2-1
逆さになった滝のような速度で天へと昇っていることは分かる。オープンカーで高速道路を走ったらこんな風を肌に受けるだろうなという感覚。しかし地上のあらゆるものが遠ざかり過ぎていて、景色はゆっくり過ぎているから、ときどき進んでいることも忘れそうになる。貨車は華やかな天蓋こそ付いているもの、隙間だらけだし、どう見ても、風圧に耐え切れそうにない。そこに乗った三人も然り。死者の世界の物理現象は、現世と事情が違うのだから、どんなことがあってもおかしくはない。
貨車の内部は一つの仕切りで分かれ、進行方向の側に六階堂がいる。書類をしばらく見ていたが、その後、なぜだかこぼれない紅茶を飲み始める。おそらく自動運転なのだろう、と二人の死者決め込んだ。二人は後方の席に、隣り合わせに座っている。
二人の口数は少ない。無言の時間が長く、二人とも退屈だった。三条が口を滑らせた。
「こんなに長いだなんて聞かされてないんだが」
この速度で行けば天上なんてすぐに着くはずだと言う三条の見立ては外れた。大気圏の限界の高さは百キロメートル。時速八十キロで走っても一時間強。勿論信号はない。体感だと、既に三時間は経過している。地上的な考えは捨てなければならないらしい。
「もうちょっとだから、待ってなさい」
六階堂が答える。まるでドライブで渋滞に巻き込まれた母親が、子供に諭すような口調だった。
そしてまた無言になる。三条はたいてい、会話なしに他人と二人で居合わせるような状況には困らない。話すこともないのに話の種を頭の中で探すのが面倒だから、諦めてしまう。
が、このときばかりは別だった。どことなく気まずい雰囲気。空気感というか、幽霊はいわば自身が空気みたいな存在だから、雰囲気の感じ方も変わるのだろうか。三条はその気まずさを無性に解消したくなる。
それに今は、会話の種がないではない。
「なあ、六階堂のおばさん。死後の世界について教えてちょ」
「おまえの態度は山の天気か。さっきまでの媚びへつらいはどこいったんだよ」
「いやぁ、冷静になってみたら、おばさんに媚びても仕方ないって分かってきたんっすよ」
「分かってくれたのはいいが……どうか“おばさん”呼びだけはやめてくれないか?私はまだ二十五だって言っただろう?」
「確かに、二十五でおばさんはまだ早いかもな。でもお姉さんというのもちょっと……。おばの“ば”とお姉の“ね”の間をとって“の”で、おのさん、ってのはどうだ?」
「誰だよそれは。普通に六階堂さんでいいだろうが。なんだ?そろそろ名字変えろとかいう嫌味か?生前、私の母が言ってたみたいにか?孫の顔が見たい、みたいなのと同じ嫌味か?」
「そんな高度な皮肉思いつくか!ただ思いつきで言っただけっすよ……」
「なら良いんだが……」六階堂はバックミラー越しに怪訝そうな表情を作ってみせた。
「ところで、さっき生前の母親がどうこうって言ってたけど、六階堂さんって天使じゃなかったのか?天使に生前とかあるのか?」
「実は天使は元人間なんだ。地上の人間は天使なんて全く異質の存在だと思っているが、それは違う。天使になる素質のある死者は天使になる」
「それ、自分が天使になる素質があったって言ってるのと同じ?」
「黙れ。おまえが思っているほど天使はキュートでエンジェルでフェアリーなもんじゃない。どうせおまえはゲームや漫画の影響でそんな固定観念を醸成したんだろうが、もともと西洋のキリスト教の天使は男だったりして……」
「そういうの聞いたことあるな。聞こえてない振りしてたけどな。まぁ、天使が元人間だったってのは意外だ――ところで、六階堂さんはいつ死んだんです?」
「……あぁ、二十年前だよ」
「え?それって?五歳の時に死んだって事か?」
「違う、死んだのは二十五歳だ。人間はな、死んだ後はもう歳を取らないんだ……」
「え?そういうもんなの?」
「私たちは肉体を現世の世界に置いてくるんだ。老化っていうのは、簡単に言えば脳も含めた肉体の風化ってことなんだから、肉体のない私たちが老いることはない」
「そうだったのかぁ。……ん?じゃあ、実質、六階堂さんって四十五歳ってことだよな。それならおばさん呼びでもいいじゃないか……」
「断じて違う!死んでからは歳を取らないと言ってるだろう。だから私は永遠の二十五歳だからな!だからおばさんじゃない!それに、まだ適齢期だからなっ!まだ賞味期限切れでもないし、チャンスはあるからっ!」
六階堂の物言いには相手に有無を言わさない凄みがあった。顔はミラー越しでよく見えないけれど、三条は六階堂の背中から発せられる威圧感にヒヤッとした。
このおばさん結構厄介だぞ、と三条は思った。年齢がらみの話になると、地雷が多すぎる。ここは一度話題を変える方が得策みたいだ。咳払いをしてから言う。
「でも死人が歳を取らないっていうことは、死人は永久に天国か地獄で暮らすってことなのか?」
「それも違う。肉体と同様、精神も衰えるものなんだ。精神の老化のスピードは肉体に比べて圧倒的に遅いから、地上の人間は老化していることにも気付かない。ちなみに老人のボケは精神の老化とは関係がない。あれは脳みそという肉体の老化の話だからな」
「だから肉体が先に死んで、精神はこうやって生き続ける」
「そうだ。ただ精神は、見た目の変化を伴わない。内面的なものだからだ。しかし徐々に消耗していく。徐々に徐々に消耗して、かなり長い年月が経って、……消える。統計的にいえば、精神の寿命は肉体のそれに比べて五倍はあるって話だ」
「消える、か。ってことはいよいよあの世でも消耗して、またそこで死んだとしたら、いよいよ“無”、なんだな?」
六階堂は首を横に振った。
「うんうん。そうじゃない。あの世で死んだら、また現世で蘇るんだ。ただし記憶を失ってだ。天国で死んで、ぽっくり逝くと、現世の違うどこかで、また赤ん坊として生まれる……」
「輪廻転生、ってやつか……」
また宗教がごちゃついているな、と三条は思った。
「まぁ、なんとなく死後の世界ってのが少しは見えてきた気がするな。死んで長く天国か地獄に暮らして、そこで長生きして死んだ後、またリセットして現世に戻る。大雑把に言えばそんなもんか……。うーん。でもさぁ、そんなら死ぬって大したもんでもなかった、ってことだよな」
三条は鼻で笑うように言った。
「だってさ、死んでも死後の世界があるんだし、どうせまた生き返るんだからな。地獄へ行かない限り、死ぬなんて高校から大学に行くとか、家元を離れるとか、そういう環境の変化にすぎないもんなんだろうな。大げさに扱うほどのことじゃない、ってことだな」
「わたしは違うと思う」
百五十嵐が唐突に入ってきた。いきなりだったので、三条と六階堂は驚いた。
「死んだ時に、現世での人間関係は全てリセットされるのよ。生きている人とはもう会えない。現世の人は死んだ人に会えない」
「まぁ、それもそうだが」
「わたしね、母親をずっと探していたの……」
百五十嵐は顔を上げて遠くを見る。つられて三条も一瞥した。貨車は勢いよく天へと進んでいるのに、なぜか妙に静かだ。時間の感覚は薄れ、まるで止まっているかのようだ。
「母は看護士だったの。だからか分からないけど、世話好きで、小さい頃はわたしを大切に育ててくれてたの。ずっと笑顔だった。父は既に死んでいて、女手一つで育ててくれた。でも、ある時急にいなくなっちゃたの。蒸発……ってやつなのかな。わたしに何も言わずに、いなくなったの。死んだかどうかも分からないの。
親戚の人たちはすっかり諦めたけど、でもわたしは諦めなかった。お母さ……母はわたしを置いて逃げるような人じゃなかったもの。何か理由があるんじゃないかって。今までわたしは母のことをずっと探してきた。母の知人や病院関係を探ったり、街中を歩き回ったりして。執着しすぎだって、白い目で見られたこともあったわ。それでも諦めなかった。だけど、駄目だったのね。死んだらもうおしまい。わたしはもう母とどうやっても会えないの……」
最後のほうは声が少し震えていた。見えていた横顔も隠し、真っ白な空間のほうに顔を向けている。三条は何も言わなかった。
「大変だったんだな」六階堂が代わりに言う。
「うん。それに、どんな不運の巡り合わせか知らないけど、今日、母に関する重大な手がかりをちょうど見つけたの。そんな折に死ぬなんて、悲しすぎるわよね。しかも事故のせいで、頭をどこかにぶつけたのかしら?記憶が一部飛んでいるの。その重大な手がかりのことも、忘れちゃった。わたしはもう、母がまだ生きているかどうかすら、分からないの」
「生きているかどうか……あっ、ちょっと待て」