初恋にケリをつけたい
「すまない。グレース。俺は、ただ初恋にケリをつけたかっただけなんだ。」
クライブ・フィンズベリー侯爵――朴念仁の私の夫。黒髪に黒眼、顔立ち、そしてふるまい、そのすべてが真面目。そんな彼が青ざめた顔をして、頭を下げている。
まさか、こんな大それたことをしでかすなんて。
18歳で彼と結婚して、もう20年が経つが、ここまで憔悴した姿を見るのも初めてだ。
私、グレース・フィンズベリーはフィンズベリー侯爵家に生まれ、マクラーレン侯爵家次男のクライブを婿に取った。私たちは絵に描いたような、政略結婚だった。
クライブは面白みに欠ける男だったが、領民思いで、よく働いた。お互いを尊敬し、貴族として良き夫婦関係が築けていると思っていた。
「それで、アディントン公爵夫人があなたの子を身ごもったというのは本当ですの?」
アディントン公爵夫人を我が邸の応接間に通し、ローズヒップティーを出す。夫の隣に座るアディントン夫人は、その腹を大切そうに撫でている。金髪の巻毛。透き通るような肌。純真そうで、いかにも男好きしそうなクリッとした碧眼が、上目遣いでこちらを見つめる。
「奥様、申し訳ありません。その通りでございます。私が、主人を亡くしてから、泣き暮らしているところを、フィンズベリー侯爵に優しくして頂きましたの。」
真っ赤に腫れた目から、あふれ出す涙をハンカチでぬぐいつつ、彼女が言う。正直、泣きたいのはこちらだ。
彼女の夫であるアディントン公爵は、1年前に馬車の事故で亡くなった。私と同い年だった。商才に優れた人物で、突然の訃報に国内外から惜しむ声が上がった。未亡人になった彼女を気遣う声も多かった。
「クレア――いやアディントン夫人は身重だというのに、ほぼ無一文で公爵家から追放されて、わずかな手持ちの資金で王都の宿を点々としているんだ。」
苦しそうにクライブはいうが、公爵家の対応は実に真っ当だ。喪も明けずに、他の男性との子を身ごもるなんて。しかも一緒に共同事業を行っていた家門の当主との不倫だ。
「グレースすまないっ!しばらくの間、彼女をここに置いてやることはできないだろうか。」
またクライブが深々と頭を下げる。下げ過ぎてローテーブルに頭がつきそうだ。重い沈黙が応接間に流れた。
なぜこんなことになったのか。ことの発端は1年前に遡る。クライブが『初恋にケリをつけたい』と言って、アディントン夫人をうちの茶会に呼んだ。当時、彼女はアディントン公爵を亡くしたばかりだった。
アディントン夫人は若い時、気取らない美人として評判で、男女を問わず人気があった。我が夫・クライブも彼女の可憐さに目を奪われたようで、恋に落ちた。だが社交界の華と謳われた彼女が、地味なクライブに振り向くわけもなく、当時の彼は遠巻きに彼女を見つめることしかできなかった。
「一度でいいんだ。一度話せば、自分の記憶の中で理想化された彼女と現在の彼女の落差で、俺はきっと初恋を諦めることができる。」
だが実際にアディントン夫人と会うと、クライブは別人のように浮き足立った。新しいスーツを誂え、髪を整え、やれ社交だ、やれ商談だと言って、家を空けることが多くなった。食卓で目も合わせず、私の話にも生返事ばかりだった。
そんな様子をおかしいなとは思った。だけど、お互い成人した子女がいるいい年した男女だ。まさかこんな破廉恥な関係になるとは思いもしなかった。――その結果がこれである。
思わず、彼らから目をそらしたくて、窓の外を見る。窓ガラスに映る茶髪に翡翠色の瞳。そういえば、一度もクライブは私の容姿をほめてくれたことはなかった。たしかに貴族としては平凡かもしれない。それでも年の割に悪くないと思うのだが、アディントン夫人と比べると見劣りをしてしまうのだろうか。
「――お話は分かりました。」
「分かってくれるのか!グレース。」
ぱっと目を輝かせるクライブ。話は最後までちゃんと聞いて欲しい。
「ええ。その子を私生児にするわけにはいきません。私たち離婚しましょう。クライブ。」
ワナワナと崩れるように肩を落とすクライブと、先ほどの涙が嘘のように微笑むアディントン夫人。
「随分とうれしそうですね。アディントン夫人。」
「い、いえ。この度は御迷惑をおかけしました。フィンズベリー夫人。慰謝料は早急に工面いたします。」
「すべてを取り上げられて公爵家を追い出されたと伺いましたが、あなたに稼ぐ当てがあって?もしかしてクライブを当てにしているのかもしれませんが、私と離婚した場合、爵位は息子のチェスターに継がせます。――クライブはうちの入婿なので。」
「ど、どういうことですの?クライブ。」
クライブは肝の小さい男だ。ショックの余り言葉を失って、ただ茫然としている。それに、アディントン夫人も物分かりが悪い。
「よく生前、アディントン公爵が嘆いてましたわ。うちの妻は、領地や社交について勉強せず、宝石やドレスばかりに興味がある、と。ここは私の実家。婚姻関係が無くなれば、爵位が無くなるのは当然でしょう。」
「そんな、ひどい。あなたまで身重の私を追い出すというの?あなたの夫の子よ。」
「どうして、私が浮気をした夫とその愛人の面倒をみなければいけないの?そういえば、故・アディントン公爵もあなたの尻ぬぐいばかりなさっていたわ。きっとあちらで悲しんでおられますよ。」
「――っ!」
悔しそうな表情を、アディントン夫人が扇子で隠した。
「そうだ。ひとつ、いいことを教えて差し上げるわ。クライブは、私と婚姻時にご実家からオズボーン領と子爵位を引き継いでいるの。私と離婚が成立したら、そちらに引っ込むのが得策ね。」
オズボーン領は、酪農が盛んな片田舎だ。正直オズボーン領に立てた別荘を手放すのは惜しい気もするが、慰謝料だと言って取り上げるのも非情だろう。何より子どもたちの"父親"が路頭に迷うようなことがあってはならない。
「――確かに俺が悪かった。でも君には情というものがないのか。20年だぞ。20年俺はこの家に尽くしてきた。」
クライブが振り絞るように言葉を紡いだ。見ると唇が震えている。
「20年の情と信頼を裏切ったのはあなたでしょう。さようなら、クライブ。これからのやりとりはすべて弁護士を通して。もうあなた方の顔も見たくないから。」
こうして私たちの20年は、クライブのすすり泣く声と共に、静かに幕を下ろした。
離婚の手続きは弁護士が速やかに行い、とんとん拍子に話は進んだ。最後までクライブは納得がいかないようだったが、弁護士伝いにこれ以上長引かせると慰謝料を請求すると言ったら、ようやく諦めて書類にサインをした。
「まさか本当に父さんを追い出すとは思わなかったよ。おかげで、俺は早めに家を継がされて迷惑なんだけど?」
執務室で、離婚に関する最後の書類にサインをしていると、嫡男のチェスターが話しかけてきた。
私とクライブの間には3人の子どもがいる。長男のチェスター、長女のアリス、次男のブライアンだ。長女のアリスは既に伯爵家に嫁に行った。次男は王都の騎士団に出仕している。
長男のチェスターは、つい先日まで隣国に留学させていたが、今回の件があって、予定より早く帰国させた。クライブと同じ黒髪、黒目でありながら、長いまつ毛と物憂げな表情から、どことなく妖艶で危うさのある美形。社交界でもよくモテると聞く。一見遊んでいるようにみえるが、実のところ要領がよく、抜け目のない男だ。
「だって、仕方ないでしょう。アディントン夫人のお腹には子がいたのよ。」
「父さんも馬鹿正直だね。探偵を張らせたけど、あの女狐、父さん以外とも関係を持っていたよ。未亡人っていうのはモテるんだね。」
「そう。それじゃ、クライブの子じゃなかったかもしれないわね。でもね、私をないがしろにして不貞を働いていたことは事実よ。」
「その割に、母さんって案外あっさりしているよね。20年も一緒にいて、子どもを3人も儲けたのに。女性ってそういうものなの?」
チェスターの黒い目がぎろりと光る。
「クライブとは政略結婚だったし、もう彼は十分にその役割を果たしたから。」
「役割か。なんか使い捨ての駒みたい。母さんよっぽど、アディントン公爵が亡くなった時の方がショックを受けていたんじゃない?」
「あら、よく見ているわね。彼は年が同じでね。子どもの頃、よく一緒に遊んだの。あなただって悪友のシリル様が亡くなったら悲しいでしょう。」
「まあ、そりゃそうだけど。」
「そういえば、今日も婚約申込の釣書が届いていたわよ。あなたもそろそろ身を固めなさい。もうすぐ正式にフィンズベリー侯爵になるんだから。」
「今はそういうの選んで会う気分じゃない。なんかもっと結婚に対して夢を持ちたいよなあ。」
「貴族の結婚では、本人の意思よりも、家同士の利害が優先されるの。これは貴族に生まれた以上、当然のこと。ほら、このウォルシュ伯爵家のお嬢さんは?最近、領地で新しく銀鉱脈が見つかったって噂よ。」
そう言って、釣書の1つをチェスターに手渡す。
「いや、いい。俺も、初恋にケリをつけてくるから。」
「まったく、誰に似たんだか。トラブルはよしてちょうだいね。クライブの後始末だけで大変だったんだから。」
「俺はあそこまで馬鹿じゃない。この家と母さんには迷惑をかけないよ。だから安心して。」
不敵な微笑を浮かべ、チェスターは執務室を後にした。
***
離婚が成立し、チェスターが爵位を継いでからは、私はその執務の補佐に追われている。チェスターは賢い。だがまだ若い。社交や商談では私が出ていったほうが話がうまくまとまることが多い。それに、こういう時は何かやることがあった方がいいのだ。私は毎日、馬車馬のように、領地、領民のために働いた。
その後しばらくして、オズボーン子爵、クライブから子が産まれたと形式的な挨拶の手紙が送られてきた。
「チェスター、あなたの弟が生まれたってよ。」
「弟ねぇ。」
「金髪に碧眼のかわいらしい子だって。夫人に似たのね。」
「良かったんじゃない?赤髪の子とか産まれていたら、今頃大騒ぎでしょ。」
「あら、あなた。オズボーン子爵と子爵夫人に失礼よ。あなた"弟"に興味がないなら、こちらでお祝いを贈っておくけど良いかしら?」
「それでいい。」
クライブは離婚後、とくに浮足立ったことをするわけでもなく、淡々とオズボーン領を治めているという。もともと朴念仁だ。容易に想像がつく。
だが、一方のクレアは派手好みの性格だ。
故・アディントン公爵との婚約当時は美男美女と言われ、社交界でもてはやされた。クレアは、ドレスや宝石を買いあさり、お茶会や舞踏会でもよく目立っていた。しかし姑にあたるアディントン元公爵夫人は彼女のこういったふるまいを快く思っていなかった。母の友人である彼女から、ことあるごとにクレアについて相談を受けていた。だから、この辺の事情は他の貴族たちよりよく知っている。
そんなクレアが、地味で堅実なクライブの妻として、王都から離れた田舎領での貧乏貴族生活に耐えられるのか?破綻は時間の問題だろうと思った。
「今日は、アディントン公爵閣下とそのおばあ様がこちらにいらっしゃるから、あなたも用意しておきなさいね。」
「あれ、シリルが来るのは今日だったっけ。うっかりしていた。」
昼過ぎ、予定通り、アディントン家の人々が、お茶にやってきた。
「ようこそお越しくださいました。アディントン公爵閣下、アディントン元公爵夫人。」
「あら、グレースちゃん。こんな痩せちゃって、うちの元嫁があなたに迷惑をかけるなんて。本当に申し訳なかったわ。彼女が払わなかった慰謝料は当家で負担させて。」
「いえ、慰謝料はこちらから辞退したので。お気になさらずに。」
ついで、シリル様――現アディントン公爵も深々と頭を下げる。公爵譲りの黒髪に、母譲りの碧眼。当家のチェスターと並んで、社交界きっての貴公子と評されている。
「母がフィンズベリー侯爵家に多大なご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした。」
「シリル様、いえ閣下。頭をお上げください。私どもとしては、公爵家の皆様が今まで通り交流を続けてくださることが、何よりありがたいのです。」
「もちろんよ。グレースちゃん。本当あんな女じゃなくて、あなたがうちの嫁に来てくれればよかったのに。運命って残酷ね。」
「クレア様の件は残念でしたが、このようにシリル様も立派にご成長なさって、アディントン公爵家につきましては、今後ますます繁栄されると思いますわ。」
私はにっこりと微笑んだ。玄関で立ち話をしていると、当家の当主になったチェスターが執事に呼ばれて、慌てて姿を現す。
「よう!シリル。」
「お!チェスター久しいな。お前もついにフィンズベリー侯爵か。」
チェスターとシリルは学生時代の悪友。同じ黒髪で背格好が似ているせいか、並ぶと兄弟と間違われるそうだ。
「ああ。俺は母さんに執務を手伝ってもらっているから、お前ほど忙しいわけじゃないけどな。」
「――そういえば、あれ本気なのか?」
「ああ、俺は"初恋"をひきずる馬鹿な大人をたくさん見てきたからね。正しくケリをつけるよ。」
一瞬、チェスターがこちらを一瞥したような気がしたけど、気のせいか。
「無理はするなよ。」
「ああ、もちろん。」
"あれ"ってなんだろうと思ったが、お茶会でのアディントン元公爵夫人の軽妙なトークが面白くて、すぐにそんな些細なことは忘れてしまった。
それからしばらくして、ある政変の速報が新聞をにぎわせた。チェスターが留学していた隣国でクーデターが起こったのだ。王家の不正が次々と内部告発されたのが契機になった。王は処刑され、王弟が王位を継いだ。
本来なら、我が王室の第二王女は隣国の王太子妃として嫁ぐはずで、その妃教育のためにすでに隣国へ渡っていた。だが、その縁談もついに白紙となった。もともと隣国側の都合で幾度となく延期されていたものだ。王女はすでに20歳を過ぎている。これから新たな縁談を探すのは、容易ではないだろう。他人事ながら不憫に思った。
「母さん、今度紹介したい人がいるんだ。」
「紹介したい人?……まさか、あなたまでクライブのように愚かな真似をするつもりじゃないでしょうね。」
「安心して。この話はうちの家にとっても大きな利になるはずだよ。」
「……本当に?」
結局、内密に進めている話だからと言われて、親なのにこれ以上詳しくは教えてもらえなかった。
後日、チェスターに連れて行かれた先は、なんと王城だった。きらびやかな広間に通され、大ぶりのシャンデリアが燦然と輝く様に、思わず息をのむ。やがて姿を現したのは、緩やかに巻かれた銀髪に深い海のような碧眼の女性。最近、新聞で姿絵を拝見したことがある。第二王女・オフィーリア殿下、その人だ。
「フィンズベリー前侯爵夫人、このたびはわざわざお越しくださり、ありがとうございます。第二王女・オフィーリアと申します。本来ならば私が伺うべきところですが、このような身の上ゆえ自由が利かず、どうかお許しくださいませ。」
まさか王女に頭を下げられるなど思いもよらず、私はただ困惑するばかりだった。
「母さん、実はオフィーリア様を我が家へ降嫁いただこうと思っているんだ。」
「な、何ですって……?あなた、一体どこでそのようなご縁を?」
突然のことに、さすがの私も混乱した。いきなり息子が結婚したい相手として王女を紹介してくるとは。
「ああ、もちろん留学中さ。オフィーリア様と隣国の王太子の婚約はもともと風前の灯火だった。王太子は、自国の令嬢を恋人として囲って、オフィーリア様に見向きもしなかった。それにクーデターも時間の問題と言われていた。もし婚約が解消されるなら、一緒になろうって、そう約束していたんだ。」
「あっ、あらそうだったの。それで陛下は、なんと仰ってますの?」
「ええ。もちろん相談しておりますわ。陛下は私に苦労をさせた、相手は好きに決めなさいと仰せになっています。私がフィンズベリー家の名前を出したら、とても喜ばれました。ささやかではありますが、私の降嫁に当たって、持参できるものも整えております。」
そう言うと、オフィーリア様はにこりと微笑まれた。
顔合わせの後、すぐに王命が下り、第二王女オフィーリア殿下のフィンズベリー家への降嫁が発表された。それに伴い、フィンズベリー侯爵家は公爵位に陞爵を賜り、領地も拡大した。チェスターはかつてないほど生き生きと政務に取り組むようになった。
結婚式は王城で、盛大に執り行われた。あの冷徹無比と知られる陛下が、嫁ぎゆく娘を前に涙をこぼされたのが印象的だった。二人は出会ったときから惹かれ合い、初恋同士だったとのこと。ずっと時機や政局を見計らっていたのだろう。我が息子ながら、その執念と抜け目のなさに感心した。
オズボーン子爵家もフィンズベリー家側のゲストとして呼んだ。クライブはもはやフィンズベリー家の人間ではないから、分家と同じ序列で参列してもらった。クライブは息子の晴れ舞台だというのに憔悴した顔をしているし、クレアは常に不満が顔に張り付いたような表情だった。ただ2人の子どもであるロイドは、天使のようにかわいらしかった。
チェスターとオフィーリアは仲睦まじく、結婚後まもなくオフィーリアは懐妊した。生まれたのは元気な男の子。黒髪に碧眼。両親の特徴を引き継いだかわいい子だ。フィンズベリー家は待望の跡取り誕生に大いに沸いた。名前は『スチュアート』と、チェスターが名付けた。
執務のほとんどをチェスターたちに任せて、私は郊外の別荘に隠居している。たまに、オフィーリアがチェスターを連れて、こちらに静養に来る。彼女は元王女らしく教養があり、博識だが、それを驕ることはない。とても清廉な人だ。話していてとても楽しい。本当に良い嫁に恵まれた。
チェスターは初恋を諦めなかった。だから積み上がる釣書に目もくれず、社交界も必要以上に令嬢たちと接することをしなかった。
庭に咲く白百合が風に揺れる。思えば、私にも初恋があった。初恋の彼とは、よくこの別荘の庭で遊んだ。あの白百合の花を一輪を摘んで、「グレースに似合いそう」だと、私の頭につけてくれたっけ。彼と笑い合った日々を思い出して、ほほえみがこぼれる。人生で最もきらきらして、そして一番美しい時間だった。
彼は、貴族として平凡な私の茶色の髪も、緑色の瞳も美しいと言ってくれた。髪はミルクティー、瞳はエメラルドのようだと褒めてくれた。夫だったクライブはただの一度も私の容姿を褒めてくれたことがなかった。
「おばあちゃま!」
振り返ると、孫のスチュアートが駆け寄ってきた。
「あらまあ、スチュアート。」
「スチュアート、お行儀が悪いですよ。」
オフィーリアが慌てて追ってきた。
「ふふ。男の子は少し元気な方がよろしくてよ。オフィーリアさんこそ、気をつけて。今のあなたは1人じゃないんですから。」
「ええ。お義母さま。いつもお気遣いありがとうございます。」
オフィーリアは現在第2子を身ごもっている。だから少しのんびりできるように、こちらに招待したのだ。
「――そういえば、オズボーン子爵の子と、スチュアートを遊ばせているそうね。」
一瞬、オフィーリアがぎくりと、表情を崩した。
「いえ、悪いと言っているわけではないの。ただ――ありがとうね。」
結論から言えば、クライブはクレアに逃げられた。思った通り、田舎生活と朴念仁の夫に耐えきれず、若い使用人と駆け落ちした。――息子のロイドを置いて。
その話を聞いたオフィーリアが、ロイドを心配して、度々オズボーン家に顔を出している。クライブと私はもう他人。彼も彼の息子もフィンズベリー家の人間ではないが、チェスターからすれば実父、そして弟だ。その妻が彼らを気にかけるのは、ある意味当然なのかもしれない。
「すみません。出過ぎた真似を。はじめは、ただスチュアートを連れて、挨拶に伺ったんですが、オズボーン子爵は子どものことに興味がないようで。ロイド君、とってもさみしそうにしているんです。うちのスチュアートもお友達ができて喜んでいるので、つい。」
「ロイドは、大事なおともだちだよ!」
スチュアートが口を挟んできた。意志の強いところがチェスターによく似ている。
「ふふ。あの人は、私との子育ても、ろくに協力しなかったから、突然子育てをしろと言われても、子どもとの向き合い方が分からないのでしょうね。あの人がいいというなら、今度ロイドもこちらにも連れてきなさい。スチュアートのお友達なら、私も大歓迎よ。」
「わーい。おばあちゃま、ありがとう!ロイドつれてくるね。」
私と初恋の彼が小さな恋をはぐくんだこの庭で、数年後にはスチュアートにロイド、そしてオフィーリアのお腹の子が駆け回るようになる。時の移り変わり早いものだ。
オフィーリアたちは王宮で国賓を招いた大きな晩餐会があるため、一か月ほどの滞在で王都のタウンハウスに帰っていた。出産までは、何かあるといけないので王都で過ごすとのことだった。
オフィーリアたちが発って、しばらく経ったある初夏の日。私も王都に向かう。今日は1年に1度の大切な日。白百合の花束を手に、王都の外れの墓地に向かう。ひっそりとした丘の上、駆け抜ける風が心地よい。アディントン公爵家の墓石の中に、探していた名前を見つける。
『ヒューゴ・アディントン』
持参した百合の花を供え、手を合わせる。
「ねぇヒューゴ、私ね、あなたの奥さんのクレアに復讐されちゃったの。でも、クライブも馬鹿よね?クレアに托卵されて逃げられたのよ。どうして長くこじらせた初恋にケリがつくなんて思ったのかしら?」
ヒューゴと私は幼馴染だった。
爵位が近い家同士、母たちが仲良くしていた。お互いの別荘を行き来して、一緒に遊んだ。ずっとずっと私はヒューゴと結婚すると思っていた。でも私の母は体が弱く、とうとう私に兄弟ができなかった。お互いに嫡子。結局、私たちが縁づくことはなかった。
例え一緒になれなくても、たまに会って、世間話をするだけでも幸せだった。でも、いつの間にか、私たちはそれ以上に強くひかれあうようになった。
私はどうしても初恋にケリをつけることができなかった。
ヒューゴの夜をまとったような黒髪、黒眼、そして物憂げな長いまつ毛が社交界で妖艶だと謳われ、貴族令嬢たちにとても人気があった。クレア嬢はヒューゴと結婚するため、ありあらゆる手を使った。彼に媚薬を盛って関係を迫ったとも聞いている。
ヒューゴも、私と結婚できないならば誰でもいいと言って、彼女を選んだ。結婚後、彼らは子を成した。だが本当の意味で心が通じ合った夫婦だったのか、私には分からない。
私たちはお互いが結婚した後も、仮面舞踏会やそれぞれの別荘でこっそりと密会を続けた。仮面越しに愛をささやき合ったが、彼がどれだけ私のことをどう思っていたかは分からないし、知りたくもない。それこそ、ただの都合が良い遊び相手だったのかもしれない。
さすがに私の子どもたちはクライブの子だと思う。ただ、長男のチェスターだけは大人になるにつれ、クライブにはない妖艶さを纏い、その横顔がヒューゴと被る。――もしかしたらということもあるかもしれない。
「これはこれは、グレース様。今年も来て下さったんですね。」
「ハロルド、お久しぶり。お元気そうで何よりです。今日で、もう7年でしたっけ。」
ハロルドはアディントン公爵家に長く勤めた執事だ。私たちが幼いときはまだ執事見習いでよく遊んでもらった。
「――ええ。公爵様が亡くなってから、早いものです。」
「アディントン前公爵夫人、いえオズボーン子爵夫人は結局一度もこちらに来られていないのですか?」
「ええ。再婚なさってからは、一度も……。」
「そうですか。」
「あの方はシリルお坊ちゃまにも、会いに来ない薄情な女ですから。」
「それは家を追い出されたのだから、仕方ないのではなくて?ふふ。それに現・アディントン公爵閣下をそんな風に呼ぶのは、あなたくらいよ。シリル様、うちのチェスターとは、兄弟のように仲がいいんだから、またうちにも、ご家族を連れて遊びに来るように伝えてね。」
「そうですね。本当の御兄弟のようです。」
ハロルドはおそらくすべてを知っている。だけど、何も言わないでいてくれる。まあ明らかになったところで、チェスターが私の子でさえあれば、フィンズベリー侯爵家の継承には影響がない。
「ヒューゴ、いえ前・アディントン公爵に早く会って話がしたいわ。地獄の門の前で私を待っていてくれるかしら?」
「ええ。きっと。白百合を持って、グレース様を待っていて下さると思いますよ。」
その時、突風が吹いて、墓前に供えた花の花弁が空を舞った。まるで、「待っているよ」とヒューゴが返事してくれたみたいだった。
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