表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

序章 発端

 夏至祭りの翌朝のことだった。


 母なる河セハヌーにもやった小舟の傍らに、一つの体が静かに漂っていた。少女と呼ぶにはすでに成熟を感じ、女性と呼ぶにはまだ何か足りない――まるで、花の蕾がほころびかけ、その刹那、切り取られたかのような、美しくありながらどこか切ない姿であった。


 大河セハヌーとはいえ、北の大国の王都を守る城壁がそびえ立つこの辺りでは、清らかな流れを見ることは望めなかった。生活排水で濁り、当然のように不快な臭いが漂っていた。

 そんな中で、あどけなさを残す一輪の美しい花が水面に浮かぶ様は、自ずと見た者の言葉を奪った。


 しかし、命の源たる水を統べる女神は、あまりにも儚く尽きた彼女の人生に、一抹の哀れみを覚えたのだろうか……。その水で、あらゆる穢れを――死の恐ろしさすら――洗い流したかのように見えた。


 彼女を発見した老人は、死に対する嫌悪よりも先に、深い憐れみを抱いた。すべての血が凍りついたかのような青白い肌は、すでに命が抜け落ちてしまったことを示していたが、見知らぬ者の遺体に触れる忌避感よりも、か細くも悲しげなその体を冷たい水から引き上げてあげたいという思いが湧いたのだった。


 ここイサクは、北の大国と呼ばれるにふさわしく、夏の日差しの下、気温は穏やかに高かった。耐え難い暑さとは無縁である。

 王都ザッティバーグを守る堅固な城壁のそばでは、セハヌーで漁をして生計を立てる老人が、日々の営みの中で城壁を見上げ、頼もしさと誇りを感じていた。とはいえ、城壁の向こうにそびえる王宮や、その周囲に住む貴族、僧侶の町は、彼の日常からは遠く感じられていた。


 城壁の外側には、セハヌーを切り取ったかのような広く深い堀が水を溜め、王都へ向かう者が最初に目にする光景は、まるで都市全体が水に浮かんでいるかのようであった。


 また、堅牢な石造りの城壁には、一定の間隔をあけた門が設けられ、そこには簡素ながらも機能的な木製の橋が架かっている。かつては、石橋が美しく堅固に架かっていたという話もある。だが、南の大国マヴァルに攻め寄せられたとき、その堅固さが裏目に出て、城壁の一部が侵され、無実の民が犠牲となったという記憶が、今も人々の間に残っている。


 その後、マヴァルを南に退け、短い平和が訪れたとき、かつての石橋は燃やしやすい木橋へと変えられたという。見た目は決して豪奢ではないが、あれもまた、城塞都市を守るための一手であったと、老人は幼い頃に父から教えられたのであった。


 かつての石橋を偲ぶかのように、門には壮麗な彫刻が施され、いつも、きらびやかな甲冑をまとった衛兵が、誇らしげに背筋を伸ばして立っていた。一見すると、王都へ入る手段はこれらの木橋だけのように思われがちである。


 だが、実際には、王都内を縦横無尽に走る運河があり、そこへセハヌーの流れを導くための小さな門が、目立たずに無数に配置されているのだ。


 老人が小舟を係留していた場所には、排水口としての水門があった。そこからは、王都から吐き出されたゴミや汚物を浮かべながら、どこか粘性を帯びた水が流れ出していた。


 ここらの魚が豊かに育つのは、当然の結果であった。だからこそ、老人はここで漁をし、王都で魚を商う者にその水産物を売り、確実な日銭を得るのであった。


 都が大量の汚水を吐き出す中、お天道さまの機嫌が悪いときには、向こう岸すら見えなくなるほどの大河セハヌーは、あっという間に清らかな流れへと戻される。対岸から見たこの都市は、まるで一隻の船のようであった。


 老人はいつものように早朝の漁に出るため、住まいの小屋を後にした。城壁に近い場所で捕れる魚は、どうしても風味に欠ける。そのため、セハヌーの水色が濃くなるまで小舟を漕ぎ出して漁をするのが彼の流儀であった。

 同じような漁師たちが戻る時間に合わせ、仲買人たちが彼の獲った魚を買い求めた。あとの一日は、誰の文句も招かないほど静かに過ぎていった。


 そして、それは、もやい綱を解こうとしたその瞬間、あたかも大河に抗うかのように、綱にがっしりと絡みついていた。


 老人の目に飛び込んできたのは、金色に輝く光。老いに至るまでの長い生涯で一度として見たことのない、精緻な刺繍が施されたドレスの金糸。その金糸は、まだ弱々しい朝の日差しをしっかりと受け止め、はっきりと反射していた。そして、やっとのことで、老人にとっては孫よりも年少に見える人物が、そのドレスをまとっていると分かった。 


 「こりゃぁ、ええとこのお姫様だろうて……。姫さんもこうなっちゃ、気の毒なもんだ。親御さんは……、泣きはるやろな」


 やっと聞く人もいないまま言葉に紡ぎつつ、老人の脳裏には、豪華なドレスに相応しく想像もできない豪華なお屋敷で、泣くよりも怒りにふるえて無関係な周囲を鞭打つ黒い影が浮かんでいた。

 彼はいつもの癖でブツブツと呟きながら、小舟に静かに横たわる遺体を引き上げた。おそらく、何者かによって命を奪われ、運河に打ち捨てられたのだろう。

 水中での死は、通常、肺腑の空気が全くないため、最初は水底へと引き込まれる。その後、徐々に臓腑が腐敗し、ようやく浮かび上がる。この幼い者に対して酷い仕打ちを加えた何者かは、この子がセハヌーの流れに乗って永遠の旅に出ることを、きっと目論んでいたのだろう。


 流れ出す前に、深みに沈むのを免れ、自分の舟に引っかかったのだろうか。老人には、少女が家族のもとへ帰りたく、舟に縋りついたように思えてならなかった。

 顔は冬の月のように白く、水中での時間が短かったことを物語り、なおも美しく引き締まっていた。


 水から引き上げた老人の目には、乱れたドレスと、深く損なわれた身体の一部が映った。どんなに残酷な行為があったとしても、神聖な祭りの夜にそれが加えられたという事実は、誤解の余地がなかった。

 老人は、豪華な衣装の裾をそっと整え、その不幸な出来事の痕跡を隠すようにし……、そして、自然に手が合わさった。


 「可哀相に。怖かったやろな……」


 幼子をそっと寝かしつけるように、その動かぬ身体に優しく触れると、老人は川の流れへ向かうのとは逆に、小舟を漕ぎ出し、運河の入り口へと向かった。

 そこは、漁や小荷物を運ぶ船が行き来できる、城内に張り巡らされた運河への出入り口であり、河と運河の境に必ずある川役人の詰め所へ届けるための場所であった。


 もし、財産に恵まれた家の愛された娘であれば、この手間は何でもなかった。家族の生死が分からぬまま連れ帰れば、やがてはそれなりの礼が届くだろう。だが、今日の漁で得られるものよりはるかに見合う謝礼が期待されるに違いなかった。


 この朝、黄泉の国へ旅立ったのは、大国イサクでも十指に数えられる豪商カルラーラの、ただ一人の娘であった。

 彼女は十三歳になったばかり。たとえ容姿に難があったとしても、財産目当てに求婚者が殺到したに違いない身の上であった。

 だがさらに、彼女は町一の美女と謳われた母譲りの顔を持ち、あと一、二年もすれば、間違いなく傾城と呼ばれるほどの器量に成長していただろうと噂される存在であった。


 実際、貴族の姫様ならまだしも、商家の娘としては、通常、結婚の話が出るにはもう少し年が必要であった。しかし、既にいくつもの縁談が持ち込まれていた。

 婚姻は貴族にとっては領地争いの一端である。それに対し、豊かな商人にとってはそれほど重要視されなかった。むしろ、男児が多く恵まれている豪商カルラーラにとって、彼女は唯一無二の宝であった。家中の者たちは、彼女を慈しみ、愛で、縁談などは一笑に付していたという。


 だからこそ、カルラーラ家の嘆きは深く、怒りは激しかった。そして、愛しい娘を惨い目に遭わせた者への厳罰を、王に直訴したのである。自ら制裁に動いたとしても、誰もが仕方がないと認めるものであった。


 少女の細い頸を絞るようにしていた、食い込んだスカーフが、犯行の動かぬ証拠として残されていた。それは、王立学校の学生が所持するもので、当然、名前が記されていた。


 ――エアリア・ロキメン。


 王立学校の学生であり、ロキメン家に連なる者。イサクの貴族中の貴族と称される五大家のうちの一つの家であった。

 ロキメン家は、軍事と石造りの技術を生業としており、力強さで知られていた。しかし、カルラーラ家は忖度することなく、王に直訴したのだ。


 イサク王イルディスは、「残酷王」と渾名される。弟妹すべての命を奪った後、その称号が自然と冠されるようになった。

 しかし、かの王は、法に則り訴えたカルラーラ家を憐れんだ。そして、ロキメン家の者であることに一定の配慮を示し、平民の娘の命を奪っても咎めることなく、特例として国外追放の処分を下し、共犯とされた留学生カイ・ユーレリアスには死罪を宣告したのだった。


 首都ザッティバーグでは、王の決断が喝采を受けた。イサクの残酷王は、恐れられつつも、隣国マヴァル王との外交を巧みに行い、絶えず国境の脅威と戦いながら、平穏をもたらしていた。

 五大家の伝統ある威光を背景に、エアリア・ロキメンは、罪のない少女の未来を奪った。国外追放ですら庶民感覚では甘い罰であった。その怒りの矛先は、学びを求めてこの国に来ながら、その悪事の片棒を担った留学生、カイ・ユーレリアスに向けられた。


 エアリア・ロキメン。永久国外追放。

 カイ・ユーレリアス。断罪と死刑の宣告。


 なお、貴族の断罪を平民が訴え出ることの不届きについては、事情を察して今回は特別に咎めないこととする。



     * * *



 父は静かに頷き、嗚咽交じりに、貴族に対するこの国の寛容さを嘆いた。母はエアリア・ロキメンの追放処分に納得がいかず、叫び喚き、ついに卒倒した。


 その中で、テオドール・カルラーラだけが、途方に暮れていた。何も考えることができず、ただ、美しく飾られた棺の中の妹の姿を前に、虚無感に打ちひしがれた目を彷徨わせていた。


 ――エア。

 ――カイ。


 恨み、怒り、涙、狂気……。


 ――ミアーヌ。兄ちゃんにだけは教えてくれ。お前を手にかけたのは、本当にあの二人なのか? 俺には……、信じられないんだ……。ごめん、ごめん。だけど……


 棺は沈黙を秘めたまま、その問いを静かに受け止めた。礼拝堂の天井は、まるで天に届かんばかりの高さで、揺れる蝋燭の炎が静寂の中に柔らかく灯っている。泣き女たちの声が堂内にこだまし、テオドールには、あまりにも定型的な哀しみさえ、どこか滑稽に映っていた。

 自分も、あのようにただただ泣くだけの存在になりたくはなかった。可愛かった、たった一人の妹のために。


 しかし、彼の心は、親友と信じていた青年たちへの追放と死という王の処断の理不尽さと、かけがえのない妹を汚し、殺めた者たちへの怒りとの間で引き裂かれていた。


 教会で聞かされる、子どもだましの地獄の責め苦――。それは、本当にあるものだと、冷たく哄笑を上げる現実として、生者たちの世界に顕現されていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ