14 泉に立つ女
まだ陽は高いけど、山に入ると木々が頭上を覆い、日光が遮られて薄暗くなる。
その分だけひんやりとして、さっきまでの村の熱気が嘘みたいだ。
村長に教えられた泉を目指し、山道とも呼べない獣道を進んでいく。
足元は木の根でぼこぼこしていて、溜まった落ち葉で滑りやすい場所も多い。
転ばないように注意して進む。
枝葉は俺の背よりも少し高い位置で刈られていて、意外と視界は悪くない。
切断面から、鉈のような刃物で切られたことが分かる。
村長が言っていた通り、村人もこの道を使って泉に通っているのだろう。
背後を確認すると、セツナはいつもの涼しい顔でついてきていた。
白衣に緋袴という巫女のような格好なのに、裾一つ汚さずに歩いているのはさすがだ。
足元の根をひょいひょいと避け、濡れた岩の上でも足を滑らせる気配がない。
まあ、慣れているんだろう。
俺の村にいた時、セツナは森の中で暮らしていた。
俺が生まれるよりもっと前から、あの森にいたという話を聞いたこともある。
いわば山や森は、彼女にとって庭みたいなものかもしれない。
「あとどれくらいかのう?」
そんな彼女は、しかし歩くのが好きというわけではないらしい。
露骨に嫌そうな顔をしている。
「もう少しじゃないかな?」
「さっきからそればかりじゃ。妾は疲れたぞ」
明らかに俺より体力のある大妖様が何か言っているが、適当に受け流しておく。
「たくさん歩けば、酒も美味くなるんじゃないか?」
「……そういう考え方もあるか」
一応納得してくれたようだ。単純で助かる。
そういえば修業時代、「体力作りじゃ」とか言うセツナを背負って山道を歩かされたことがあった。
途中で足を滑らせて転んだ拍子に、セツナの顔面が岩に激突したことがある。
それ以来、彼女をおんぶすることはなくなった。
踏みしめる感触が、乾いた土から少し柔らかくしっとりとした土へ、だんだんと変わっていった。
しばらく歩くと、湿気が濃くなってきたのが分かる。
「ふむ。水の匂いがするのう」
セツナもそう言うので、目的の泉は近そうだ。
同時に、空気の質も変わっていくのを感じた。
肌を内側から撫でられるというか、なんとも言えない感覚だ。
「……妖気が濃くなっている気がする」
「シンもだいぶ慣れてきたのう」
セツナがくすりと笑う。
「以前は、妖気が濃い場所に近づくだけで顔色を変えとったのにな」
「いつの話だ。さすがにもう慣れたよ」
用心しつつ、足音をできる限り立てないように進む。
枝や枯れ葉を踏まないように足を運ぶ。
ふと、木々の間から、きらきらと反射する光が目に入った。
「水面か」
木の陰に身を隠しながら、周囲の気配を探る。
「行こう、セツナ」
「うむ」
二人で一枚の大きな岩を回り込むようにして進み、視界が開けたところで、俺は思わず息を呑んだ。
そこは灰色の岩に囲まれた小さな泉だった。
岩肌の窪みから、透明な水が絶えず湧き出している。
水面は静かに揺れ、石の上には苔が柔らかく張り付いている。
きれいな水場だ。村人が水を汲みに来るのも頷ける。
――そこに、一人の女が立っていた。
銀灰色の髪を、ざっくりと高い位置で一つ結びにしている。
あまり見たことがない髪の色だ。
黒地の短い羽織に、動きやすい灰色の腰巻をつけている。
膝丈の脚衣からは、しなやかに引き締まった脚線が覗いている。
旅人向けの軽装と言えば軽装だが、そのせいで体の線がやたらと目立つ。
背は高くないけど、細い腰と――大きな胸が目を引く。
ちらりとセツナに視線を向ける。
「おい、シンよ。無礼なことを考えておるまいな?」
「別に」
セツナがジト目で見てくるが、今は彼女の相手をしている場合ではない。
女に視線を戻す。
腰には二本の小太刀が差してある。
そして、肩口から脇腹にかけて、布がところどころ破れ、包帯が覗いていた。
包帯の端には、まだ完全には乾いていない赤い染みが残っている。
怪我をしているのか。
泉を背にして立ち、周囲を警戒するように灰色の瞳を巡らせていた。
村長の言っていた「舐め回すように見てくる女」とは、少し異なる気もする。
とはいえ、気になるのはそこじゃない。
「あの女から妖気を感じる。でも、完全に人間の姿だよな」
セツナにしか聞こえないように呟く。
セツナのように、完全に人間の姿に変化できる妖もいる。
だから、外見だけで判断するのは早計だ。
だが、妖ならわざわざ包帯を巻いて傷を庇うだろうか、という疑問もある。
いや、しかし――どうしても視線が余計なところに引き寄せられる。
どこを見ていいか分からなくなり、視線が泳いでしまう。
そんな俺の様子を、セツナは見逃さない。
「どうしたのじゃ? 顔が赤いようじゃが」
意地悪そうな声音で囁いてくる。さっきの意趣返しだろうな。
「いや、そんなことは――」
「なるほど。汝は大きい方が好みということじゃな?」
「な……違っ!」
思わず、声が裏返った。
気付けば、立ち上がってしまっていた。
「あ……」
「あ……」
そのタイミングで、泉のほとりの女と目が合った。
微妙に気まずい沈黙が流れる。
逃げるわけにもいかないし、今さら物陰に隠れるのもどうかと思う。
意を決して、俺は一歩前に出た。
「……お前が、村で噂になっている女妖なのか?」
女がきょとんとした表情になる。
「……あなたは何を言っているの? あたしが妖に見えるのかしら?」
よく通る声だった。
その言葉にはっきりした棘がある。
妖と疑われて怒るということは、人間か?
いや、演技の可能性もある。
泉のあたりに漂う妖気は間違いなく濃い。
目の前の女からも妖気を感じる。
この女が目的の妖でないとしても――
泉に現れるという妖と何かしら関わりがある可能性は高い。
頭の中で判断が行ったり来たりしているうちに、無意識に刀の柄へと手が伸びていた。
その仕草を見逃すほど、あの女も鈍くはないらしい。
灰色の瞳が細くなり、腰の小太刀の柄へと手が添えられる。
「……そっちがその気なら、手加減しないわ」
しゃ、と鋭い音を立てて、小太刀が二本抜かれた。
「待て――」
言いかけたところで、横からセツナのぼそりとした声が割り込む。
「なかなか強そうじゃのう、あの娘」
面白そうに目を細めている。
「なんだよ、それ」
「シンよ、あの娘が本当に妖なら、ここまで話を聞けたと思うか?」
言われてみればそうだ。
敵意のある妖なら、もっと早い段階で牙を剥いている。
「じゃあ、人間なのか?」
「さあてのう。少なくとも――」
セツナは口の端を上げて笑った。
「妾にとっては、なかなか愉快な存在じゃ」
何かを知っているかのような口ぶりだ。
役に立つような立たないようなことしか言わないあたり、いつも通りとも言える。
「ねえ、あなた、退治人なんでしょう? その刀、ただの飾りには見えないわ」
女の視線が俺、それから腰の刀に移る。
「だったら、話は簡単よね」
女は一歩踏み出した。
小太刀の切っ先が俺の方を向く。
「あたしを退治に来たんでしょ? 早く抜きなさい」
挑発的な物言いだが、その足運びは慎重だ。
くそ、やるしかないのか。
こっちが刀を抜かないまま接近を許せば、斬られるのはこちらだ。
だからと言って、怪我人らしき女にいきなり斬りかかるのも気が進まない。
女と一定の距離を保ったまま、刀を抜く。
鞘を左手で払いつつ、切っ先を女へと向ける。
「アマチ=シン。退治人だ」
名乗ると、女の眉がぴくりと動いた。
「……ルカ」
女は短く名乗り返し、二本の小太刀を構え直す。
その立ち姿には、素人臭さが一切ない。
どこか獣じみたしなやかさがある。
「シン」
背後から、今度はどこか楽しそうな声が聞こえた。
「妾は見物させてもらうぞ。いい勝負になりそうじゃ」
「人ごとだと思って……。いや、いつものことか」
ぼやきながらも、視線はルカから外さない。
森の奥から吹き抜けてきた冷たい風が頬を撫でていく。
ルカの灰色の瞳が一瞬だけ細められる。
山奥の静けさの中で、俺とルカは向かい合った。




