4-1
二人はカジノへ来ていた。三条はビリヤードでもどうだと言って、百五十嵐を誘った。百五十嵐も、そこまで執拗に誘われたら、断るのもはばかれたので、やってみることにした。気まずい雰囲気を作った負い目もあったかも知れない。
「よしっ!また俺の勝ちだな!見たか俺の、トリックショットを!」
「仕方ないでしょ、わたし初めてなんだから」
三条は容赦なく初心者相手の百五十嵐に本気を出していた。三条の連勝だった。
「でも初心者にしちゃ上出来だ。ま、俺のコーチングが良かったからだな」
初心者ながら百五十嵐も筋はいい方だった。いくつか三条の玉を落とすこともできたし、初心者にありがちな穴に最短距離で落ちていく、というようなお粗末プレイもなかった。
「コーチングって……。ルールしか教えてもらってないんだけどね」
「細けぇことは気にすんな」
プレイを重ねるたびに百五十嵐はうまくなっていく。彼女はいつしか自分が楽しささえ覚えるようになっていることに気付いた。
――ま、死んだとはいえ、悲しんでばかりじゃ始まらないからね。その……こいつの適当な性格も考えものだけど、いつまでしょぼくれてるのも良くないよね。
そしてゲームでは彼女についにチャンスが訪れた。
千載一遇の機会。三条が少しだけミスをし、自玉は絶妙な位置へ。百五十嵐は押し込みさえすれば、すべての玉を落とし、勝利することができる。
「ふふ、三条、見てなさい」
しかし彼女のショットは玉に当たったものの回転がかかってしまったのか、中心をわずかに外し、穴ぎりぎりの縁に当たった。自玉は縁に当たった後、別の穴に吸い込まれる。次の三条の番では彼は確実に玉を打ち込んだ。
「勝てると思ったのにぃ」
「ククク、俺に勝とうだなんて百年早いわ!」
不敵な笑みを浮かべる三条に、もう一回とせがもうとした百五十嵐だった。が、既に長くプレイしていて、彼女は喉に渇きを感じていた。
「わたし、飲み物かってくるわ」
「おう、俺はコーラな」
「調子良いんだから……」
彼女は遊技場のフロアを少し出たところにある自販機でジュースを二本買った。缶の冷たさを感じながら、フロアへ戻ろうとする。
入り口のすぐ前に、大きなテレビがあった。映画が上映されている。備え付けのソファで数人が見入っている。なんとなく、百五十嵐は立ち止まった。
画面上に、すすり泣く子供の姿があった。五歳くらいの女の子。彼女は病室のベッドで眠っていて、その傍らの母親と手を繋いでいる。母親も涙目だ。
「わたし、死ぬの……?」
「うんうん、死なないよ。遠い国にお出かけするだけよ」
「ママも、一緒?」
「うっ。ごめんね……。私は行けないの。でも大丈夫。幸せな場所だから。私も、遅れていつかそこに行くわ」
「嫌!ママも一緒に行こう!一人は嫌!」
「ご、ごめんね……ほんとにごめんね……」
「うわああああああああん。ママあああああ!」
百五十嵐は駆けだした。感情が湧出した。目から溢れるものを隠すために、どこでもいいから人のいないところへ向けて走った。一心不乱に廊下を突っ走り、外に出ていた。テラスになっていて、空調機のようなものがあるだけで、誰もいなかった。百五十嵐は腰から崩れ、膝をついた。
自分が死んだという事実が重くのしかかる。死んだ直後は、死んだことがすぐには理解できなかった。実感は、あの子供の泣く姿を見て、堰を切ったように溢れだした。
「わたし……死んだんだ。本当に死んだんだ。もうあの世界には戻れない。お母さんにも会えない……。わ、わたし……」
彼女は目の前が真っ暗になり、息が苦しくなった。体に力が入らずに、頭から地面に倒れそうになった。
しかしそのとき、彼女は自分の肩に衝撃を感じた。
「どうした、大丈夫か?」
百五十嵐が振り向くと、息切れしている三条が彼女の肩を掴んで立っていた。
「入り口で騒ぎがあったと思ったらやっぱりおまえか……」
「ごめん……。でも、わ、わたし……。やっぱり死んだのよ。もうお母さんに会えないの……」
堪えようとすればするほど、なぜか涙は多く流れていく。口を震わせ、紅潮して、じっと三条の目を見ていた。
「まだそんなこと言ってんのか。気楽に行こうぜ。親御さんなんてそのうちぱっと見つかるだろ」
「な、なんでそんなこと言うの!わたしは本気なのよ!ふざけないで!もう二度と会えないの!わたし、もう無理……」
百五十嵐はたまらず崩れた、いや崩れようとした。しかし三条が支えている。
「馬鹿、だからそんなんだから駄目なんだって」
「なんでそんなこと言うの……。わたしの何が駄目なのよ……」
「駄目も大駄目だ。そんな顔してるときに、もし親御さんがひょっこり現れたらどうするんだよ。相手はこう思うだろうぜ、自分が会えなかったせいで娘に苦労かけた、ってな。」
「……」
涙が止まった。三条の言っていることはまさにその通りだったからだ。
彼女は自分が母親に会うことばかりに夢中で、そうなれば母親も娘に再会するという当たり前のことを忘れていたのだった。
「母親に心配かけたくないなら、もっと笑えよ。おまえは会えないことばっかり考えてるから、うまくいかないんだ。うまくいって、会えたときのことを、考えろ」
三条はほとんど顔を近づけて、百五十嵐の瞳をじっと見つめていた。
「くすっ」
百五十嵐が笑った。
「なんだよ」
「あんたほんと、性格良いか悪いか分かんないわね」
「馬鹿野郎、良いに決まってんだろうが」
「でも、ありがとう。元気出た」
「お、……おう」
三条は目を背けた。だから見逃した。百五十嵐の、涙がまだ残る、屈託のない笑顔を。子供のように、なんのわだかまりもなんの腹蔵もない、無邪気な笑顔を。彼女が死んでから見せる初めての笑顔を。
――ほんとは良い奴なのかもね。
百五十嵐の目には、三条の背中はそれまでと違って見えた。
「あっ」
そして彼女は思い至った。三途川に来るまでの貨車で、自分が身の内話をしたとき、三条が黙った理由を。
もしかすると、どんな言葉をかけたらよいかを考えていたのではないか?彼女の置かれた状況は深刻だった。そんな人間に対する言葉を選ぶのは難しい。当たり障りのないことは言えても、本当に元気づけられる言葉を言うのは簡単ではない。
だから三条は彼女に対する言葉を黙考し、吟味する時間が必要だったのではないか?そうすれば、あの沈黙の理由に説明が付く。
――わたしを励ます言葉を考えててくれてたのかな?
それにさっきまで、三条は執拗に百五十嵐を遊びに誘っていた。腕を引いてまで彼女を連れて、ゲームをさせた。それも、彼女を元気づけるためであったのではないだろうか?
――気付かないうちにわたしもゲームを楽しめるようになっていたわ。
百五十嵐はそっと胸に手を当てた。そこに感じた暖かさ――それはあの事故の直前に、三条に助けられようとしたときに感じた、暖かい衝撃と同じ感覚だった。