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半妖少女とゆく禍主退治の旅  作者: 彼岸茸


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10 情念を燃やす炎

 三軒長屋の並ぶ一角は、宿場の中でも一際薄暗かった。

 裏通りの突き当たり、藁屋根を低く被った長屋――その右端の部屋が、女将さんに言い寄っているという男の住まいだ。


「ここか」


 月明かりに照らされた土間の前で足を止める。

 板戸は閉じられているが、隙間からうっすらと灯りが漏れていた。どうやら、まだ起きているらしい。


「中を見てみよう」


 声を潜めて言うと、セツナもこくりと頷く。どことなく楽しそうなのは何なんだ?

 ……今、気にすることじゃないか。


 俺はなるべく足音を消して軒先を回り込み、僅かに開いた窓からそっと中を覗き込んだ。


 六畳ほどの狭い部屋だ。


 古びたちゃぶ台の上には徳利とお猪口が置かれ、周りには空になった徳利が二本、転がっている。

 片側の畳は変色してささくれ立っている。壁際には洗っていない着物がぐしゃりと投げ出されていた。


 その向こう側に男が一人、胡座をかいて座り込んでいる。

 年の頃は三十手前といったところか。やつれた頬に伸びっぱなしの無精髭が目立つ。目だけがぎらぎらと異様に光っている。


 その口が絶え間なく動いていた。


「あの女……俺が娶ってやるって言ってんのに……」


 ぶつぶつと、呪詛のように独り言を呟いている。


「あんなちんけな宿場でくすぶってる女だぞ。俺がもらってやるって言ってるんだ。ありがたく思えってんだ……」


 お猪口をぐいっとあおる。


「ぷはっ……娘がいるからって、なんだ。俺だって養ってやれる。これからちょいと働けば、金なんかいくらでも稼げるってのに。本気になればやれるんだ。俺ならあの女を幸せにできる……」


 誰に向けるでもない自慢と言い訳が、ぐちゃぐちゃに混ざってこぼれ落ちている。

 女将さんのことを言っているのは明らかだ。言葉には妙な自信と、湿った執着が滲んでいる。


「身分もない、後ろ盾もないくせに、断るなんて……あの女には分からせてやらないと。俺なしでは生きていけないって。俺がずっと見ていてやるからな、ずっと……毎晩だ。寝顔も、泣き顔も……全部、な」


 そこまで言ったところで、男はふっと笑った。

 その笑みは楽しそうでも嬉しそうでもない。ただ、どこか空っぽな笑いだった。


 ぞわり、と背筋に怖気が走る。


「……うわ」


 思わず声が漏れた。

 どこかから持ってきた足台に乗って、隣で同じように覗き込んでいたセツナが、面白がるように口角を吊り上げる。


「ふふ。いい感じに狂っておるのう」

「なんで嬉しそうなんだよ、お前は」


 小声で突っ込むと、セツナは囁いた。


「ここまで拗れた人の情念は見ていて飽きんからのう。こうなるまでに、さぞ色々あったのじゃろうよ」

「感心してる場合か」


 とはいえ、こいつが対象で間違いないことは分かった。

 旅籠の窓を覗いていた黒い影は、こいつの歪んだ想いが妖の形を取ったものだ。


 腰に差した妖刀に自然と手が伸びる。

 この刀は妖を斬るためのものだ。もちろん、人間も斬れないわけじゃない。


 だが――


「……さすがに斬るわけにはいかないよな」


 小さく息を吐く。


 こいつが気持ち悪いのは事実だ。女将さんとその娘に害をなす可能性も高い。

 それでも、俺の仕事は妖を斬ることであって、人間を裁くことじゃない。

 酔って、うわ言を言っているだけの男の首を、勝手に刎ねるわけにはいかない。


 裁くのは衛士の仕事だ。


 セツナがちらりと俺を見て、あっけらかんと言う。


「バレなければ問題なかろう」

「いや、駄目だから」


 囁き返すと、セツナはくくっと喉を鳴らした。


「それが手っ取り早いんじゃがのう……仕方あるまい。妾がやってやろう。酒を買うてくれた礼じゃ」


 そう言って、右手を前に出す。


「おい、何をする気だ」

「まあ、見ておれ」


 セツナがそう言うと、黄色い狐火がぽうっと現れた。

 狐火はゆらゆらと揺れながら男に向かっていった。


 男がはっと顔を上げ、そのぎらついた目が狐火を捉えた瞬間――


「な、なんだ……あ、熱っ……!」


 狐火が男の胸元に触れると、炎が広がり、その身体を包み込む。

 部屋の中のものは一つとして燃えていない。ちゃぶ台も布団も、転がる徳利もそのままだ。

 ただ、男だけが炎の中でもがいている。


「や、やめ……やめろ……! 俺は……俺は、あの女を……! 俺が……守ってやるんだ、俺が……!」


 叫びがだんだんと言葉にならなくなっていく。

 男の声は掠れ、最後には肺から空気が漏れるだけの音になった。


 やがて、黄色い炎はふっと消えた。

 男は糸の切れた人形みたいにぐったりと前に倒れ込む。


 男の胸は上下しているので、息はあるようだ。

 着物も焦げていないし、肌にも火傷らしい跡は見えなかった。


「……終わったのか?」

「うむ」


 セツナはあっさりと言う。


「さっきの妖がこの男の情念から生じたものなら、また同じことが――」


 そう言いかけると、先回りするようにセツナが続けた。


「心配せずとも良い。この男の情念ごと焼き祓ってやったからのう。同じものが生まれることはあるまい」


 情念ごと、ね。なんでもありだな、セツナは。


「ちと廃人になったかもしれんが、構わんじゃろう」

「……それは大丈夫なのか?」

「さあ……運次第じゃな」


 あまりにも軽い口調に、思わず眉をひそめる。


 廃人になるかもしれない。死んでいないだけ、という可能性もある。

 だけど、このまま放っておけば、女将さんや娘にとって取り返しのつかないことが起きたかもしれない。


 妖化するほどの情念の大元を叩き潰した、と思えば――ぎりぎり許容できる範囲か。


 俺が刃を振るって男を殺すよりは、まだマシだ。

 自分の中でそう言い聞かせる。


 こうも容赦がないのを見ると、やはりセツナも妖なんだと実感する。

 人とは異なる倫理観とでも言うのか。


 男の今後が少し心配ではあるけど、やってしまったものはどうしようもないしな。


 溜め息を一つついてから、窓から離れて踵を返す。

 セツナも足台からひらりと飛び降り、肩を並べて歩き出した。


「……宿に戻るか」

「うむ。酒も待っとるしな」

「お前の頭の中は酒ばっかりだな」


 呆れ半分で言うと、セツナは楽しそうに笑った。


     ◆


 長屋のある裏通りを抜け、旅籠に戻る。

 ひんやりとした夜気の中、足音だけが石畳に規則正しく響いていた。


 ふと、視線を感じて足を止める。


「……ん?」


 何かが塀の上にいる。

 月明かりの下で、その細長い輪郭がはっきりと浮かび上がる。


 (いたち)だ。


 茶色の毛並みで、真っ黒な瞳をこちらに向けている。

 野生の獣なら、人の気配を感じた途端に逃げ出すはずだ。けれど、その鼬は一歩も動かない。

 ただこちらを観察しているように見える。


 俺と目が合うと、鼬は首を傾げ、塀の向こう側に降りた。


「今の、見たか?」


 思わず隣のセツナに尋ねると、彼女は少しだけ目を細めていた。


「ふむ。見たとも」

「ただの獣じゃなさそうだったけど……妖か?」

「そうじゃな」


 セツナはそれ以上答えない。説明する気がないらしい。

 俺は眉をひそめながらも、追及はしなかった。本当に重要なことなら、セツナも隠すようなことはしない。


 それに、さっきの鼬からは敵意のようなものは感じなかった。

 ただ、値踏みするように、じっと俺たちを見ていた。

 それだけだ。


     ◆


 旅籠に戻ると、すっかり静まり返っていた。

 女将さんも娘の側で眠っているのだろう。報告は明日の朝でいい。


 自室に戻る途中、欄干に白い細長いものが絡みついているのが見えた。


「……蛇?」


 思わず足を止める。

 欄干に巻き付いていたのは、雪のように白い蛇だった。

 三尺ほどの長さだ。その赤い瞳はまるで人のように、はっきりとこちらを見据えている。


 じっと俺を見ていた蛇が、舌をちろりと出し、首を僅かに傾けた。


 その視線はさっきの鼬のものと似ている。獲物を見る目ではなく、何かを確かめるような目。

 やがて白蛇はすっと欄干から離れ、暗がりへと這って消えた。


「……今のも妖っぽいな」


 さすがに見間違いではない。

 階段の途中で立ち尽くす俺の横で、セツナが小さく唸った。


「白い身体に赤い瞳。妾とかぶるのう」


 気にするのはそこなのか。しかし、彼女は続ける。


「まったく、主は何をしておるのやら」

「主?」


 気になる言葉だ。


「ふふ、気にするな。あの様子じゃと、すぐに分かることじゃ。その時のお楽しみに取っておけ」


 なんとも楽しそうに言ってくれる。


「余計に気になるだろ」


 ぼやくと、セツナは笑った。


「これでやっと、ゆっくり酒が飲めるのう。妾の働きにしかと感謝するのじゃぞ」

「感謝はしてるけど、真っ先に酒の心配かよ」


 呆れながらも、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

 ともあれ、女将親子に迫っていた影はこれで祓えたはずだ。

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