14.婚約者の我慢
俺はずっと、婚約者であるマレーネと、必要以上に触れ合わないようにしてきた。
それは彼女を避けているからではない。
むしろ、その逆だ。
彼女がそばにいると、自然と目で追ってしまうし、声をかけられれば嬉しくなる。
笑いかけられれば胸が軽くなり、落ち込んだ顔を見れば、なんとかしてやりたいと思った。
俺たちの婚約は、政略的なものだった。
貴族の間では当たり前に行われること。
父が決めたことに、俺は反対しなかった。
俺には〝王子の秘密を守る〟という、何より優先すべき大切な任務があった。
だから、むしろ愛のない婚約者がいたほうが、動きやすいとも思った。
しかし――。
マレーネを見ているうちに、その考えは簡単に崩れていった。
……好きなのだ。
俺は、マレーネのことを、しっかりと愛してしまった。
だが、婚約者として、騎士として、紳士として。
結婚するまでは、軽々しく触れてはいけないと、自分に言い聞かせてきた。
理由はそれだけではない。
マレーネにも、ライナ殿下の秘密がバレるわけにはいかなかった。
彼女を巻き込みたくもない。
だから、あえて壁を作っていたのだ。
しかし、ライナ殿下が成長するにつれて、俺と殿下の距離が近すぎる、〝二人はできている〟などという噂が囁かれるようになった。
やがてそれは、マレーネの耳にも入ったのだろう。
不安そうな視線を向けられるたび、胸が締めつけられた。
それでも俺は、「信じてくれ」としか言えなかった。
詳しい事情を説明することが、できなかったから。
すべては彼女を守るため。彼女を巻き込まないため。
そう、自分に言い聞かせながらも――。
不器用な自分が、どうしようもなく憎かった。
ライナ殿下はあれで、そんな俺のもどかしさに気づいていたのだろう。
俺がどれほど追い詰められていたか。
マレーネがどれほど不安を抱えていたか。
殿下は一見、軽く振る舞っているが、人の苦しみにとても敏感な方だ。
何より、ご自身が誰よりも辛い思いを抱えて生きてこられたのだから。
俺はその姿を一番近くで見てきた。
だからこそ、殿下をお守りしたいという気持ちも、本物だ。
もしかすると殿下は、あえてマレーネに秘密が露見する流れを作ったのかもしれない。
秘密を知る信頼できる侍女がほしかった、という理由もあるだろう。
正直、マレーネに殿下の秘密がバレて、俺はほっとした。
これで、もう彼女を不安にさせることはなくなる。
俺が殿下と浮気をしているという誤解が解ける。
だから、殿下には感謝している。
……それでも。
「――近いんですよね」
その日の仕事を終え、先にマレーネを自室に帰してから。
俺は殿下の前で、思わず心の声をぽつりと呟いた。
「何か言ったか? ルート」
殿下は、少しマレーネと距離が近すぎる。
「俺の婚約者なのに……」
「なんだ。さっきから、何をぶつぶつ言っている?」
自覚していなかったが、どうやら俺は、思っていた以上に独占欲が強いらしい。
「殿下……」
「ん?」
「マレーネに、ベタベタしすぎではないですか?」
執務机に座っている殿下の正面で、俺は胸の内を口にした。
「……嫉妬深い男はモテないらしいぞ」
「俺はすでに彼女の婚約者なので」
「婚約しているからと、その立場にあぐらをかくのはどうなんだ?」
「そんなつもりはありませんけど……」
傲慢な男になるつもりはない。
マレーネのことは大切に想っているし、大切にしたい。
大切すぎて俺は簡単に触れられないのに、目の前で殿下にベタベタされると、俺の我慢が無駄に感じられてしまう。
「私が寝た後なら、仲良くしていいと言っただろ」
「……それとこれとは別ですよ」
確かにこれは嫉妬だ。だが、自分もマレーネに触れられればいい、という話ではない。
「せっかく部屋を隣にしてやったんだ。夜這のひとつでもしたらいい」
「!?」
はっ、と短く息を吐きながら、とんでもない発言が飛び出した。
「意味をわかって言ってらっしゃいますか……!?」
「馬鹿にするな。私だったら、そうするね」
「……〜〜っ」
いつものように軽口を叩く殿下は、完全に人ごとだと思っている。
だが、じとっ……とした視線を向けた俺に、殿下はふと切なげに視線を下げた。
「……私は、おまえが羨ましいよ」
「え――?」
小さく息を吐くと、殿下は続ける。
「愛せる婚約者がいて」
「……」
「人前で堂々と一緒にいることが許されて」
淡々とした口調なのに、その表情にはどこか寂しさが滲んでいる。
殿下は、年頃になっても自由に女性と関わることができない。
その正体が知られてはならないからだ。
恋愛対象は女性なのに、自分を口説いてくるのは男ばかり。
そういう者たちの前でも、殿下は女性のふりをし続けなければならない。
それがどれほど殿下にとってストレスになっているのか。俺には完全に理解できないだろう。
「殿下……」
「だから、絶対マレーネを手放すなよ」
もしかして、マレーネを自分の侍女にしたのも、部屋を俺の隣に用意してくれたのも、すべて俺のためだったのではないか。
まさか、俺の前でマレーネと親しくしているのも、俺に火をつけるためにわざと……?
そんな考えが、胸をよぎる。
「殿下のお気持ち、しかと受け取りました」
「まっ、もし手放したら、容赦なく私がもらうけどな」
じん……と、胸を熱くしたというのに。殿下はすぐにそんな冗談を口にする。
「……ご冗談はやめてください」
「冗談じゃない」
笑っているのか、いないのか。判別のつかない表情。
しかし〝男〟の声で、はっきりとそう言い切る殿下。
「殿下を敵に回すのだけは、勘弁願います」
「……わかってるよ」
軽く返されたその一言が、余計に胸に刺さる。
――半分は、本気だ。
「俺も、殿下のおかげでくだらない誇りは捨てようと思えましたよ」
「……そうか。それはよかったな」
今の言葉も、本気でそう思ってくれているのか怪しいところだが、殿下は書類に視線を落とした。
……結婚前だから、なんだというんだ。
俺たちは、すでに婚約している。
俺は、マレーネが好きだ。
ならばこの気持ちを伝えることに、彼女との距離を縮めることに――なんの罪もないはずだ。
我慢することだけが、紳士的であるとは言えない。
紳士であることと、想いを伝えることは、決して相反するものではないのだから。
次回、お忍び外出……!お楽しみに!




