2.おはよう
寝たままのあいつを起こさぬように、ベッドを出て、ゆっくりとお湯を沸かす。
私はコーヒーで、あいつは紅茶。
水切りからマグカップを二つ。置かれた食器たちはすっかり乾いていた。
右のカップにはドリッパーを置き、左のカップにはティーバッグを垂らす。フィルターを広げてドリッパーに重ねたら、棚から缶を取り出す。缶から粉を少し掬い出し、右のドリッパーの方に平らになるように柔らかく入れる。
ひっくり返ったグラスを水切りから一つ取り、お水を一杯飲む。喉が潤い、目が覚めていく。
軽くゆすいでもう一度水で満たし、寝室へと向かう。カーテンから漏れる明かりはすでに高く温かくなっていて、外の活発さが伝わって来る。でも、この寝室は涼しさと心地よい雰囲気で満たされていて、私とあいつを外から隔離していた。
ゆったりとした時間の流れを感じ、グラスを机に置いた私はあいつの寝顔に見惚れる。写真に収めようかな、なんて思ったりもするが、いつも撮らない。嫌がるからもそうだけど、何と言うか、私だけが見られるものとして、いつも同じ朝を迎えたいからなのかもしれない。そんなすぐこの日々が終わるわけでもないのに、漠然と、写真にしたら終わってしまうような、そんなセンチメンタルな気分になる。どうしてデートでは写真を撮るのに、この時だけはこう、不安?に襲われるのだろう。
ま、考えるだけ仕方ないか。
ぼぼぼぼと、お湯が沸いた。リビングのエアコンをさっと付けてから台所へ向かいコンロを消す。音がなくなり、開いたままのドアから見える仰向けのあいつから、すーすーという寝息が聞こえる気がする。私は「可愛いな」と思いながら、いや、声が漏れていた、とにかく再び口元を綻ばせる。
私は先に左のカップへお湯を注ぐ。
本当のところは、一緒にコーヒーを飲みたい。
高校生の頃に友達と話していた理想の恋愛では、毎朝一緒にコーヒーを飲むことが条件だった。恋人が私をつついて起こし、いつの間にか淹れてくれたコーヒーを一緒に飲める朝が迎えられたらどんなに嬉しいだろうって、青臭い妄想をしていた。
湯気を立ち昇らせるカップが、ゆっくりと香ばしい色になっていく。
私はドリッパーの方にもお湯を注ぐ。最初は「蒸らす」。しばらくしてから、数回に分けてお湯を注ぐ。別段こだわりがあるわけじゃないが、「の」の字で注ぐ。信じれば美味しく感じるというやつだろうか。でも実際、このやり方が一番香りが引き立つと思う。
もしあいつもコーヒーを飲むのなら、戸棚の奥にしまわれたままのサーバーを使う。でもあいつはコーヒーを飲むと頭が痛くなるらしい。だからいつもコーヒーは私だけ。私の一杯のためだけにサーバーを使おうとは思わない。洗い物が増えるわけだし、そこまでガチ勢じゃないから。
紅茶は案外手間が掛からない。カップにティーバッグを入れてお湯を注いで終わり。後はあいつの好みに合わせて砂糖を大さじ一杯入れて優しく混ぜるだけ。
コーヒーは淹れ終わったので、もう一方からティーバッグを取り出し砂糖を入れる。
私はブラックが好きで、あいつは甘めが好きだ。
正直、大さじ一杯であいつが満足しているのかはわからない。けれど、いつもそうする。あいつが「美味しい」と笑顔で言うから。
ドリッパーを退けて、マグカップを二つ持つ。ゆっくりとダイニングテーブルに運んでいく。豊かな香りが部屋全体に広がっていくのを感じる。これで用意が出来た。
私は口惜しくなりながらも寝室に行き明かりを付けると、あいつの肩をつついた。
「おはよう」
反応なし。まだ寝ている。
「おーはーよーうー」
私はあいつの肩を揺らす。
「んんぅ、ぅぃわぅ」
まだ夢の中なのか、抵抗なのかわからないが、むにゃむにゃとしている。
愛らしいやつめ。
私はにまにましながらあいつの髪に触れる。この手触りがたまらなく愛しい。
私って、髪そんな好きだったっけ?
疑問に思いながらも、事実を甘く噛みしめる。
「ほら、紅茶入れたよ?」
柔らかい声が漏れた。
頬のラインを指でなぞると、あいつがゆっくりと瞼を開けた。目が合う。
「おはよう」
あいつが優しく囁く。
心の奥でじんわりと温かさが溢れていくのを感じた。
「おはよう」
私は答えた。きっとにまにましながらだっただろう。
確かに、理想的かと問われたら、なんとも言えない。細かいことを挙げればキリはない。
でも、幸せかと問われたら、胸を張ってそうだと言える。
「コーヒー?」
あいつが鼻をぴくぴくさせて寝ぼけ眼のまま尋ねる。
「私のは、ね」
「ん、いい匂い」
そう言ってあいつは笑顔になる。別にコーヒーが嫌いなわけじゃない。飲めないってだけ。だからいつも、私の淹れたコーヒーの匂いをあいつは楽しむ。私はそうして笑顔になるあいつの顔に癒される。それだけでいいのだ。理想である必要などない。
あいつはのそっと体を起こした。私も隣に腰かけて、机に置かれているグラスを手に取る。
「はい、お水」
「ありがと」
渡したお水をあいつは二口ごくごくと飲むと、ようやく目が覚めてきたようだ。
「起きた?」
「うん、起きた」
「……ふふ」
「ふふふ」
いつもの儀礼的な言葉を交わして、私達はお互いに笑顔になる。
私が立ち上がると、あいつもつられて立ち上がる。いつも手を繋ぐか悩むけど、今日は立ち上がる時にあいつの手に軽く触れるだけにした。ちょっとした意地悪のようなことだった。するとあいつは、離れようとする私の手をぎゅっと掴んできて、そのまま私が手を引くようにして寝室を出た。幸せの欠片が光った気がした。
のそのそと席につき、お互いの顔を見つめ合う。どちらからともなく、それぞれのカップを手に取り口元で傾ける。香ばしい温かさが喉を過ぎて身体の中に染み渡る。
午前11時過ぎ。ほんのりと温まる身体とお互いの笑顔で、幸せが空気を満たしていることを実感しながら、私達の休日は始まる。