第二話(作者:柴野いずみ)
「エリス・ヒュゴット、お前との婚約を……ブフォッ!?」
「ど、どうなさいましたか殿下!?」
――とある世界の、とある夜会にて。
王太子のモーレッツが婚約者のエリス・ヒュゴット公爵令嬢に指を突きつけ、婚約破棄を告げようとしていたその時だった。
突然モーレッツの顔面にウサギ……ウサギ?のようなものが現れ、「ひゅんっ!?」とわけのわからない声を上げたのは。
「ちょっと何よそいつ!? え、エリス様、婚約破棄されたくないからってそんな正体不明の魔物をモーレッツ様の顔に降らせるなんて卑怯ですよ!!!」
モーレッツにしなだれかかっていた少女――セダが悲鳴のような声を上げながらエリスを罵った。
しかしこれは別にエリスが降らせたのでもなければ、モーレッツの顔から生まれたわけでもない。その名をヒュンタという善良な小動物であるが、そんなことはこの場に居合わせた誰にも知る由はなかった。
「わたくし、そんな魔物は存じませんわ! と、とにかく衛兵、その魔物を殿下の顔から引っぺがしなさい!」
エリスの声で衛兵たちが一気にモーレッツ王太子に駆け寄る。
ヒュンタはそれに驚き飛んで逃げた。その際にモーレッツの鼻にヒュンタの猛烈なキックが食い込み、彼は鼻血を撒き散らしながら倒れる。
「も、モーレッツ様!」
叫び、セダがモーレッツを揺するが彼は完全に気を失ってしまっていて、さらには鼻血がものすごいことになっていた。
「よくも殿下を!」
今まさに婚約破棄されようとしていたエリスだったが、これでも一応モーレッツの婚約者である。正体不明の謎生物に婚約者を傷つけられたとあっては黙ってはいられない。
会場の空気が急速に冷え込んだ。比喩的な意味ではなく実際に温度が低くなったのだ。エリスの手に魔法でできた氷がいくつも生じ、それがヒュンタへと向けられ、放たれようとしていた。
――と、その時。
「見つけたぞ!」
そんな声と共に、エリスの頭上の虚空から何かが落ちて来た。
それが見事彼女の頭に激突し、か弱き令嬢は「うぅ」とうめき声を漏らして地面に崩れる。そんな彼女の背中の上に立っていたのは、見たこともない騎士らしき格好をした怪しい男だった。
「ちょっとちょっとまたなんか出て来たんだけど!?」一方のセダはもはや理解が追いつかずに喚く。「ってかいくら悪役令嬢でも踏みつけにしていいわけないでしょうが!!! ゲームにこんなシナリオあったっけ!? あんたどこから来たのよ!?」
セダはどこかの異世界から転生してきたヒロインと呼ばれる存在である。しかしそんなことはこの際本当にどうでもいいことだ。
エリスを踏みつける男に慌てて怒声を浴びせると、男はセダの方を振り返った。
「ああ、これはすまない。私は魔法騎士団長のユーリだ」
「魔法騎士団って聞いたこともないんですけど! とにかく退きなさいっての!!! このあほんだら!」
あほんだらと言われて少し傷ついたらしいユーリは顔を歪めながら、やっとエリスを下敷きにしていることに気がついたようで驚いて飛び退いた。
……と、それとほとんど同時に他の魔法騎士団員たちが夜会の会場に一気に出現する。夜会参列者はこの急展開に息を呑むしかなかった。
「ひどく驚かせてしまっているようだが仕方がない。とにかくヒュンタを捕まえるんだ」
ユーリ団長が叫ぶ。団員たちがそれに従い、会場の隅で小さくなっているヒュンタの周りをそーっと取り囲んだ。
この状況にとてもではないが納得できないセダは、無我夢中で喚き散らしている。
「あんたたち! せっかくのハッピーエンドをどうしてくれるのよ!? ここでエリス様を断罪してこの私がモーレッツ様の婚約者になる予定だったのよ! それがあんたたちのせいでめちゃくちゃじゃない!」
しかしそんなことは魔法騎士団員の誰一人として聞いていず、ユーリ団長がまた気持ちの悪い笑みを浮かべながらヒュンタにおやつを差し出していた。
「ほれ、お食べ〜」
――直後、ヒュンタは「ひゅん!」と怯えたような声を発して忽然と姿を消した。
言うまでもなく異世界へ行ってしまったのだが、それを見ていた無関係者からしたら意味不明すぎる現象である。
「ウサギ消えたんだけど! ってかあれウサギなの何なの!? 待ちなさいよこら! モーレッツ様を怪我させた弁償しろやこらぁッ!!!」
「団長がやるからダメなんだよ……」
魔法騎士団員の一人が呟いたが、それは誰にも届かなかった。
「クソ。次の世界へ行くぞ。……そうだ、あそこで騒いでいる女はとても美人だから国王陛下への土産に持っていくとしよう」
舌打ち混じりにユーリが言い、四肢をばたつかせて騒いでいるセダを指差す。
確かに彼女はストロベリーブロンドでとても愛らしい容姿をしており、王の好みのドストライクだった。
ユーリの命令を受けた騎士団の団員たちが途端に彼女を取り押さえる。
セダは「やめて! 放せ誘拐犯ッ!」と叫んだが、そんな言葉に騎士団が耳を貸すはずもなく、すぐに捕獲されてしまった。
ユーリは一足先にヒュンタの後を追ってまた別世界へと飛んでいく。暴れるセダをなんとか抑え込んでから、団員たちもそれに続いた。
……そして呆然とする参列者たちを取り残し、夜会の会場は再び静けさを取り戻したのだった。
夜会に突如として現れた謎生物や魔法騎士団と名乗る集団、そして誘拐された男爵令嬢のセダ・アレクシアがこれ以降どこへ行ったかはこの世界の人間は誰も知らない。
ちなみにこの『謎生物出現事件』の後、騒動によって負傷した王太子モーレッツと公爵令嬢エリスは治療院で数日を共にし、その間に関係を改善して仲の良い婚約者同士になったという――。