Act.1 日常とデジャブ
少し間が開きました。よろしくお願いいたします。
幼い頃から、ずっと見ている夢がある。
見渡す限りの屍の山の中で、血塗れで立ち尽くしている夢。
一歩でも歩けば血が足に纏わりつき、振り返れば誰のものかも分からない人骨が無数に散乱している。
そんなこの世の地獄のような場所で、自分は満身創痍で息をしていた。
剣で全身を切り裂かれた身体は炎のように熱く、爆ぜるような痛みが常に全身を駆け巡る。
そして何故か酒にでも酔ったように体がだるく、手足に上手く力が入らない。
それでも右手に握った長剣だけは絶対に手放してはならない気がして、最後の力を振り絞りながらぶら下げている。
ガタガタと震える足を叱咤して、まっすぐ見つめた地平線の向こうには、燃えるような太陽が暁の光を覗かせていた。
ああ、死ぬな。
悪くない人生だった。
まるで他人事だ。
でも、不思議とそれ以上の感情は湧いてこないのだ。
夢の中の自分が己の死に際に手向けた言葉は、毎度毎度たったそれだけ。
それを薄情と罵るのは少し違う気はするが、流石に無頓智ではなかろうか。
半分だけ残った意識が毎回苦笑する。
それでも命の欠片は尽きていく。
遺言はいつも同じだ。
アレク、会いたい、愛してる。
馬鹿みたいだ。
本当に無頓智だったんだろう。
己の全てだと言い切れるほど愛した男への恋情を初めて自覚して、会いたいと希って涙を流すなんて。
なんて不器用なんだろう。
なんて馬鹿なんだろう。
こんなに恋しくて愛しくて堪らないのに、今更気が付くなんて。
嘆いても足掻いても、もう命は残っていないのに。
ああ、それでも。
それでもただ、あなたに会いたい。
生まれ変わったら、きっとまた。
もう、立つことすらままならない。
力が抜けた右手から握り締めた剣が滑り落ちていく。朦朧と揺れる意識が急に遠ざかって、暗闇へと落ちていった。
そして、瑠璃の意識は覚醒する。
まだ覚束無い視界に広がるのは、白い壁にダークブラウンの机、水色の毛布に枕元のぬいぐるみ。
レースのカーテンが掛けられた窓辺からは朝日が差し込み、一気に目が覚める。
見慣れたいつもの風景だ。
屍の大地でも血の池でもない。
その事実に安堵したのも束の間、あの凄惨な光景がフラッシュバックする。
思わずすぐ隣にちょこんと座っていたティディベアをきつく抱き締め、次いで深いため息を零した。
「……また、このゆめ……?」
頬を伝う涙。
微かに震える指先。
胸に残った、燃えるような想いの残滓。
これは一体誰の感情なのだろう。
急速に鮮明さを欠いていく夢の記憶を思い返しながら、何度考えても答えが見つからない問いを噛み締めた。
女子高生の朝は忙しい。
顔を洗って、髪をセットして、制服を着て、軽いメイクだってやっておきたい。
なんたってお年頃だ。
パタパタと忙しなく歩き回りながら、瑠璃はファンデーションを片手に姿見を覗き込んだ。
背中まで伸ばした長い黒髪に、健康的ながらも細身な身体。肌は結構白い。
身長は日本人女性の平均と同じ。
どこにでもいる、ごく普通の女子だ。
しかし、どこからどう見ても平凡なこの容姿の中でも、1箇所だけ特異な部分があった。
それは瞳の色だ。
日本人の瞳は多くが焦げ茶だ。たまに明るい鳶色や漆黒も見かける。
しかし、瑠璃の瞳は全く異なる。
夜明け前の空を写し取ったかのような、澄み渡った深い藍色の虹彩。
しかも藍一色ではなく、紺碧の中に所々金色の光が星屑のように煌めいている。
まるで、ラピスラズリの欠片をそのまま埋め込んだかのような希少な瞳。
これが瑠璃のアイデンティティ。
名前の由来もこの瞳だ。
━━この目は我ながら綺麗だと思う。目立つのはいただけないけど。
この目に合う色を施そうと思ったら、到底学校に行ける顔ではなくなってしまう。なのでいつも通り最低限のマスカラとアイラインだけで済ませた。
鏡で全身を確認し、階下へと降りていくその立ち姿が夢の中の女と重なることに、彼女が気付くことはなかった。
「おはよう、瑠璃」
「おはようお父さん。あれこれって……フェンシング?」
ソファーに腰かけてコーヒーを啜っていた父が、瑠璃を見てにっこりと微笑んだ。穏やかな笑顔が、おっとりと温厚な父の性格をよく表している。
その視線の先にあったテレビの中では、全身を包む白いユニフォームと顔を覆う面を被った男の人が、レイピアのようなよくしなる剣を打ち合っていた。
「昨日大会があったみたいでね、今朝からずっとやってるんだ。瑠璃はどっちが勝つと思う?」
父が見ていたのは、どうやらフェンシングの世界大会の決勝戦の映像らしい。
世界最高峰の強者同士の戦いは確かにフォームも美しく、見応えがある。
目にも止まらぬ速度で繰り出される突き技は圧巻の一言。
その実力は高いレベルで拮抗しており、傍から見れば互角に見える勝負だ。
しかし、瑠璃にはその動きがまるで止まっているかのように鮮明に見えた。
━━確かに2人とも強い。でも……
黙り込んでしまった瑠璃を、父親は少し戸惑った目で見ている。
しかし、瑠璃は気付かない。
ただ食い入るように画面を見つめる。
海より深い紺碧の瞳に、いつもとは異なる猛猛しい光が宿っていた。
━━右の人、足捌きに隙がある。今は良くても追い込まれた時にこれじゃ対応し切れない。
瑠璃の脳は瞬く間に結論を弾き出した。
「左、かな。」
その瞬間、審判が動く。
その後もVTRは続き、映像はカットされる。勝者はやはり左側の選手だった。
「わっ、当たった。」
「すごいなぁ、お父さんは全然分からなかったよ。」
やけに真剣な顔で褒めてくれた父に、たまたまだよ、とにこやかに返す瑠璃。
テレビはとっくに次のニュースに切り替わっていた。有名な芸能人の熱愛スキャンダルが大きく報じられていたが、生憎全く興味が湧かない。
「瑠璃、起きたの?朝ごはん出来たから食べて〜。」
ゴシップよりご飯の方が大事。
キッチンから響いた朗らかな声に、元気よく返事をして、それきり瑠璃の脳内から先程の煌めきは失われた。
「いってきまーす。」
いつも通りの挨拶と共に、爽やかな快晴の世界へ踏み出して行く。
2月下旬の東京の空は、冬特有の凍てつくような澄み切った空気の名残を残しつつも、何処か柔らかな温もりを感じる。行き交う人の吐く息もまだ白くて、コートとマフラーはまだ手放せそうになかった。
まだ朝礼まで時間はある。急ぐ必要もないので、ゆっくり歩きながら駅へ向かうのが常だ。
「やば、今日新刊出る日じゃん。本屋寄らなきゃ。」
小さく漏らした一人言も都会の雑踏に揉まれて消えていく。そんな心地いい孤立感に、瑠璃はひっそりと微笑んだ。
今日もいい日になりそう。
寒い寒いと呟いて、なんとなくお弁当の中身を予想しながら、地下鉄のホームを目指して歩みを進めていった。
自分が特別な存在だと思ったことはない。
二度の世界大戦が集結して70年以上経過した平和な時代に、日本という豊かな国に産まれ落ちて、ごく普通の穏やかな家庭に育った。
成績は中の上、手先は不器用で、瞳の色を除けば大した特徴はない。
特技は特にない。趣味は読書。
友達はいなくはないけれど、そこまで深入りするような仲の人間はいない。
どこにでもいそうな女子高生。
それが自身に下す評価だった。
特別な力も能力もない。
ただ、時折感じる違和感の正体を知る術もないまま、ぬるま湯のような日常を繰り返して生きてきた。
そんな平和な日々が、永遠に続くと思いながら。