようだが、問題ないか?』
いつもと同じ、あまりに空気を読まない殿下の声。
……いや、まさか。わざとか?
まさか監視されているわけじゃないよな?
「こちらは大丈夫です、ライナ様は?」
『よかった、私も大丈夫だ。それと――』
マレーネの隣で天井を仰いだ俺の耳に、殿下の低い声が聞こえる。
『ルートに、夜更かしは感心しないと言っておいてくれ』
「えっ? は、はい……」
『それじゃあ、おやすみ』
そこで、通信は切れた。
絶対、わかっている。
あの人は、全部。
殿下の、悪い笑顔が目に見えるようだ。
「あの……ルート様……」
「すまない、俺は部屋に戻る。今度こそ、ゆっくり休んでくれ」
「はい」
「おやすみ、マレーネ」
「……おやすみなさい、ルート様」
扉を閉める直前、彼女が小さく微笑んだのを、俺は見逃さなかった。
――ああ。
殿下からの通信がなければ、俺はどこまで踏み込んでいただろう。
そう思いながら、胸の鼓動がなかなか収まらないまま、俺は一人、静かな夜を過ごしたのだった。
もしかしたらライナも心配してマレーネの部屋の前まで来ていたのかもしれない……!?




