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六階堂は隣の座席の底から、ノートパソコンのようなものを取り出した。
「えっと、百五十嵐の母親の名前は……」六階堂は百五十嵐に言われた母親の名前をキーボードで入力した。「ないな」
「なんの話だ?」と、三条。
「天国の戸籍簿を調べたんだよ。仕事柄、私はアクセスできるんだが、百五十嵐の母親の名前はなかった」
「戸籍簿って……。というか、名前がないって事は、まだ生きているってことだな」
「そういうことだ。私のアクセスできる戸籍簿は天国の住人のものだけだが、看護士だったということは、地獄行きになることはほぼあり得ないからな」
「あの母が地獄に行くはずがないわ」
「そうね。それなら、まだ生きているってことだな。それはそれで良かったのかも知れない。だけど残念なのは、天国にいないなら、母親を見つけるのはなかなかハードルが高い、ということだな」
「うん、そう……」
百五十嵐は複雑な表情を作った。喜び半分、落胆半分。
「だがな、百五十嵐。死後の人生は長いんだ。おまえの母親もいずれ死ぬ。それでおまえと母親がそろって天国へ行ったなら、きっと会えるだろう」
「でも……。それって何十年待たなくちゃならないのよね……」
「……」
六階堂がうつむいたが、返事はなかった。聞こえるのは、耳栓を押し込まれたように静かな空と、途切れた会話の残滓だけ……。地上は遠に見えなくなり、澄んだ青の中を飛んでいるが、進んでいるかどうかさえも怪しくなる。
三条は肘をつき、変わらない景色を無表情で眺めていた。その姿を見つめながら、百五十嵐は顔をしかめる。
――急に静かになったわね。わたしが過去のことを話した途端。こんな反応、身に覚えがあるわ。わたしが母のことを話すと、いつも他の人はこうなるのよね。励ましたりしてくれる人もいるけど……形式的で、なるべく深入りしないようにって感じ。それが当たり前の反応よね。
――でも、なにか期待しちゃってたのかも。こいつ、あまりいい人だとか、優しい奴だとか思わないけど、それでもわたしを救おうとしてくれたのよね。だから、わたしのことを優しい言葉で励ましてくれたりとか、真剣に相談に乗ってくれたりとか、してくれるんじゃないかって。でもだめなのはわたしね。少女漫画の読み過ぎなのね。そんな都合の良い王子様みたいな人が、いるわけないのに……。
――それにしてもこんな男が人のために命を犠牲にするなんて、信じられないのよね……。分からないわ。今までの様子を見ても、そんな片鱗ないのよね。
百五十嵐はなぜ自分のことをそんなにまでして助けようとしたのか、少し前に本人に聞いていた。しかし、
「言ってるだろ、俺は善人なんだって、王子様なんだって」
そんな感じではぐらかされるだけ。そんな適当な理由で、命を犠牲にするなんて無理。百五十嵐はよく知っていた。
実は彼女も三条と同じように、一人の命を救うために死んだ。六階堂は、百五十嵐が道路へ飛び出したことを不注意だと戒めた。しかし違う。彼女は道路の真ん中にいた小さな少女と、向かってくるトラックに気づき、幼い命を守るため道路に飛び出したのだ。
三条と六階堂は気付かなかったが、百五十嵐の死体の下に、ちゃんとその小さな体があった。ちゃんと息もあった。魂も出ていなかったから、生きていたのは確かだろう。
百五十嵐自身も命を犠牲にして他人の命を救った身だ。だからその行動に出るためにどれだけ勇気がいるか、よく分かっていた。
三条は隣のシートで鼻提灯をつけて眠っている。
――そんな勇気がこの男からで出てくるなんて、考えられないのよね。
百五十嵐はトラックに跳ねられる直前に、三条が自分の体を押してくれたことを覚えていない。そして彼の顔も見ていない。実際は顔が見えたのかも知れない。しかし事故の衝撃による記憶喪失は、そこまで及んでいるようだ。
わずかに記憶にあるのは、自分の体を何か暖かいものが押してくれたという感覚だけ。押してくれたその手は、とても暖かく、優しいものだった。ちょうど、小さな頃に百五十嵐の面倒を見た、母親のような。
その存在は、いままさによだれを垂らして鼾をかいている三条の印象とは真逆だった。
――あぁ、もう考えるのも面倒になってきたわ。
百五十嵐も少し眠ろうかと思い、目を閉じた。が、間もなくして急に、瞼の裏が暗くなったので、目を開けると、目の前に巨大な黒い雲、天を覆う雲が迫っていた。
あたりが急激に暗くなり、完全な闇となっていた。雲塊はみるみる近づき、そしてそのまま、貨車はその雲塊へと飛び込んでいった。